いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦7、フフホトと板昇

2012年08月07日 08時41分02秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
アルタン・ハーンは、トメト部の部族長の子として生まれてモンゴルの覇者となったため、
その本拠地は一貫してトメト部の放牧する草原である。

まさに北京から北の燕山山脈を越えたところから西にかけて広がる地域だ。
後に彼が建てた新しい町・フフホトは、その中心にある。

この一帯を中国語では、「豊州灘」という。
一般的に「年間降水量400mm」というのが、乾燥地帯と湿潤地帯の分かれ目といわれており、
大体北緯39-42°の間、そのボーダーラインに万里の長城が連なる。

アルタン・ハーンの根拠地である豊州灘は、ステップ草原の中心地ではなく、
農耕地帯とのグレーゾーンに位置する。
つまりは長城のすぐ北である。佳県もまさにそのグレーゾーンに近い。


嘉靖初年ごろから、さらわれてきたのではなく、自分の意思で自主的に逃げてきた漢人が増え始める。
さらわれてきた場合は人間扱いされず、寿命の縮むような劣悪な仕事、劣悪な住環境、劣悪な食事が待っている。

あるのは望郷の念のみ、積極的に現地で生きていこう、生活をよくするために工夫しようという前向きな気持ちにもなりはしない。
となれば、自然とモンゴル人が彼らにさせようと思いつく、遊牧の範囲内の仕事しかしないことになる。

しかし自分の意志で逃げてきた人間は違う。
やみくもに逃げてきた人は稀で、ほとんどの場合、すでにモンゴル側とコンタクトがあり、

しかも相当に気心がしれるほど、信頼関係が出来上がっており、逃亡後のビジョンを互いに話し合っていることが多い。

彼らは逃げてくるのだから、もはやモンゴルで骨をうずめる覚悟で臨んでおり、
そのためにそこでの生活を少しでも楽しく、これまでのライフスタイルを維持できる形で持ち込みたい、と前向きに努力する用意がある。

そうなれば、農業をやってできないことはない気候である。
そしてここには、地平線まで続く広大な土地が広がっており、これを好きなだけ耕すことができる。

重税を取り立てる悪徳役人もいなければ、地主のために搾られることもない。
こうして豊州灘には、「板昇」と呼ばれる漢人居住地区が徐々に形成され、広大な畑が広がるようになる。

遊牧は完全な自給自足システムといわれるが、16世紀のモンゴルではもはや相当にそれが崩れている。
特に元朝の統治者として中原王朝の皇帝・貴族と同じように、中国全土のあらゆる物産・食糧に囲まれて
暮らした経験を経ているだけに、もはや元に戻れない習慣も多くある。


古代であれば、衣服はまさに獣の毛皮だけで暮らしてきたのであろうが、
下着を始め、綿や絹が気持ちいいに決まっている。

食事も昔は乳製品と肉だけで暮らしてきたのだろうが、少しでも炭水化物の穀物を食べれば、
栄養のバランスもよく、健康になり、かつ長生きになることは間違いない。
なければそれでも死なないが、できれば常食したい、という願いがある。

そんな彼らが、漢人の耕作を歓迎したのもうなずける。
アルタンハーンとしては、明の経済封鎖に対抗できる、
自国内でなるべく自給できるシステムを作る試みとしての希望を見ていた。

アルタンハーンが政権を取った時代、ダヤンハーン時代から続く長い平和のために
モンゴルでも人口が増え、飽和状態になりつつあった。

遊牧というシステムは、相当に広大な土地がなければ、維持できない。
1年中、家畜が同じところで草を食めば、食べつくして砂漠化させてしまう。

いったん砂漠化した土地が、自然に草原に戻ることはない。
それを防ぐために、それぞれの季節に牧草地が決まっており、草という貴重な生きる糧を
食い尽くさないように気を使う。

人口が増えれば、それだけ多くの家畜がなければ、皆の腹を満たすことができないことになり、
草原の密度のルールがこわれてゆく。

嘉靖15年(1536)、寧夏において、モンゴルで最も豊かだったといわれる牧場が蝗害(いなご)で全滅した。

中国の歴史には、よく蝗害で大飢饉が起きる場面が出てくるが、モンゴルでも起きたといういなごの害を少しWikipediaから見てみた。
以下、抜粋・要約しつつ、まとめてみた。


「蝗害(こうがい)とは、トノサマバッタなど、相変異を起こす一部のバッタ類の大量発生による災害のこと。

群生行動をしているバッタは、水稲や畑作作物などに限らず、全ての草本類を数時間のうちに軒並み食べ尽くしてしまう。
当然、地域の食糧生産はできなくなるため、被害地の住民は深刻な飢饉に陥いる。大量に発生したバッタは大量の卵を産むため、数年連続して発生するのが特徴である。

バッタは蝗害を起こす前に、普段の「孤独相」と呼ばれる体から、「群生相」と呼ばれる移動に適した体に変化する。
これを相変異と呼ぶ。
「群生相」になると、それまで食べなかった植物まで食べるようになる。

群生相、孤独相はそれぞれ生まれつきのものである。
ただし両親の遺伝子の組み合わせによるものではなく、親が暮らした集団の密度によるものである。

バッタ科の雌は、産卵管を使って土や砂地の地下数センチメートルに産卵する。
背の高い草が密集している場所での産卵は苦手であり、
近年北米で蝗害が減った原因のひとつは、アメリカバイソンが減少して草の背丈が伸びすぎたためとも言われている[1]。

大量に産卵が行われるには草原や河原の砂地などが必要であり、蝗害は草原と耕作地が隣接しているような場所で発生しやすい。
また、群れを維持するためには大量の植物が必要であり、日本のように狭い土地では蝗害はほとんど発生しない[3]。

一般には、これらの地帯でたまたま高気温、高降水量となった時に大発生する[4]。
ただし、歴史上の中国などでは、旱魃になったほうが蝗害が起こりやすくなる。

つまり、洪水で河があふれて周囲の砂地が湿ったり、逆に旱魃で河が細くなって湿った砂地が現れると、
そこに一時的な草場ができるため、バッタが集中的に発生して群生相が生まれる原因となる。

群れが次世代の群れを生むため、被害の年は連続することが多い。
一方で、何かのきっかけで群れが一度消滅すると、次に群生相が生まれるほど個体の密度が上がるまでは数十年と大発生が見られないこともある[1]。

もっとも、バッタの大発生は周期的なものであり、連続して起こることはないとする文献もある[3]。
大規模な移動を行うのは、一般的には食を求めてとする説が多いが、繁殖に関連する現象とする説もある。」



・・・・ということである。
これを当時のモンゴルの状況に当てはめて考えてみると、
つまり人口増加に伴う家畜の過密放牧、それにより草が短くなりすぎたことによって
起きた可能性があるということではないだろうか。

人口増加により、牧民の暮らしが悪化し、統治者であるアルタンハーンにそのプレッシャーが
かかってきたことは想像に難くない。

どうにかして民を食わせないといけない。
そのための模索の一つが、長城内への侵入、略奪でもあった。



経済封鎖による閉塞感、牧民の生活の貧困化、というさし迫った問題を抱え、
目指す方向性を思いあぐねていたらしいアルタン・ハーンの使者が、ある日くそまじめに長城の門を叩いた。

嘉靖二十年(1541)七月、アルタン・ハーンは使者・石天爵を大同の陽和塞に派遣し、
初めて正式に「通貢したい」という願いを示した。

略奪による経済の維持は、もう限界だと感じた末に行き着いた結論である。

「父のスアラン(諰阿郎)が先朝に常に入貢していたことに倣い、下賜品を賜うことができ、
市の開催の許しを得ることができれば、漢韃(漢人と韃靼人)の双方にとり、利益とならん。
近頃は貢道(朝貢のルート)が通じないために毎年、略奪に侵入することとなれり。

人畜の多くが災害・疫病の被害に遭ったため、神官に占ってもらったところ、入貢が吉なり、と出た。
天爵は元は中国人なるも、モンゴル人の中に暮らし、今や本物のモンゴル人なる故、同行せり。

通貢が許さらば、必ずやこれに報いよう。
厳しく管理し、国境近くの民は塞(長城)の中で田を耕し、モンゴル人は塞の外で馬を放牧し、

永えに相犯すことなきよう、飲血して盟誓せん。
さもなくば、帳幕を北の辺境に移動させ、精鋭騎兵を駆使して南下し、略奪せん」

と、最初は下手に出て神妙に提案するが、最後には脅しのドスも効かせている。


陽和塞は、大同の東北の山中にある要塞である。
モンゴルから大同への通り道となる谷間を守っている。
つまりは、「長城の中」に入るための「ドア」である。

見張りの兵士から直ちに伝達されていったのは、大同城にいる巡撫・大同都御史の史道である。
前線に駐屯する身として、現地の空気を身近に感じており、アルタン・ハーンのさし迫った願いをよく理解した。

史道は朝廷に
「弘治から入貢しないことすでに四十年に及ぶも、わが国境は毎年、莫大な被害を受けたり。
今ここに誠意を以って帰順せんという。中国に大いなる利なり。
しかしながら敵の勢力は強く、(負けたのでもないのに臣属したいとは)その心、測りがたし。
臣、防御に努め、気を抜かず。早急にご検討願い候」
と、書き送っている。

朝廷の決議が出るまでの間、アルタン・ハーンとその衆は、塞外で待機していた。
その間の愛想よろしきこと、不気味なくらいである。

「土敦」(dun=城塞)を守る百戸の李宝をモンゴル側の軍営に招き入れて、飲めや歌えやの大騒ぎでもてなすわ、
部下のモンゴル騎兵が哨卒の衣服・食糧を強奪するという「いつもの習慣」を見せてしまうと、
これを厳しく罰し、衣料と食糧を哨卒に返還するというジェントルマンぶりを見せて、明側の兵士らを不気味がらせた。

まるで確かに平和が訪れたかのように見えた。

巡按御史の譚学はこれを見て、朝廷に催促の奏文を出す。
「モンゴル側の内心は信じ難けれども、今見る恭順の軌跡は、確かなり。
通貢を許せば、万一に備えるべし。許さぬば、即戦いなり」

と、言っても言わなくても同じようなことを書いた後、
軍糧の増援、兵事を熟知する大臣の派遣、前線での指揮を請うている。

兵部は奏文を受け取ると、事のしだいを重視し、
史道に再びモンゴル側の通貢願いの本当の意図を探るように命じた。

「小王子(=アルタン・ハーン)の本物の番文(モンゴル語直筆の書)を求め、
後から問題が起きぬようにすべし」
と命じる。

同時に譚学の意見を採用し、辺境軍事に詳しい大臣2名を宣大(宣府と大同。一つの軍事管轄区に属する)に派遣、
軍事と通貢事項に当たらせることを決定した。




鼓楼は、広場の真ん中にあり、周りはにぎやかな盛り場になっている。




これは北京にはありませんな。棺桶屋さん。

「皇家御用頂級孝品」、つまりは皇帝ご用達極上品の親孝行品。
すごいキャッチフレーズですな。



木材の価値により値段が違うのでしょう。
都会では土葬は許されませんが、ここではもうできるのかもしれないですね。
調査不足でわからないのですが。また機会があれば、聞いてみたいです。



鼓楼から東を見ると、坂道の上に牌楼が見えます。
楡林は東側が山になっていて、その山肌をそのまま利用して、城の防衛に活用しています。
よってここから東にいくと、ひたすら坂道です。




道沿いの民家は、昔風の四合院の雰囲気を残しています。
馬車がそのまま乗り入れることのできたスタイル。

    


冬に欠かせない風物詩、石炭売りです。



北京ではオリンピックを境に北京市内での石炭使用は禁止され、すべて天然ガスと電気に切り替わり、今では石炭を積んだトラックは見かけなくなりました。

天然ガスと電気にすれば、当然コストが大きく値上がりするのですが、そこは市民の不満を招かないよう、政府が補助し、市民側の負担はこれまでと同額になっています。
しかし如何せん、大きな負担なので、今度は室内温度がボイラーの温度がかなり下げられました。
日本の冬に慣れていれば、室内でズボンの下に薄いタイツが必要な程度ですから、もう充分に暖かいわけです。
しかしこれまでぎんぎんに暖められ、室内では半そで短パンで過ごせるくらいの暖かさに慣れきった北京市民からは、ブーイングが出まくりました。

エコ、外国への面子、コスト負担、市民のブーイングという四者の板ばさみとなった市政府は、最近やむなく各アパートに断熱材の補強を始めました。

計画経済時代に建てられたいわゆる古めかしい5階建てエレベータなしのアパートのレンガの外から、断熱材を貼り付け始めたのです。

市内の公共アパートすべてにこの改造をするのは、大変なコストでしょうが、それでもボイラーの温度を上げるよりは安上がり、と踏んでのことらしいです。





牌楼までの坂道を登り、鼓楼を振り返ります。




だいぶ高低差がありますな。

    





石炭の大きな塊があると、思わず激写。



皆さんには奇怪に思えるかもしれませんが、郊外に自分でレンガの家を建て、暖房システムを設計し、石炭を買って、燃やし続けた経験のある身としては、冬の快適さは、そのまま石炭の量に直結してきた経験があるわけです。

当時は生活費を切り詰め、1ヶ月300-500元で暮らしていたこともある中、
石炭代が1ヶ月に1000元を超えることもあり、大変な負担でした。

つまりこの黒い塊一杯の三輪車は、私にとっては「宝の山」に見え、思わず激写なんですな。

    


東側の城壁に近づいていくほどに傾斜が続きます。


    


茶色いレンガの町並みと石畳。それに北京にはない地形の変化というプラスアルファ。
なかなか風情のある町ですな。


    

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2 コメント

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はんにちでも (~弥勒~)
2012-09-15 22:47:31
心配しておりますよ。
仕事がやりにくくなるのでしょうか?
お気をつけください。
返信する
弥勒さんへ (いーちんたん)
2012-09-16 02:21:44
お気遣いいただき、ありがとうございます。

今日から18日にかけてまで、かなりやばいらしいです。
せいぜい家にこもって外に出ないようにします。

ただ全シェアの1/3を占めるといわれる日けいの車がうちこわしの対象になるということで、
国内はもう本筋の論議よりも自分のざいさんを守ることのほうにパニックになり始めています。

あと3日、戦々恐々としているのは、むしろ国内の人のようです。
ミニブログで刻一刻と入ってくる情報を
緊張しながら、追っています。
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