Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

休日は何のために

2018年11月15日 | 日記
 先日、ある方と話していて、その方のお子さんが勉強が忙しくなってきた為、日曜に教会にいく時間がない、その日くらい休みたいと子ども自身が思うようになってきて、またその他の事情もありここ数週間教会に行っていないと聞きました。もともと、その中学生のお子さんは、昨年のクリスマス会に参加し、聖書のメッセージを聞いて、自分自身で教会に行こうと思い立って行きだしたという経緯があります。そこで私はそのお母さんに、日常生活で勉強、部活、家族との時間など忙しいからこそ、あえて時間を作って週一回でも教会に行くことをお子さんに励ますことをお勧めしました。なぜなら、教会に行っている間が唯一、非日常の時間であり、日常の忙しさから離れることができる時間で、それが心にとって必要な休息となるからです。そのような時間はあえて作らないと、しなければならないことに追われて、あっという間に過ぎていきます。人には肉体的にも、精神的にも休息が必要です。勉強を効率的にするには休息、気分転換が必要です。


しかし、もし人が親や誰かに言われて強制的に教会に行っているのであれば、いずれは行かなくなるものです。私は両親がクリスチャンでしたので、幼いころから日曜は教会へいくのが習慣でした。しかしそれは自発的に、信仰を持って行っていたものではなかった為、大きくなると礼拝に行くことがおっくうになりました。それでも慣習で行っていましたが、最終的に自分で信仰を持ち、行きたいと思って教会に行くようになったのは30代の時でした。ですから、親がしてあげられることは子供のために環境を整え、勧めることだと思います。以前は私は恵まれた環境に気がつきませんでしたが、今はそうしてくれた両親に感謝しています。子供自身が行きたいと思って、忙しくても工夫して行ければベストです。何事も、「~しなければならない」と義務になると重荷になりがちで、本来の意図が失われて形骸化してしまいます。


 約2千年前、当時のユダヤ人の指導者たちはイエス・キリストが安息日(ユダヤ教の法律で定められた仕事をしてはならない日、土曜日)に病人を癒すことが法律違反だと非難して、イエスを訴えようと機会を見計らっていました。しかし、守る事ばかりに重点をおき、病人やケガ人、死にそうな人を安息日だからとほおっておくことが正しいことでしょうか。手当や治療も「働く」と解釈する彼らに、法律順守と人とどちらが大切なのかを気付かせるため、神様の与えたこの法律の本来の意図は何かを教える為、神の子であるイエスは安息日にも人を癒され、人々を助けるために奇跡をおこなわれました。クリスチャンも、このようなユダヤ人指導者たちの様になる可能性があります。教会が作った伝統、規約の通りにしない人を違反だと責めたり、杓子定規な愛のない判断をしてしまうことがあるからです。


 私たちの教会では、日曜の朝だけでなく、夜7時半からの夕礼拝を開催しています。それは、日曜日に休むことのできない仕事、例えば医療関係、警察など24時間のシフトで働く方々が礼拝に来られるためでもあります。また平日にも集まれる用に昼と夜に集会を開いています。日曜の朝でなくともよいのです。曜日や、形式に捕らわれるのではなく、強いられてではなく、この忙しい世の中で平和に、希望を持って生きていく為には、神様から安息を与えられる時間を取ることだと思います。安息日は神様を礼拝する日でありますが、同時にそのことが人の為でもあります。神さまを覚えて心に平安を持てる礼拝の時間を取ること、それこそが安息日を守ることではないかと。そして、神様に感謝し恵みを受けて、その受けた恵みを周りの人に流していけるように聖霊の力により変えられていきたいと思わされました。


今日の聖書のことば 「安息日は人のために造られたのであって、人が安息日を守るために作られたのではない。」マルコによる福音書2章27節