ロンドンオリンピックは、開幕以前から楽しみにしていた。
だから、開幕式以前から始まった 女子サッカーから毎日・毎晩の様にTVで観戦している。
やはり、スポーツの祭典とも称される様に、様々な競技が次々からTVで中継報道されるのを観るだけで、自然と心が躍ってくる。
そして、参加している人達の参加に至るまでの努力や研鑚の日々がある事を偲べば、どのスポーツ競技であっても、どんな成績であっても、一人ひとりの方が愛おしくさえ感じられます。
でも、オリンピックを利用して何等かの意図が見える場合もあり、心寂しく感じられる場面も少なからずあります。
【 柔道は国技なのか? 】
柔道に関して、日本の統括機関や世界の統括機関の声明文をチェックしていないので定かではないけれど、どうも 柔道は日本の国技として捉えている方が多いようだ。
一個人が愛着を感じてそう捉えているなら問題は少ないが、日本の連盟自体が世界各地に広まりグローバルスポーツに育っている柔道を、今なお日本の国技として認めさせようとして躍起になっている印象を強く受けてしまうのが戴けない。
ずっと以前、オランダのヘーシング選手によって重量級のタイトルを奪われてから、一層遮二無二になって柔道を日本の国技として世界に認めさせようとして、変な感情が渦巻いているように見えてしまう。
例えば、青い柔道着が国際的な試合形式の場で導入されようとした際、日本の連盟が大いに反対をしたと伝え聞いている。
また、判定の仕方や競技ルールについても、日本がイニシャティブを持ってコントロールしようとしているように見受けられる。
その結果として、柔道の選手として参加している方に変なプレッシャーを与えているように思えるのだ。
日本の代表選手達が金メダルを独占し続ければ、国際的な場での発言力も増すし、“国技”としての国民からの期待にも応えられる!と。
【 銅メダルはダメなのか、5位も立派なのでは? 】
柔道競技が始まって、今日(7/31)までに 三階級のスケジュールが終了したが、銅メダルや銀メダルという立派な賞をもらった日本の選手達が異口同音で「 金だけを目標にしていたのに・・ 」という会見発表を行なう姿は不思議というより不気味である。
まして、以前よりも敗者復活戦への道が狭くなった中で、5位という立派な成績を収めた男性選手が泣きながら詫びの言葉を発する会見の様子を見れば、その金メダルを獲る事への異常なプレッシャーの強さを窺わせてくれる。
そして、その様子を当たり前のように報道する報道機関の姿勢にも疑問を感じる。
何故、柔道だけが金メダル獲得を宿命であるかのようなプレッシャーを受け、そのプレッシャーの存在に疑問を持たず何らのコメントやフォローもせずに報道するならば、その宿命プレッシャーを是認している事に他ならないからだ。
多くの競技がオリンピックでは開催されているが、メダルを獲得できる事は多いに称賛できる事だし、仮に総合5位であっても同様だろう。
【 柔道は日本国技と考えるべきなのか? 】
様々なスポーツ競技には、様々な食物がそうであるように、それが生まれ育った地方や国がある。
例えばサッカーは英国で生まれた競技・国技だが、今や全世界で競技人口が最多とも言われるまでになり、強豪国としてスペインやポルトガル、イタリヤやブラジル、アルゼンチンなどがひしめき、決して英国のチームが最強である事を宿命とはされていない。
英国で生まれ、全世界へと広まる(広める)過程に於いて、「国技発祥国=最強」という呪縛をあえて解いたからこそ、国際サッカー連盟( 略称:FIFA、本部はスイス.チューリッヒ )を通じて全世界で統一されたルールの元に多くの人々に親しまれているのだろう。
その上、英国の競技連盟は国際サッカー連盟の中での意思決定に大きな影響力を残し、様々なルール改正などについては大きな発言力を有している。
一方、国際柔道連盟と全日本柔道連盟の関係は全く異なる。
国際柔道連盟は、母体となる欧州柔道連盟が1948年にロンドンで生まれ、その後、1951年に国際柔道連盟へと変わ、その本部はスイスのローザンヌに設置されているなど、日本抜きで国際的組織は体系作られているのだ。
そういう日本と国際柔道連盟との関係は、1952年に日本の加盟が承認されて以来始まり、同年から講道館柔道の創始者:嘉納治五郎氏の次男である嘉納履正氏が国際柔道連盟の会長に就いて国際的な普及に尽力されたとは聞いている。
しかし、英国のサッカーと同様に、発祥国としての誇りは持ちつつ、全世界で愛されるスポーツとして広まる事にもっと大きな関心を払うべきなのに、国技としての意識が日本国内での競技人口に影響を与えてはいないだろうか。
【 もっと、日本国内でも愛される競技になって欲しいが ・・ 】
最初にも書いた通り、どんなスポーツでも観戦は好きだし、オリンピックであれば尚更だ。
きっと、これは僕だけに限らず、多くの人々に共通する気持ちだろう。
しかし、そんな風に注目している場で、「 金メダルが獲れずに申し訳無い 」と会見し、精一杯に力を発揮した後の解放感からの笑顔も無く、報道する立場の人達の公正で的確なフォローも無い姿を見せつけられて、誰が柔道選手になってオリンピックへ出たい!と思うだろうか。
例えメダルさえ獲れなかったとしても、参加した選手達が会見の場では笑顔で発言し、報道する立場の人達はその選手の正当な評価でフォローする姿こそ、次世代の夢を掻き立てる材料になると思う。
重量揚げ競技、女子の最軽量クラス(48 ㎏)で銀メダルの賞を受けた三宅選手の例は、過熱していない適切な報道の例の一つだ。
彼女は、今年で3回目のオリンピック参加となるが、過去のオリンピックでの成績は9位、6位だったが、TV報道ではその経歴を述べた上で正当な評価を与えていたし、彼女自身が最後の試技に失敗して競技を終了したその場で笑顔で観客に手を振って感謝の挨拶をしていた。
きっと、そんな姿をTVで観た人達の中には「 あっ! やってみたい! 」と思う人も居るだろうが、金メダルが宿命の様な雰囲気や報道につぶされて笑顔無く会見する姿を見れば、大半の人はやってみたいとは思わないだろう。
例え、文部科学省が中学校指導要綱で柔道を含む武道の必修化を決めたとしても・・・だ。
【 国民の一人としての責任 】
僕には変な癖がある!と自覚している。
それは、国民の一人として、人類の一人としての責任を考え、時に妄想してしまう癖だ。
目にした現象や事象に対して、単に評価や指摘をするだけでなく、自分自身の責任についても考えてしまうのだ。
今回の柔道の例では、TV会見報道を観た際に違和感を感じるまで、日本の柔道選手が受けている奇妙なプレッシャーの存在に気付かなかった。
そして、そのプレッシャーが彼らを取り巻く関連団体や報道機関から受けたもので、僕個人から直接与えたものではなかったとしても、プレッシャーの存在に気付かなかった事は“共犯者”の一人だったと考える。
だから、柔道を必要以上に国技だと捉えたくないし、メダルを獲れなくても立派だと発言をしていきたい。
でも、少し悩みもある。
それは国籍の問題だ。
オリンピックの場では、生誕国とは異なる国の国籍を取得し、生誕した国では叶えられなかったであろうオリンピック参加の道を切り拓いている人は多く居る。
芸人とした名を馳せている日本の人が、カンボジアの代表としてマラソン競技に参加しようとした例は氷山の一角で、ケニアやエチオピア生まれの人がヨーロッパ各国の国籍を取得して陸上長距離競技の代表選手となったり、卓球王国として有名な中国から別の国の代表として参加など、枚挙に暇が無い。
意外に思うかも知れないが、日本国籍を取得して(取得させられて)オリンピック代表選手として活躍して表彰された例も数多くあるのだ。
では、外観からも明らかに“ 日本人らしくない ”人を代表選手として、他の選手と差別する事なく応援できるだろうか?と、実は少しだけ悩んでいる。
しかし、代表となった人を心の中から応援できるように努力して変わっていきたいと考えているのは確かだ。
オリンピックがナショナリズムを盛り立てて、国威発揚の場として利用している国や地域・民族は過去から現在に至るまで数多くあり、ナショナリズムへの偏った煽りが、戦争や紛争などを正当化させ、人が人を殺す事に疑問を持たなくなった歴史と、今現在そうなっている現実社会がある事を忘れてはならない。
だから、TV観戦に熱中する以外に、「 オリンピック開催がユーロ各国に与える経済的・政治的な影響は? 」という、現実社会でもっと大きな影響を与えている事柄にも眼を向けなくては! ・・・ と、考えてみる事にしようか ♪