いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楠(タブノキ)物語1、始まりは承徳の澹泊敬誠

2017年03月17日 15時45分42秒 | 楠(タブノキ)物語
「承徳」は、遊牧帝国のハーンである清朝皇帝のもう一つの顔にとって、「夏都」である。
夏と冬で統治者が都さえも移動させる遊牧国家の特徴を体現している。

北京から東北に150㎞。
「避暑山荘」は、紫禁城、円明園などの北郊外の別荘群に次ぐ重要な「陪都」に当たる。
しかし毎年使われるわけではなく、そして年中使われるわけでもない。

そんな中で乾隆帝は、歴代皇帝の中で最も足しげく通った皇帝である。
乾隆年間合計六十年、加えて太上皇となってからの三年を合わせ、即位以来六十三年のうち、五十四回訪れている。
一夏を過ごすためであり、大抵は旧暦の五月に入り、十月から十一月まで半年近く滞在する。
 
逆にいえば、一年の半分は使わない。

ここで行われるのは、清朝皇帝の草原の「ハーン」としての行事だ。
モンゴルや各遊牧民族の族長を一堂に集め、皆で「巻き狩り」を楽しむ。
「狩り」という遊牧民としての「本領」を確認し合いつつ、軍事演習も兼ねるのである。

夏の間、東はシベリアから、西は天山山脈の麓に至るまで、さまざまな遊牧民族が集まってきた。
清朝の皇帝が、農耕民族である漢族の長(おさ)としては決して見せない、別の顔をするための場所なのである。

承徳の「避暑山荘」では、春の皇帝の滞在前、
冬の間におざなりになっていた手入れの最終点検のために人々の動きは慌しかった。
 
留守部隊はもちろん置かれた。

熱河での巻き狩りの規模は、一万人といわれる。
大部分は、「避暑山荘」の周囲に営地を指定され、そこに天幕を張って滞在するが、「避暑山荘」の中も数百人は出入りするようになる。
 
準備作業のために事前に京師から先発部隊が送り込まれていた。
特に中原式の四合院様式建築の手入れ、掃除には、徒弟制度の中で鍛え上げられた宦官たちが必要になる。
 
これまでにも、清朝になってから、なぜ宦官の数を大幅に削減することができたか、という話題に触れてきた。
それは明代では宦官が引き受けていた皇帝一家の「お家事情」に関わる買い付け、
外部での交渉、表向きにしにくい所用なども「包衣(ボーイ)」と呼ばれる満洲時代からの家奴らが引き受けてきたからである。

が、部屋の掃除や雑用などの家事まではさすがに彼らにさせることはなく、明朝の伝統どおりに宦官を使ってきた。
いわば、家政業務のプロ集団である。
 

避暑山荘の「表の顔」は、「澹泊敬誠(たんはくけいせい)」、
重大な式典を行う場所として、紫禁城の太和殿に当たるといわれるが、こじんまりとした雰囲気はどちらかというと、養心殿のムードだ。

紫禁城において、国家規模の大きな式典は壮大な「外朝」の「太和殿」で行われる。
数千人は入れるだろう果てしない石畳が続く広場は、紫禁城の象徴的なイメージともいえる。

その先に立つ太和殿には、さらにマンション四階分はあるかと感じる石段を延々と登り、
その果てには圧倒的規模で見る者を威圧する宮殿が目の前に開ける、という視覚効果と演出を狙った仕組みになっている。

数千年かけて練り上げられてきた中原文化の成熟した様式だ。
 
しかし清朝の皇帝らは、普段の大臣らの謁見にこの大仰な場所を使っていたわけではない。
国の一大事が決まる本当の「政治の中心」の場は、雍正帝以後は「養心殿」となる。
つまり皇帝の寝起きする「自宅」の応接間だ。

こちらはごくこじんまりした瀟洒で居心地いい建物である。
天井低く、床にはふかふかした絨毯が一面に敷き詰められ、壁という壁には、本棚やら飾り棚やら、隙間もないほど埋め尽くされている。
広さも謁見者が五人を越えるとやや手狭に感じる程度の大きさしかない。
 
広大な紫禁城の中で日常生活を送る皇帝は、実をいえばこのごく小さな空間の中ですべてを済ませていたのである。
朝起きて十数歩も歩けば行き着く応接間で政務も行い、
会う必要のある大臣らが謁見に訪れ、夜は指名した妃も招き入れられ、寝起きも済ませていた。
 

避暑山荘の「澹泊敬誠(たんはくけいせい)」殿は、どちらかというと、規模や作りが養心殿系統である。

こじんまりと「我が家」風にまとまっている。
構造、造り、内装や飾りの雰囲気も養心殿そっくり。
「夏都」に移動しても、居心地がいいと感じるアイテム、空間の広さはほぼ同じものが揃っていたらしい。

では、太和殿で行うような荘厳な国家式典は、避暑山荘においてはどこで行うのか。
ここはあくまでも清朝皇帝が「ユーラシアのステップ草原の大ハーン」を演じる場所である。

そこはちゃんと演出が考えられており、避暑山荘の北部分には、広大な空き地が用意されている。
そこに巨大なハーンの天幕を張り、陣容を整えて式典が行われるのであった。
 
今でも避暑山荘を訪れると、事情を知らなければ無意味にしか思えないだだっ広い空き地が北部分に広がる。
実は往年、「空き地」は天幕と侍衛、馬にラクダに、と埋め尽くされていたのである。

さて。
澹泊敬誠殿である。

創建は康煕五十年(一七一一)だが、乾隆十九年(一七五四)に「総楠木造り」に改築された。
紫禁城を始め、中原の宮殿建築は原色の派手な色彩で塗られるが、
「楠木」はそれだけで富の象徴のため、一切の色彩を塗らず、木の素材をそのまま生かした造りとなっている。

日本人の目には、その渋い色の暗さが重厚に映り、どことなく親近感を覚える。

楠(くすのき)は、木材の中でも最高素材とされる。

漢字の使い方にどうやら日中で違いがあるらしく、
中国語でいう楠木(ナンムー)は、日本語でいう楠(くすのき)ではなく、
日本では、正しくはクスノキ科のタブノキというらしい。

よって誤解があるといけないので、ここでは、タイトルも「タブノキ物語」にした。

ともかくも、「楠木」は、高級木材である。
木地に光沢があり、黄金のような輝きがあるものは特に「金糸楠木」と呼ばれ、珍重された。

澹泊敬誠殿ももちろん金糸楠木で出来ている。
木材の表面は桐油を塗りこまなくても渋く底光りし、使い込めば使い込むほど輝きを増す。

香りが強く、芳香のために防虫効果があるほか、冬は暖かく、夏はひんやりと冷たく、亀裂・変形なく、
硬すぎず柔らかすぎず加工しやすいなどの特徴は椅子、家具、棺おけとしてこれほどよろしきものはない。

後には西太后、袁世凱の棺おけも楠木製だったといわれる。
さらには大木となり、軸が真っ直ぐで節が少ない、水に強いために建材、造船材としても理想的である。

……というあまたある特徴のために、家具によし、仏像によし、棺おけによし、
衣装・書籍の保存入れによし、柱・梁によし、船によし、とすべての用途において万能である。

しかし建材、--特に大規模な建築物の屋台骨として巨大な建材の重さに耐え得る柱としての木材は、巨木でなければならない。

楠木は生長に時間がかかり、木材として使えるだけの太さになるには最低六十年はかかるといわれる。
ましてや宮殿の柱にしようという巨木は、樹齢百年以上、ひいては数百年のものでなければ、役に立たない。

ところが前述のとおり、家具、仏像といった小ぶりなものには、細い木でも充分に用が足りるため、
太さが足りないうちにさっさと伐採されてしまうのだった。

中原ではすでに漢代から楠木好みが始まる。
日本でも飛鳥時代までの仏像はすべて楠木造りだったといわれるが(平安時代以後は、ヒノキに移行)、
それは大陸の文化の影響を色濃く受けていたためだろう。

漢代、皇室の歴々方は浙江、安徽、江西、江蘇南部の山間部から楠木を伐採し尽し、ほとんど絶滅させてしまったといわれる。





古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
古北口 (樺太の隣の島の島民)
2017-03-18 23:52:08
昔は何もない農村だったのだが
返信する
樺太の隣の島の島民さんへ (いーちんたん)
2017-03-19 00:25:09
こんにちわー。
お久しぶりです。

そうですかー。
何もない農村の時は、行ったことがありません(汗)。

そのころの様子をぜひ知りたいです!
返信する

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