Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

何によって心を強くするのか

2019年10月01日 | 日記
「これを食べればガンにならない!?」毎日のように、TVでは健康に関するバラエティ番組、特集が放映されていますが、情報が多すぎてわからなくならないでしょうか。少なくとも「これだけ食べれば大丈夫」という情報は信憑性が疑われます。結局、バランス良く、なるべく自然に近いものを食べ、適度に運動し、ストレスをかけないようにすれば、病気の予防となるかもしれません。しかし実際、現代社会に生きる限りそうできないからこそ、皆が情報を求め続け、とにかく試してみるのでしょう。
 食べ物といえば、日本ではあまり見られない光景ですが、伝統的ユダヤ人たちは独特の食物規定を持って生活しています。欧米では、彼らはユダヤ人街を作り彼ら独自の生活しています。彼らは、他者と変わらぬ文明と教育を利用していますが、それでも数千年もの間彼らの法律(律法)を守って生活しています。例えば、服装、髪型も独特ですし、毎年お祭りと儀式を守り、食物規定(食べて良い物と悪い物)に従い、安息日(働かない日、土曜日)を守っています。豚肉、甲殻類、うなぎ系、チーズバーガーも食べられません。もちろん、血筋はユダヤ人でも、一般人と同じ生活スタイルをしているユダヤ人も世界各国大勢います。しかし、この生活・宗教スタイルが彼らのアイデンティティーであり、そして迫害を受けながらも、数千年にわたり各国に散らされても、人種を保ち続けてこられた「強さ」なのかもしれません。
 ユダヤ人はこの律法と伝統を守ることが、彼らの信じる神の前で正しく、天国へ行けると信じています。つまり、全て自分たちの”行い”にかかっています。2千年前に、イエス・キリストはご自身もユダヤ人として生まれて、30歳位まで一般市民と変わらない生活してきていましたが、宣教活動を始められて、神の国の福音を宣べ伝えられた時、この律法を人々が守ることを監視していた宗教家達と対立しました。なぜなら、宗教家たちは心を伴わない形骸化した儀式を神に捧げて敬虔ぶり、生活の細部に亘る細かい律法を作り守るよう人々に重荷をかけ、憐みや慈愛もなく守れない人を罰し、守れない人々を罪人として、社会から村八分にしていました。こうして神様が本来与えた掟の趣旨から離れ、人の命よりも、法律を守ることを優先していたので、イエスはその偽善をつくため、あえて安息日に病人を奇跡で癒されたのです。
 イエスは彼らを単に責めるためではなく、彼らがその偽善に気づき、悔い改めて、神様に立ち返ってほしいと、また法律を守るという「行い」では救われない、神様が救い主として送ったご自分を「信じることが救い」であることを伝えたかったのです。しかし、ほとんどのユダヤ人の宗教家の心は頑なで、自分たちの地位を脅かすイエスを憎み、拒み、十字架につけました。ところが、神様はこのユダヤ人の頑なささえもご自分の計画に用いられました。つまり、イエスが十字架にかかり、全人類の罪を負って身代わりに罰せられる、復活するというのが、神様の救いの計画でした。そして、ユダヤ人も、いつか救い主があのイエスだったと分かり、信じて救われる日が来ると、聖書に預言が記されています。*1
 現代でも、ユダヤ人以外の間でも似た現象が見られないでしょうか。「これこれをすれば、大丈夫」「これこれをしないと、成功しません」と、行いの有無でその人の価値が決められてしまう。また、元来は人を守るために作られた法律も、いつのまにかて形骸化し、人の命が、人の尊厳が損なわれても、法律順守が優先されしまうこともあります。様々な情報が飛び交い、何が良いことなのか見極めるのが難しい時代です。よって自分で自分の心を強くし、何かをすることで、自分を守らなければならない社会であり、それが出来ない弱い人々は自信をなくす、卑屈になる、ある人は心を病んでしまいます。
 しかし、キリストのもたらす世界では、この世と異なり、その人がした事、しなかった事でその人の価値は決められませんし、何かの行いが救いの条件ではありません。あえていうなら、キリストを信じるだけです。もし、神に認められるために、何か条件をつけたとしても、それを完璧にできる人間はいない、だから無条件で与えられるのがキリストによる救い、恵みです。神の恵みとは、「受けるのにふさわしくないものが、神の一方的な好意により与えられるプレゼント」のことを言います。通常プレゼントをもらえるのは、誕生日、お祝い、お礼等、何かもらえる理由があります。しかし、神様の与える恵みは、その人がプレゼントをもらえる理由もなく、かえって受ける資格がない、ふさわしくないくとも、人である限り全ての人に与えられようとしています。その最大の恵というのが、イエス・キリストご自身です。
 その神様からの最大の恵:キリストを受け取れば(信じれば)、さらに恵に恵みが加えられます。なぜなら、今迄、当たり前に思っていたことや、自分の才能、能力、家族、自分で得た地位、資産さえも、神様が恵みとして与えて下さったことだと思えて、神様に感謝できるように変えられるからです。すると、傲慢だった自分に気がつき、謙遜にさせられます。一方元来謙遜な方は、自分のおかげではなく「皆様のおかげ」だと言われるでしょう。それはそれで良い考えですが、神様の恵を知る者にとっては「皆様のおかげ」ではなく、全て「神様のおかげ」です。つまりその「皆様」から与えられる支援、助けさえも、神様がそのような人々を周りに置いて下さった、神様の恵みと考えるからです。このようにして、恵みがわかると全ての見方も変わり、恵が増し加えられ、様々な状況に対しても、神様が支えて下さるという信頼感が与えられ、心が強められます。
 キリストを信じる時は、自分がふさわしくない、資格がない者だと気がついた時です。なぜなら、自分が結構いけてると思う人は、「自分自身で充分足りてます、キリストに赦してもらう罪もないし、自分の人生、自分次第だ」と考え、キリストの救いは必要としないからです。恩恵は受けたいけど、自分の罪を認めたくない。神にコントロールされたくない、自分で生きる!、そのように強く生きられる人は自分の意志である程度強くなれますが、限界があるでしょう。もしかしたら、そんな強い人でもあることが起こって、自分の限界を感じた時が、キリストを求めるチャンスかもしれません。実は信じられること自体も、神様の恵だからです*2。私は、一人でも多くの人が、シンプルに、キリストという神の恵を受け取られ、恵みによって心を強くされてほしいと願います。日々神様に感謝し、キリストにあって周りの人々にも感謝しつつ。。。

「さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。 」ヘブライ人への手紙13章9節

*1 「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」ゼカリヤ書12章10節
*2 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」エペソ人への手紙2章8節
(引用、口語訳聖書)