いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語30、咸安宮官学の授業内容

2016年12月20日 23時03分14秒 | 和珅少年物語
和珅兄弟の学校生活が始まった。
教師陣は翰林が九人、学生が九十人なので、学生十人を翰林一人が受け持つことになる。

満州語と騎射の先生もウラ人と旧満州から九人招聘する。
これを見ると、どうやら一クラス十人、九クラスは、おそらく九学年に分かれていたのかと思われる。

「学生の年齢には開きがあるので、歩射を習える者は、咸安宮門前の空き地で教えるべし。
 騎射を習える者は、教えることができると判断したら、教えるべし」。

と、内務府大臣は奏文に書く。

歩射は、馬に乗らず立ったまま弓を射て的にあてることである。
確かに入学年齢が十三歳で全員が都会育ちであることを考えると、ほとんどの児童が馬にも乗れなかっただろうことは、想像に難くない。
馬にも乗れないのに、いきなり乗馬で駆けたまま弓を引くなど、教えれるものではないだろう。
 

どんな授業が行われていたかは、試験内容を見て想像してみよう。
雍正十二年(一七三四)、学校設立から五年がたったとき、翰林侍読学士の保良が上奏している。

「昨今の学生らの業績は華々しいが、皆成長し、二十歳を過ぎた生徒が十人中四、五人にも上る。
 定期的に試験を行わなければ、いつまでも通わせていたのではきりがない。

 ちょうど宗学で五年に一度試験をする制度があるので、これに習ってはどうだろうか。
 まだ年齢が幼い者は、成績の基準とし、成人した者は成績順にその配属先をきめるとよいと思う。

 そうすれば学生らに励みになるだけでなく、満漢の教習らが日頃まじめに教えているかも見ることができる」。


この五年に一度の試験は、中央から大臣、司官、内務府司官まで派遣され、三日に分けて荘厳に行われる。
一日目は、漢文の試験「四書」から二つ問題が出される。
二日目は翻訳、楷書、満州文字の試験、上諭の一文が出題され、三日目は騎射と歩射の試験を行う。

試験会場は、漢文と満州語の試験が掌儀礼衙門(がもん、役所)にて、騎射と歩射は正黄旗侍衛教場である。
 
試験会場は、文武ともに学校ではない。
筆記が行われた掌儀礼司の衙門(がもん)は、内務府の「七司」の役所の一つで、
宮廷の式典などの「礼」に関する事務を司る。

西華門を出てすぐ南、紫禁城のお堀に沿って建つので、学校からは目と鼻の先の距離にあることになる。

なぜ学校の試験が宮廷の式典担当機関で行われたか。
それは、勉学とは「礼」を学ぶことであり、孔子から脈々と受け継がれる儒教の礼節に則るという点では、
国家のつかさどる式典と同じ意義があるという考えである。

厳かな試験は「礼」に則り、行うべし、ということである。

実技はさすがに紫禁城内では行われなかったようだ。
会場は八旗兵の教練場である。

恐らくは日常の授業も教練場まで出向いて実施されただろう。
紫禁城内に馬を全力で駆けさせ、遥か遠くの的に矢を飛ばすほどの空間があったとは思えないからである。

先生が引率して、数日に一度、馬場まで行って練習したと思われる。


  

北京動物園の中にある清の農事試験場跡。



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