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聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

『教誨師』 大杉漣の最後の主演映画

2018年11月18日 | 日記
『教誨師』 大杉漣の最後の主演映画


  俳優の大杉漣さんが今年初めに逝去されましたが、その後、彼の最初のプロデュースにして最後の主演映画がこの10月に公開されました。この映画は教誨師を務めるキリスト教の牧師である主人公が、6人の死刑囚と対話する内容です。教誨師とは、刑務所、少年院などの矯正施設において受刑者の道徳心の育成や心の救済に務め、彼らが改心できるよう導く人で、日本では大多数が僧侶の方々で、キリスト教の牧師・神父もいます。

 私の夫も教誨師をしています。ただ、彼の場合は死刑囚向けではなく、刑の比較的軽く、将来的に出所する予定の受刑者の方々に、刑務所内で聖書を通して教えを話しています。教誨を受けるのはあくまでも自由参加で、参加したい受刑者だけが月に1-2回集まり、講話の後に受刑者との質疑応答の時間があるそうです。更に個人教誨といって、個別に教誨を受けたい方の要望にも応じます。おそらく、この受刑者の方々は刑務所に入るまで、聖書のことばも、教会とも無縁である方々が多いのではないかと想像しますが、彼らは聖書の話を聞いて、様々な質問をされるそうです。

 日本人の多くはこの受刑者に限らず、人生の中で教会に関わったり、聖書を読む機会があまりないでしょう。世界ではキリスト教は人口の約3割、しかし日本では人口の1%以下という数字からも明白です。しかし、彼らにとって教誨の話は、罪を犯し刑務所に入らなければある意味、聞く機会がなかったのかもしれないし、耳を傾ける機会もない希少な経験でしょう。日本人にとって罪とは、一般に犯罪、つまり法律に反することだけが罪という認識ではないでしょうか。

 しかし、聖書でいう罪とは、根本的に人間を創造された神の存在を信じないことです。そして神を信じるといっても、神ならどの宗教でも同じというのではなく、キリスト教というように、イエス・キリストを通しての神を真の神として信じることです。つまり、法律違反や倫理的にしてはいけないことはその大元の罪:神を信じないことから派生しているといえます。神を畏れる人は、法律違反も倫理的なことも、神に対して犯す罪と考え、ブレーキがかかります。なぜなら、神は人間を愛するために創造されたので、人の命を大切にされるからであり、人間同士で互いに愛し合いなさいというのが教えだからです。

 もちろん、私たちクリスチャンは、神が持つ愛で人に接することが出来ないのが正直なところです。何度も失敗を犯すし、人を傷つけるつもりがなくても結果的に傷つけてしまうこともある、不完全なものです。そんな不完全である自分を認め、神様にごめんなさいと悔い改めると、たとえ人は赦してくれなくても神様は赦し、もう責められる事もないのです。なぜなら、そのために代わりに、イエス・キリストが十字架にかかってすべての罰を負ってくれたからです。つまり、人生やり直しはいつでもできる。死刑囚でさえも。この世で生きているだけの人生ではなく、死んだ後の天国での命が、キリストを信じることで保障されるという信仰、希望が与えられるからです。この映画の作成に関わった方々にクリスチャンの人がいるかどうかは不明ですが、観る方に生きるとは、死ぬとは、希望とは何かを考えさせるきっかけになる映画として、お勧めしたいと思います。

 イエス・キリストのことば 「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」  ヨハネによる福音書12章46-47節