Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

こころを満たす生きた水

2019年10月08日 | 日記
 「私、死にたい」「一緒に死のう」こんな言葉が10代のお子さんの口から出たら、それを聞いた親はショックです。詳しい内容は言えませんが、先日ある人の子どもが、その子の同級生の口からこのような言葉を聞いて、驚いてその人に伝えたそうです。そして、その方はその同級生の親を訪問して、子供の状況を知らせたそうです。案の定、相手の親は何も知らず、何か問題があることに気がつかなかったと。このようにまだ、口に出して他者に言えれば未然に止められるものの、何も言わずに、相談することもできず、自ら命を絶ってしまう子ども達もいるという現実に、本当になんとかならないのかと胸が痛みます。

 子ども達(大人も)は、自分が何で悩んでいるのか、何が問題なのかさえわからずに、そして何かサインは出ていても、解決方法を知らず過ごしてしまう、というケースがほとんどではないでしょうか。そこに相談できる親、お兄さん、お姉さん、カウンセラー等と話す機会があれば、その子たちは幸せです。しかし、相談する人がいたとしても、自らそこまでたどり着けない子供もいるでしょう。自分自身の10代を振り返ると、まさに心の中に不安定なものを抱えていましたが、それを親や他人相談することなく、表面にださず、よって色々心身に支障がでたものです。一方で、死のうと思ったことはありませんでした。おそらく、小さい頃から親に教会に連れていかれ、神様がいて、人間を創ったことをシンプルに信じていたので、よって自らの命を絶つことは「してはいけないこと」だと無意識に思っていたのかもしれません。しかし、神様が単にいて、困った時は助けてくれるということだけでは、自分の問題を解決する存在としては結び付かず、虚しい思いのまま、社会人を続けたものです。大人になってもその心の深いところにある、満たされない思いは続いていました。そう、ある方に出逢うまで。。。

 昔、ある村に、一人の孤独な女性がいました。彼女は様々な理由で結婚を5回し、6回目は相手と同棲をしていました。よって、その小さな村の中では、人から白い目でみられ、女性たちのコミュニティーから仲間外れにされていたので、水道のなかった時代、ひと目をさけて、日中の暑い最中に町はずれにある井戸に水を汲みにいっていました。するとそこへ、旅の途中の一人の男性が現れ、彼女に声をかけます。「水を飲ませてほしい」と。この見知らぬ男性はそこから少しづつ彼女と会話をかわしていき、彼女が抱えている問題、真の必要を引き出します。彼女のことを知らないはずのその男性は、彼女の心の深い部分での飢え渇き、そして絶望しながらも救いを求めていることを、自覚させていきます。そして、彼は彼女に飲んだらなくなる水ではなく、なくならない「生きた水」を与えることができると話されます。彼女は結婚に対して、社会に対して、人生に対して満たされない虚しさを持ち、また地域から疎外され、寂しさ、悲しさを抱えていた。この女性は自分を満たしてくれる「本当の愛」を求めていても得られずに、その心の渇き、虚しさに蓋をしたまま、とりあえず生きる為に水は汲みに行き続けていた。しかし、その蓋を開けてしまった男性がいた。しかも、彼女の心の渇きを満たしてくれる人が、その男性であり、生きた水であった。そして彼女の先祖が信じて来た神が送った、メシヤ:救い主が、その目の前の男性だと知らされた。彼女はその救い主と出会い、信じて、ようやく心が満たされ、人生が180度変わり、この喜びを村の人々に大胆に伝えたのである。それを聞いた村の人々は、彼女の言葉に耳を傾け、その救い主を村に向かい入れ、また信じた。

 この話は、聖書に記されているイエス・キリストの話です*1。イエスは、特にこのような社会から疎外されている人々、絶望している人々や、病いを患い治る希望もなく、様々な問題に縛らている人々のところに直接行かれ、癒やし、寄り添われ、救いを与えられました。このイエスご自身こそが、私たち人間の心の飢え渇きを満たせる方、救い主であるということは、2千年前も、現代も、そして将来も変わらないのです。人は誰でも、物資的充足感だけでなく、存在を認められているという承認欲求、愛されているという安心感により、心が満たされることを求めます。そしてそれが完全に満たされないという虚しさを抱え、他のことで紛らわすことができなくなると、生き続けることさえ辛く思うのではないでしょうか。だからこそ、私自身もそうでしたが、心を満たし続け、その喜びが泉のようにふつふつと湧き出つづける、永遠の命へとつながる、生きた水であるイエスに出逢う必要があります。イエスはいつでも求めている者に、聖書のことばを通して、信じている人を通して現れて下さります。イエスはご自分の命を十字架で犠牲にしてまでも、私の神に背をむけていたという根源的な罪を赦すため、絶望に捕らわれた状態から解放するために、救い主として来て下さったことを、神様に心から感謝しすることができます。この救いの喜びがある限り、人生にどんな困難が起こっても(この世に生きている限り問題フリーではないので)、共にいて、助けて下さるという安心感に支えられています。 

 「人間のこころには空洞がある。」そ空洞のゆえに人は空しさを覚えそれを満たそうとして地位や名声、学歴や財産、お金や快楽などをはめ込もうとする。しかし、どれをどれだけ入れても、ピッタリする物はなく、むなしくなる。「そのこころの空洞は、神様のかたちをした空洞であり、神様しかぴったりと満たすことはできない。」と。 パスカルという人がその著書 「パンセ」に記しています*。こころの空洞をキリストにあって、神様に埋めてもらえることを、多くの人に知ってほしいと祈り続けます。様々なことが起こっても、主の愛に支えられ、心のうちに喜びが湧き、全てのことに神様に感謝して日々過ごしていきたいと、願いつつ。
 
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」イエス・キリストのことば マタイによる福音書11章28〜30節

*1 イエスとサマリヤの女  ヨハネによる福音書4章1-42節、 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」 同13-14節

*ブレーズ・パスカル(1623年生)- フランスの数学者・物理学者・哲学者、キリスト教神学者、発明家、実業家 。『パンセ』(仏:Pensées)は、晩年思いついた事を書き留めた記述を、彼の死後に遺族などが編纂し刊行した遺著。 ちなみに、天気予報で用いられる気圧の単位「ヘクトパスカル」 も、パスカルが大気の圧力の研究をしたことからきている。