昨日は、万葉集の講座。
昨日も、素晴しいお話をお聞きでき、
新しい気持ちになりました。
日本人がごく自然に持っている季節感が、
どのあたりで形成されたのか、
ということが、歌を通して、わかってくる、と。
月といえば秋、という固定観念が、
万葉の時代には、まだなくて、
春の月も、普通に、歌に詠まれます。
月の光というものが、奈良朝のころになると、
美的に歌われるようになりますが、
それ以前、月の光は、
生活に必要な、実用的なものです。
月も星もない夜は、漆黒の闇。
現代人は、経験しにくいことですが、
真っ暗な闇では、出かけられません。
月の光がないと。
巻十では、
霞の向こうに照っているはずの月。
春になって葉が茂り、
その木陰のせいでぼんやりとしか照らない月。
まだ、見えない月。
そういうものが歌われましたが、
平安になると、春の月は、
歌にするには値しない、と切り捨てられていきます。
それで、月といえば、秋という季節感が、
だんだん、日本人に、定着していく。
野遊びについての歌。
万葉のころの、背後に民間の習俗を背負った、
官人の野遊び、というお話が面白いところでした。
奈良時代の官人は、朝早くから公の仕事をし、
昼からは、自分の土地の管理などの仕事をし、
とっても忙しかったようで、そんな中、
春の野での宴は、本当に楽しみなものだったと。
それに比べて、平安後期、鎌倉になると、もう、
武士の世の中。
朝廷の人々は実権を持たなくなり、
掛け値なく、暇。
桜をかざしにして、一日を過ごしている。
春の物憂い感じ。
万葉では、もっと、元気な感じがある、と。
万葉集から、元気をもらえる気がするのは、
そこに、生きていくということの、力強さがあり、
自然の生命力があり、
そういうものが、生き生きと輝いているからでしょうか。
また、生命力をもらいました。
洋司
昨日も、素晴しいお話をお聞きでき、
新しい気持ちになりました。
日本人がごく自然に持っている季節感が、
どのあたりで形成されたのか、
ということが、歌を通して、わかってくる、と。
月といえば秋、という固定観念が、
万葉の時代には、まだなくて、
春の月も、普通に、歌に詠まれます。
月の光というものが、奈良朝のころになると、
美的に歌われるようになりますが、
それ以前、月の光は、
生活に必要な、実用的なものです。
月も星もない夜は、漆黒の闇。
現代人は、経験しにくいことですが、
真っ暗な闇では、出かけられません。
月の光がないと。
巻十では、
霞の向こうに照っているはずの月。
春になって葉が茂り、
その木陰のせいでぼんやりとしか照らない月。
まだ、見えない月。
そういうものが歌われましたが、
平安になると、春の月は、
歌にするには値しない、と切り捨てられていきます。
それで、月といえば、秋という季節感が、
だんだん、日本人に、定着していく。
野遊びについての歌。
万葉のころの、背後に民間の習俗を背負った、
官人の野遊び、というお話が面白いところでした。
奈良時代の官人は、朝早くから公の仕事をし、
昼からは、自分の土地の管理などの仕事をし、
とっても忙しかったようで、そんな中、
春の野での宴は、本当に楽しみなものだったと。
それに比べて、平安後期、鎌倉になると、もう、
武士の世の中。
朝廷の人々は実権を持たなくなり、
掛け値なく、暇。
桜をかざしにして、一日を過ごしている。
春の物憂い感じ。
万葉では、もっと、元気な感じがある、と。
万葉集から、元気をもらえる気がするのは、
そこに、生きていくということの、力強さがあり、
自然の生命力があり、
そういうものが、生き生きと輝いているからでしょうか。
また、生命力をもらいました。
洋司
ありがとうござます。
これからも、久保田先生の万葉講座、お願いしたい次第です。
季節感には、固定観念がかなりをしめていると思いますが、それでも季節の移り変わりを、目や耳、感触や匂いで感じられるような気がするのは嬉しいことです。
春の霞みがかり木陰にかくれるぼんやりした月も、個人的な好きです。恥ずかしがりのお月さまのようで。。。
春の宴など、宴の歌は多く、楽しそうでいいですね。陽気な気分が伝わってきます。
桜をかざしたり、野の花を髪に挿したりと、花や植物、木々など自然との関係が多く万葉集には描かれていて素敵です。
また、月自身は光っていないけれど、太陽の輝きを受けて暗闇を照らしてくれること。日々、太陽や月に感謝しないと。。。と思います。
自然から、たくさんのエネルギーをもらっている感じがします。
万葉集を読んでいて元気な気分になれるのは、久保田さんのおっしゃるとおり、そこに、生きていくということの、「力強さがあり、自然の生命力があり、そういうものが、生き生きと輝いているから」なんですね。納得です♪