このほかにも、自分から望んで長城の外に逃亡する人々も次第に増えてくる。
「南倭北虜」(明の滅びた理由。南の倭寇の害と北のモンゴル、女真などの侵入の害)というが、
その中でもとりわけ経済的に圧迫したのが、このモンゴルとの戦線における軍事費だろう。
明代の戦争で出動する兵力を聞くと、ゼロが2桁くらい間違っているのではないか、と思うくらい壮絶な規模である。
永楽帝がモンゴル征伐に率いた兵力は、50万人とか、
土木の変での戦死者が10数万人とか、聞いただけで数字がすさまじい。
明代の全国人口が約1億5000万人程度といわれる。
その中でも兵士になれる「壮丁(労働年齢の男子)」は6000万人程度しかいなかったことになる。
そのうちの50万人を連れて、モンゴルに遠征にいく、ってどうよ、永楽帝、というくらい、国民にとっての負担は、大きい。
直接には従軍せずとも、兵士らを養う費用が国民に重くのしかかることは、もちろんである。
延々と続く長城の建設だけでも気が遠くなる。
そのため明の国民の賦役の負担は大きく、あまりの苛烈さのために負担しきれず、
土地を手放して小作人に転落する者、役人、地主の取立ての厳しさに耐えられず、塞外に逃れる者が増えていった。
特に嘉靖年間に暴れまわるアルタン・ハーンは、思い切った漢人登用政策を掲げ、
功のあった漢人には、惜しげもなく財物を与え、モンゴル女を娶らせたといわれる。
アルタンの強さは、この「漢人登用の待遇」の上昇にあったのだろう。
「アルタン・ハーンのところにいけば、大金持ちになれるらしい」と、長城の中でも噂がたてば、
ますます優秀な漢人が集まり、明からは人材が流出し、敵の栄養になるという悪循環である。
それくらい明での人材登用が淀(よど)んでいたのだから、「負のスパイラル」はとまらない。
明の方でも次第に巧妙になってくるモンゴル側の作戦を見て、
その背後にいる漢人のブレイン集団の存在を問題視するようになる。
明初、モンゴルの軍事行動には、自ずと限界があった。その特徴は、
1、国境からあまり深く入らず、国境付近の略奪に留める。
2、侵入ルートが単一。出没する地域が、大体決まっている。
その原因は、明軍側の軍事配置、防衛の特徴、地形などを把握していないためといえる。
いわば、ごまんとさらってきて、わんさかいる漢人の捕虜を生かし切れていなかった。
正徳年間に入ると、モンゴルの戦術ががらりと変わる。
明側は、その変化を次のように総括している。
1、昔は甲冑の身につけていなかったのに、今は明製の鎧甲に身を固める。
--鎧甲をつけると、怪我がどれだけ防げるか、という効能を啓蒙する漢人あり。
またその密輸販売ルートを手引きする漢人あり。
2、昔は馬から下りることはほぼなかったのに、今は馬から降り、鋤(すき)・もっこなどの工具を使い、
城壁の下を掘って城攻略を行う。
後に白蓮教の亡命者・丘富(後述)は、城攻略のためのはしご、突撃用の竿(さお)の製作まで指導している。
--騎馬民族は、城に立てこもられると、これを攻略するのが苦手なのは、昔から有名だったが、
今や掘るわ、はしごを製作するわ、で中原の戦い方を完全にマスター。
3、昔は侵入しても長く留まることを恐れてさっさと引き揚げていったが、今はじっくりと腰をすえて戦う。
--詳細な情報を集めるスパイ網と、科学的に分析すると軍師のチームが形成されている。
4、昔は大集団でどどっとやってきて風のように去っていったが、今は大挙してやってくるが、効率よく各地に分散して広範囲に略奪し、明側が対応する隙を与えない。
--どこの警備が手薄か、どこに多くの略奪物があるか、事前の情報がある。
5、昔は兵士に紀律がなかったが、今は烏合の衆ではなく、整然とした軍記があり、
軍旗も号令も存在し、秩序がある。
6、昔は家を焼かなかったが、今は焼く。
--モンゴル人の略奪は、生活の糧を得るためだから、農民を絶望の淵まで追い込むよりは、
再起可能なくらいにして生かしておいて、財産がたまった頃に、また略奪に来ることを目的とする。
つまりは「飼い殺し」である。
しかし漢人亡命者は、いつまでも塞外のお尋ね者に留まっている気はなく、
あわよくば、明を滅亡させて自分が覇者となるというレベルの野望を持っている。
だから敵は再起不能なまでに徹底的に叩いて、追い詰めていく。
7、昔は大河にぶち当たるとあきらめたが、今は船で渡ってくる。
--草原には木材もないし、モンゴル人は手仕事を苦手とするから、職人もいない。
木材を調達し、図面を引いて大量の船を作る指導は、高等教育を受けた漢人にしかできない。
モンゴルの被害が拡大したのは、漢人の協力による、と朝廷は考えた。
戦術の変化は、明の方にも関係がある。
これまでモンゴル側が漢人を活用しきれなかった理由は、さらってきた漢人のほとんどが
文盲なる、愚昧なる農民などであり、教養が低すぎて、役に立たなかったためでもある。
嘉靖年間あたりから、軍の腐敗にますます拍車がかかり、将領らによる兵士の給料ピンはね、軍糧の横流しがエスカレートする。
このために給料未払いで生命の存続の危機まで追い込まれた兵士らが爆発し、反乱が相次ぐ。
反乱を起こし、平定されれば、全員が死刑になるに決まっている。
そこで兵士らは、例外なくすべて長城を超えて草原のかなたに消えていった。
例えば、嘉靖3年(1524)、嘉靖12(1533)に大同で兵士らの反乱が起きているが、将を殺し、全員が長城の外に消えていった。
さらにひどいのは、嘉靖32年(1553)に起きた大同の兵士らの反乱である。
モンゴル軍を大同城内に迎え入れ、気勢を揚げて銅鑼を叩き鳴らして熱烈歓迎、
モンゴル側の将軍を宴会でもてなして、まもなく到着するであろう
自分たちに対する政府の平定軍との戦いにモンゴル側の援護射撃を頼もうとする始末である。
彼らがまもなくモンゴル軍とともに、アルタン・ハーンの元に去っていったのは、いうまでもない。
嘉靖年間全体と隆慶5年(1571)に隆慶の和議が成立するまでの間の50年間の間に起きた
兵士の反乱は、大規模なものだけでも実に50回以上もあり、小規模なものはもはやカウント不可能である。
これだけ大量の「戦争のプロ」、「軍事専門家」がモンゴルに終結すれば、
モンゴル側の戦術に革命的な変化が生まれるのもうなずけるというものである。
*************************************************************************
写真: 楡林
通りをさらに北に進んでいくと、
見えてきたのは、凱歌楼。
凱歌楼は、明の弘治5年(1492)年の建立。
まだ楡林城が小さかった頃は、この楼が城の南門の役割を果たしていたという。
また明の正徳13年(1518)、武宗が楡林に行幸した際、この楼に滞在し、太乙神宮と命名した。
その際に載妃を見初めて北京に連れ帰ったことは、すでに触れた。
モンゴル戦線の最前線にある楡林において、ここでは大きな戦争のあるたびに凱旋式、
捕虜献上式典、功労表彰式典などが行われた。
それが「凱歌楼」の由来である。
入り口には、「院内で内モンゴルのバターを売ります」と。
楡林の人々は、草原と縁の深い生活を送っているのですな。
およよ。この胡同は面白い。道が下にもぐり、上に部屋が一つありますな。
楡林は、東の山肌に張り付くように作られているので、東が高く、西に行くほど下り坂なんですな。
本、ゲームなどのお店。ところ狭しとちらしを張り出し。
メインストリートの最も北、鼓楼。
創建は明の成化年間後期。
「南倭北虜」(明の滅びた理由。南の倭寇の害と北のモンゴル、女真などの侵入の害)というが、
その中でもとりわけ経済的に圧迫したのが、このモンゴルとの戦線における軍事費だろう。
明代の戦争で出動する兵力を聞くと、ゼロが2桁くらい間違っているのではないか、と思うくらい壮絶な規模である。
永楽帝がモンゴル征伐に率いた兵力は、50万人とか、
土木の変での戦死者が10数万人とか、聞いただけで数字がすさまじい。
明代の全国人口が約1億5000万人程度といわれる。
その中でも兵士になれる「壮丁(労働年齢の男子)」は6000万人程度しかいなかったことになる。
そのうちの50万人を連れて、モンゴルに遠征にいく、ってどうよ、永楽帝、というくらい、国民にとっての負担は、大きい。
直接には従軍せずとも、兵士らを養う費用が国民に重くのしかかることは、もちろんである。
延々と続く長城の建設だけでも気が遠くなる。
そのため明の国民の賦役の負担は大きく、あまりの苛烈さのために負担しきれず、
土地を手放して小作人に転落する者、役人、地主の取立ての厳しさに耐えられず、塞外に逃れる者が増えていった。
特に嘉靖年間に暴れまわるアルタン・ハーンは、思い切った漢人登用政策を掲げ、
功のあった漢人には、惜しげもなく財物を与え、モンゴル女を娶らせたといわれる。
アルタンの強さは、この「漢人登用の待遇」の上昇にあったのだろう。
「アルタン・ハーンのところにいけば、大金持ちになれるらしい」と、長城の中でも噂がたてば、
ますます優秀な漢人が集まり、明からは人材が流出し、敵の栄養になるという悪循環である。
それくらい明での人材登用が淀(よど)んでいたのだから、「負のスパイラル」はとまらない。
明の方でも次第に巧妙になってくるモンゴル側の作戦を見て、
その背後にいる漢人のブレイン集団の存在を問題視するようになる。
明初、モンゴルの軍事行動には、自ずと限界があった。その特徴は、
1、国境からあまり深く入らず、国境付近の略奪に留める。
2、侵入ルートが単一。出没する地域が、大体決まっている。
その原因は、明軍側の軍事配置、防衛の特徴、地形などを把握していないためといえる。
いわば、ごまんとさらってきて、わんさかいる漢人の捕虜を生かし切れていなかった。
正徳年間に入ると、モンゴルの戦術ががらりと変わる。
明側は、その変化を次のように総括している。
1、昔は甲冑の身につけていなかったのに、今は明製の鎧甲に身を固める。
--鎧甲をつけると、怪我がどれだけ防げるか、という効能を啓蒙する漢人あり。
またその密輸販売ルートを手引きする漢人あり。
2、昔は馬から下りることはほぼなかったのに、今は馬から降り、鋤(すき)・もっこなどの工具を使い、
城壁の下を掘って城攻略を行う。
後に白蓮教の亡命者・丘富(後述)は、城攻略のためのはしご、突撃用の竿(さお)の製作まで指導している。
--騎馬民族は、城に立てこもられると、これを攻略するのが苦手なのは、昔から有名だったが、
今や掘るわ、はしごを製作するわ、で中原の戦い方を完全にマスター。
3、昔は侵入しても長く留まることを恐れてさっさと引き揚げていったが、今はじっくりと腰をすえて戦う。
--詳細な情報を集めるスパイ網と、科学的に分析すると軍師のチームが形成されている。
4、昔は大集団でどどっとやってきて風のように去っていったが、今は大挙してやってくるが、効率よく各地に分散して広範囲に略奪し、明側が対応する隙を与えない。
--どこの警備が手薄か、どこに多くの略奪物があるか、事前の情報がある。
5、昔は兵士に紀律がなかったが、今は烏合の衆ではなく、整然とした軍記があり、
軍旗も号令も存在し、秩序がある。
6、昔は家を焼かなかったが、今は焼く。
--モンゴル人の略奪は、生活の糧を得るためだから、農民を絶望の淵まで追い込むよりは、
再起可能なくらいにして生かしておいて、財産がたまった頃に、また略奪に来ることを目的とする。
つまりは「飼い殺し」である。
しかし漢人亡命者は、いつまでも塞外のお尋ね者に留まっている気はなく、
あわよくば、明を滅亡させて自分が覇者となるというレベルの野望を持っている。
だから敵は再起不能なまでに徹底的に叩いて、追い詰めていく。
7、昔は大河にぶち当たるとあきらめたが、今は船で渡ってくる。
--草原には木材もないし、モンゴル人は手仕事を苦手とするから、職人もいない。
木材を調達し、図面を引いて大量の船を作る指導は、高等教育を受けた漢人にしかできない。
モンゴルの被害が拡大したのは、漢人の協力による、と朝廷は考えた。
戦術の変化は、明の方にも関係がある。
これまでモンゴル側が漢人を活用しきれなかった理由は、さらってきた漢人のほとんどが
文盲なる、愚昧なる農民などであり、教養が低すぎて、役に立たなかったためでもある。
嘉靖年間あたりから、軍の腐敗にますます拍車がかかり、将領らによる兵士の給料ピンはね、軍糧の横流しがエスカレートする。
このために給料未払いで生命の存続の危機まで追い込まれた兵士らが爆発し、反乱が相次ぐ。
反乱を起こし、平定されれば、全員が死刑になるに決まっている。
そこで兵士らは、例外なくすべて長城を超えて草原のかなたに消えていった。
例えば、嘉靖3年(1524)、嘉靖12(1533)に大同で兵士らの反乱が起きているが、将を殺し、全員が長城の外に消えていった。
さらにひどいのは、嘉靖32年(1553)に起きた大同の兵士らの反乱である。
モンゴル軍を大同城内に迎え入れ、気勢を揚げて銅鑼を叩き鳴らして熱烈歓迎、
モンゴル側の将軍を宴会でもてなして、まもなく到着するであろう
自分たちに対する政府の平定軍との戦いにモンゴル側の援護射撃を頼もうとする始末である。
彼らがまもなくモンゴル軍とともに、アルタン・ハーンの元に去っていったのは、いうまでもない。
嘉靖年間全体と隆慶5年(1571)に隆慶の和議が成立するまでの間の50年間の間に起きた
兵士の反乱は、大規模なものだけでも実に50回以上もあり、小規模なものはもはやカウント不可能である。
これだけ大量の「戦争のプロ」、「軍事専門家」がモンゴルに終結すれば、
モンゴル側の戦術に革命的な変化が生まれるのもうなずけるというものである。
*************************************************************************
写真: 楡林
通りをさらに北に進んでいくと、
見えてきたのは、凱歌楼。
凱歌楼は、明の弘治5年(1492)年の建立。
まだ楡林城が小さかった頃は、この楼が城の南門の役割を果たしていたという。
また明の正徳13年(1518)、武宗が楡林に行幸した際、この楼に滞在し、太乙神宮と命名した。
その際に載妃を見初めて北京に連れ帰ったことは、すでに触れた。
モンゴル戦線の最前線にある楡林において、ここでは大きな戦争のあるたびに凱旋式、
捕虜献上式典、功労表彰式典などが行われた。
それが「凱歌楼」の由来である。
入り口には、「院内で内モンゴルのバターを売ります」と。
楡林の人々は、草原と縁の深い生活を送っているのですな。
およよ。この胡同は面白い。道が下にもぐり、上に部屋が一つありますな。
楡林は、東の山肌に張り付くように作られているので、東が高く、西に行くほど下り坂なんですな。
本、ゲームなどのお店。ところ狭しとちらしを張り出し。
メインストリートの最も北、鼓楼。
創建は明の成化年間後期。
王、貴族であれば参列者が白衣、白鉢巻で廟所のようなところで、一般人であれば野外に土饅頭に碑を建ててやはり白衣に白鉢巻で関係者だけで葬儀をしています。
黄色の丸い髪に四角の穴を開けたのを撒いたりして。どうやら道教様式っぽいのですが、坊さんは見当たりません。不思議に思うのです。
なぜかおわかりですか?
私も宗教のことについては、まだまだ勉強不足でわからないですー。
今後、何かのことで判明することがありましたら、
また共有させてくださいー。
古龍のものですが、不思議なことに日本のwikiの古龍作品には出てこないのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%BE%8D
それはさておき、、、、
物語の途中から「楚留香」が出てきますので何らかの役割を持つのかと思いましたら、、、なにも~~、、、なのです。
射雕英雄伝の郭靖が1世代後の神雕侠侶でも役割を果たしたように期待していたのですが。
それにしても武侠小説のいずれも終わりがあっけなくてですね、、、、もっと「ここ!」っていうのがあってほしいと思うのです。