北京郊外にある川底下村もなぜ「洪洞の大槐樹」から振り分けられてきた人たちなのかというと。
それはモンゴルとの攻防戦に備えるため、明初、朝廷があらゆる山中の幹線路に移住集団を入植させ、
防衛システムを作り上げていったからだ。
本来は山深い谷の中にあり、日照時間さえろくに確保できないような山肌が人間の生存に向いているはずはない。
それなのにここに人間の住む集落が存在する理由は、ひとえに「無理やり」、「強制的に」手配されたからだ。
それはこの谷が、モンゴルから北京に侵入してくる通路に位置するからであり、
首都を敵の手から守るために人間が駐屯している必要があったためである。
しかし清代に入り、モンゴルとの敵対関係が解消してからは、逆に商品や民間人が行きかう「商道」となり、
この小さな山間の村にも、やせた土地での苦しみが多いだけの、実り少ない農業や牧畜に従事するよりも
遥かにましな恩恵をもたらしてくれるようになった。
川底下村の家屋が皆ただのあばら家なら、いくら古いからといって、
わざわざ市内から車を2時間近く飛ばして実に来る価値はない。
立派な構造で作られ、少しは小金を貯めた家には彫刻があしらわれているからこそ、美しいと思うのだ。
民国時代、村内には、瑞福堂、瑞慶堂、三義堂、保全興等の商家と
何軒かの「ロバ店」(つまりはキャラバン宿)があり、「八大家」と呼ばれていたという。
中庭に続く通路。
中庭は食堂に変身。
到着した時には、すでに1時を回っていたので、あまりほかの店を吟味もせず、決定。
外国人の多く訪れる有名な観光スポットだけあり、キンキンに冷えているビールも出てきて、一同大満足。
(食事より酒の話が一番になって、失礼。。。)
とうもろこし干しは、絵になるー。
中庭に陣取る大きな釜3つ。
中国北方で田舎飯の代表といえば、「とうもろこし焼きパン」である。
かの西太后も愛したというとうもろこしの粉を水でこねてなべ肌にべたり! と貼り付け、じっくり焼いた素朴なものだ。
私ははっきりいって、ぱさぱさ、もさもさ、味なし、であまり好きではない。
しかし雑穀として腹持ちがよく、食物繊維たっぷりで腸のお掃除にばっちり効果を発揮するだろうことは、容易に想像できる。
かくしてたまに車に乗っかって田舎めぐりをしにきた都会の北京っ子らは、このぱさぱさ、もさもさパンを、
私と同様に「大しておいしくもない」と認識しつつも、薬だと思って喜んでほおばるのである。
「青汁」を飲む日本人のような気分だろうか。(へんなたとえ??)
このストーブ、どうやら燃やしているものは、「適当にその辺にあるもの」のようだ。
割り箸、割り箸のビニールの袋、白酒の入っていた包装箱といった生活ゴミから、その辺の山肌で拾ってきた薪や木の切れ端まで何でも燃やしているらしい。
とにかくただで手に入り、現金の支出が派生しないことに主旨があるようだ。
食後、おなかも落ち着いたところで村内の散策に出かけた。
民家を出たメインストリートはこんな感じ。
お土産屋さん。今回は余裕がなかったので、立ち寄らず。
以前に立ち寄った際、中で売られているグッズは、なかなか洗練されていた。
路地裏を入っていく。
村は山肌にへばりつくように建っているので、奥から上に上がっていく。
だんだんと急な石の階段を上るようになる。
この上に住んでいる人は、大変だろうなああ、と思う。
物資の運び込みに車を乗り付けることができないのだから、すべて人力で背負っての運び込みだ。
そんな不便な場所、生産性を求めるなら離れていってしまうのは当然。
現在の村民は29户、たったの93人である。ほとんどが中高年であることは想像に難くない。
ほぼ100%が、民宿かレストラン経営だろう。
まさにテーマパークにならなければ、打ち捨てて都会で発展を目指すのだろう。
この山奥の農村のほとんどがそういう運命であるように。
それはモンゴルとの攻防戦に備えるため、明初、朝廷があらゆる山中の幹線路に移住集団を入植させ、
防衛システムを作り上げていったからだ。
本来は山深い谷の中にあり、日照時間さえろくに確保できないような山肌が人間の生存に向いているはずはない。
それなのにここに人間の住む集落が存在する理由は、ひとえに「無理やり」、「強制的に」手配されたからだ。
それはこの谷が、モンゴルから北京に侵入してくる通路に位置するからであり、
首都を敵の手から守るために人間が駐屯している必要があったためである。
しかし清代に入り、モンゴルとの敵対関係が解消してからは、逆に商品や民間人が行きかう「商道」となり、
この小さな山間の村にも、やせた土地での苦しみが多いだけの、実り少ない農業や牧畜に従事するよりも
遥かにましな恩恵をもたらしてくれるようになった。
川底下村の家屋が皆ただのあばら家なら、いくら古いからといって、
わざわざ市内から車を2時間近く飛ばして実に来る価値はない。
立派な構造で作られ、少しは小金を貯めた家には彫刻があしらわれているからこそ、美しいと思うのだ。
民国時代、村内には、瑞福堂、瑞慶堂、三義堂、保全興等の商家と
何軒かの「ロバ店」(つまりはキャラバン宿)があり、「八大家」と呼ばれていたという。
中庭に続く通路。
中庭は食堂に変身。
到着した時には、すでに1時を回っていたので、あまりほかの店を吟味もせず、決定。
外国人の多く訪れる有名な観光スポットだけあり、キンキンに冷えているビールも出てきて、一同大満足。
(食事より酒の話が一番になって、失礼。。。)
とうもろこし干しは、絵になるー。
中庭に陣取る大きな釜3つ。
中国北方で田舎飯の代表といえば、「とうもろこし焼きパン」である。
かの西太后も愛したというとうもろこしの粉を水でこねてなべ肌にべたり! と貼り付け、じっくり焼いた素朴なものだ。
私ははっきりいって、ぱさぱさ、もさもさ、味なし、であまり好きではない。
しかし雑穀として腹持ちがよく、食物繊維たっぷりで腸のお掃除にばっちり効果を発揮するだろうことは、容易に想像できる。
かくしてたまに車に乗っかって田舎めぐりをしにきた都会の北京っ子らは、このぱさぱさ、もさもさパンを、
私と同様に「大しておいしくもない」と認識しつつも、薬だと思って喜んでほおばるのである。
「青汁」を飲む日本人のような気分だろうか。(へんなたとえ??)
このストーブ、どうやら燃やしているものは、「適当にその辺にあるもの」のようだ。
割り箸、割り箸のビニールの袋、白酒の入っていた包装箱といった生活ゴミから、その辺の山肌で拾ってきた薪や木の切れ端まで何でも燃やしているらしい。
とにかくただで手に入り、現金の支出が派生しないことに主旨があるようだ。
食後、おなかも落ち着いたところで村内の散策に出かけた。
民家を出たメインストリートはこんな感じ。
お土産屋さん。今回は余裕がなかったので、立ち寄らず。
以前に立ち寄った際、中で売られているグッズは、なかなか洗練されていた。
路地裏を入っていく。
村は山肌にへばりつくように建っているので、奥から上に上がっていく。
だんだんと急な石の階段を上るようになる。
この上に住んでいる人は、大変だろうなああ、と思う。
物資の運び込みに車を乗り付けることができないのだから、すべて人力で背負っての運び込みだ。
そんな不便な場所、生産性を求めるなら離れていってしまうのは当然。
現在の村民は29户、たったの93人である。ほとんどが中高年であることは想像に難くない。
ほぼ100%が、民宿かレストラン経営だろう。
まさにテーマパークにならなければ、打ち捨てて都会で発展を目指すのだろう。
この山奥の農村のほとんどがそういう運命であるように。
「移住集団」ですか。
昔からそんな風に領土を確保してきましたもんね。
実はここしばらく、VPNは機能が完全麻痺するわ、Gooにはまったくアクセスできないわ、でブログ作業が一切できない日々が続いておりました。
何か特別な事件があったというわけでもないのに、何ゆえにここまであれこれと制限するのか、よくわからないのですが、・・・・。
どうやらそういった「緊張」も解けたのか、少しアクセスできるようになってきたので、やっとコメント取り扱いもできるようになりましたー。
遅ればせながらで申し訳ないー。