さて。白雲山に参拝にやってくる香客のマナーを見てきたが、
今度は迎える道士の仕事の手順を見てみよう。
通常の縁日3日間の間の活動を見よう。
1日目: 閉斎薫壇 午後から穢れを払うために行う。
閉斎: この日から白雲山すべての道士が、生臭を絶つ。
薫壇: 法場を清めるため。高功法師(位の高い道士)が、呪文を唱えながら木炭に酢をかける。
この意味は、前述と同様である。
浄壇牒(牒とは、道士が法事を行う際、諸神に願いをかける札)を燃やす。
諸神を法壇に呼び、ご加護を願うため。
2日目:
1、走経: 開壇ともいう。早朝に行い、各会首が斎壇[木旁]に名前を書き入れ、[木旁]文を貼る。
つまりはここでも各自治体のリーダーが出てくる。
道観を経済的に支える集団でもあるのだろう。
貼り紙には、今回の法壇の因果、時間、目的などを説明する。
2、出幌: 決められた順序どおりに並んだ数百人の儀[にんべん+丈]隊が経堂から出発。
各種プラカードを持ち、衣装に身を包んだパレード隊である。
このあたりからようやく庶民にとって、縁日の華やかさが実感できるようなイベントである。
周囲の土地を楽器をにぎやかに鳴らしながら、派手に練り歩くことはいうまでもない。
3、祝厨: お供え物を作る厨房を祭る。
道士らがお経を唱えて祈り、供え物が清潔に、衛生的であるように祈る。
現代でも食品を扱う人が最も恐れる食中毒を回避したいという願いだろう。
科学的に原因が究明されていないものが多い時代だからこそ、祈った。
4、行香: 廟内でお香を上げ、今回の法事の目的を読み上げ、神霊のご加護を願う。
5、提灯: 夜、麻紙で作った灯芯に植物油を浸して灯篭を作り、道の両脇に置く。
道衆(信徒)がお経を読みながら、その間を練り歩き、諸神を天壇に迎え入れ、
四方に施しがあるよう、願いをこめる。
また孤魂野鬼がこの光明に乗じて、苦界から脱離できるようにする。
このように縁日二日目は、昼間のパレード、夜の灯篭に合わせた信者の練り歩き、という大きなイベントで祭り感を盛り上げている。
最後の3日目の活動である。
1、上表: 表文を天庭に上奏する儀式。つまり人々からの願いを天に伝える。
高功法師が読み上げた後、壇前で燃やす。
2、上供: お供え物をする。食べ物が中心。
読経しつつ、十数種類のお供え物を順々に供えていく。
3、放赦: 道教の活動の中の人形劇の舞踊。縁日の中で最も盛り上がる場面。
「赦」とは、赦書、免罪符。
玉帝が人間の罪を許すため、年に一度、諸神を遣わし、人々を祝福するという内容。
1mに満たない人形を山頂の境内から黄河の畔にある山の麓まで、ロープに沿い、
滑り降ろさせる。
縄を緩めたり、張り詰めたりすることにより、仙子らはゆらゆらと揺れ、止まったり、進んだりする。
これを道士らが、にぎやかな音楽で迎える。
人形が地上に到着すると、人形の背中から高功法師の赦書を取り出し、香客の前で読み上げ、放赦する。
4、楊幡: 高功法師の読経により、各路の魂を呼び寄せて祝福し、成仏させる。
5、転九曲: 3日目の晩に行われる。
《封神演義》にちなみ、迷路のように形どった灯篭を道士が読経しながら、信徒を導いていく。
信徒は道士の後をついて、迷路の中を歩き、練り歩く。
縁日は3日目のこの最後のイベントで最高潮となり、終了する。
白雲山が有名なのは、実はもう一つの理由がある。
それはもうさんが長せいの際にここに立ち寄り、占いをしたといわれるからだ。
以下、つまらないことでけんえつにひっかかって、アクセスできなくなってもいやなので
ひらがなで書く。
しかくはないものと見て、飛ばして読んでください。
1947年、長せいの部隊は、国民党・胡■宗南25万の圧倒的な大軍部隊に追撃され、自ら撤退した。
長せいの部隊を分け、ごくわずかな部隊のみを陝西に残し、あとは他地へ行かせたのである。
延安に拠点を置いていた主力部隊が、こうして陝西の根拠地を失った。
もうは、わずかな部隊のみとともに、黄河の畔のこの地まで追い詰められ、やってきた。
黄河に阻まれて先に進めぬところ、白雲観にやってきた。
当時の無極道長は、今後どうしたらいいか、と聞かれ、黄河の水が少ないから今のうちにわたれ、という。
もうは、水が少ないなら、追っ手もすぐに渡れるから意味がない、というが、それに従った。
すると、急に河が増水し、追っ手をその場に阻んでくれたという。
まるでモーゼの「十戒」のような話だが、
道長は長くこの地に暮らす身として、そういう黄河の増水の周期も知っていたのだろう。
もうは、その後、お礼参りにもう一度、お忍びで白雲観にやってきた。
くじを引けといわれたので引くと、「日出扶桑、8■341、99重陽」と出たという。
扶桑は東、東から太陽が昇るというのは、東に行くと成功するから、東にいけ、と。
その後ろの数字はどういう意味か、と聞くと、道長は笑って「天■機不可泄露」
(天のチャンスを漏らすことはできない)、と言ったという。
もうはこの占いの内容をずっと気にかけていたようで、その後、自分の警衛番号を83■41とした。
一説には、99重陽とは、彼が9月9日になくなったことを暗示していたという。
・・・と、まあ。そういう都市伝説がある。
私個人から言わせてもらえば、占いというのは、自分の考えの整理の呼び水としてはなかなかよい。
特に徳の高い人のオーラに触れることは、ドーパミンが出まくって、大変よい影響があるだろう。
その縁を大切に思い、その数字で縁起を担ぐのは、そのドーパミン大量放出の記憶を呼び覚ますという意味で、精神的によい方向に運んでくれるものでもある。
99程度の数字を一人の人間の長い一生の中で、後の人がこじつけて見つけだすこともそんなに難しいことではない。
ともかくもこの一件のおかげで、白雲観の名声は全国にとどろいた。
今でも社会的に成功した名士が、ひそかにお忍びで訪れる、と噂されるのは、
そのような縁もあるのだろう。
もうが訪れたその日、山ではちょうど縁日の日に当たり、上演されている劇を、
もうは一般客に混じって鑑賞したという。
椅子を持ってきてもうに座るように勧めた人がいたが、
自分は背が高く、前の方に座るとほかの人が見えなくなるから、と言い、遠慮したという。
180cmを超える長身であることは、よく知られている。
劇を見終わると「五州部」の名義で、郷劇団に「与時併進」(時代とともに進む)
の四文字を書いた錦旗を贈呈した。
この四文字は、今では扁額にされて、境内に飾られている。
もうは境内を回りつつ、歴史的建造物がすばらしいから、よく保護するように、と言ったという。
白雲山の道長の話が出たが、前述の燕翼堂義塾でも現任の道長の話がよく会話に出てきた。
土地の人からは尊敬を集めている様子が伺えた。
現任の白雲観の道長・張明貴氏は、1931年生まれ。
地元の佳県佳芦鎮の出身。5歳で病にかかり、身をゆだねて白雲山に預けられた。
11歳で正式に張元桐を師と仰ぎ、同郷の修行に専念。
1957年当時、白雲山では混元教を筆頭として反動会道門が勢力を形成しており、
人力、物力、財力で対抗できないくらい大きくなっていた。
26歳になっていた張明貴氏は神宗の聖旨(明の万暦年間に宦官により賜ってきたという前述のもの)を抱え、
北京の中国道教協会の会長・岳崇岳氏に会いに行き、窮状を訴えた。
その努力のおかげで白雲山の道教がようやく安定し、功績を高く評価されたという。
1980年より道長を勤める。
近頃では、人々の生活の中に徐々に宗教の信仰も復活してきつつあるが、
観光以外の目的で寺や道観が機能していることはまだまだ珍しい現象である。
この白雲観では、地元の自治体を巻き込み、地域に根ざした信仰の場となっており、
新鮮な印象を受けた。
***********************************************************************
写真: 陝西佳県の白雲観。
あちこちでたくさん見かけたお札が貼ってありますね。
家に貼ったり、燃やして飲むというのは、どうやらこれなんでしょうか。
眼下に広がる黄河。この日は見晴らしが悪かったが、晴れていたら、素晴らしいだろう。
道観の立地を決める際、この見晴らしは「最終兵器」として、重く見られたに違いない。
白雲山からの帰り、車から見える、眼下に広がる黄河。
陝西佳県の南側。芦jia河の対岸から佳県を望む。
佳県が、二つの川の合流する高台に建てられていることがよくわかる。
岩肌は、こんな断崖絶壁。これでは難攻不落なはずである。
最後に食べ物の写真でも。
おっちゃんがドラム缶で焼いております。
こういう小麦粉で練り上げたごくシンプルな穀物が、甘みがあって飽きがこなくてうまい。
地元の娘さんたち。
地元のおっさんたち。
町の中心広場でどうやら「運び屋」として、待機しているようです。
このオート三輪トラックで荷物を運ぶ仕事を待っているのでしょう。
今度は迎える道士の仕事の手順を見てみよう。
通常の縁日3日間の間の活動を見よう。
1日目: 閉斎薫壇 午後から穢れを払うために行う。
閉斎: この日から白雲山すべての道士が、生臭を絶つ。
薫壇: 法場を清めるため。高功法師(位の高い道士)が、呪文を唱えながら木炭に酢をかける。
この意味は、前述と同様である。
浄壇牒(牒とは、道士が法事を行う際、諸神に願いをかける札)を燃やす。
諸神を法壇に呼び、ご加護を願うため。
2日目:
1、走経: 開壇ともいう。早朝に行い、各会首が斎壇[木旁]に名前を書き入れ、[木旁]文を貼る。
つまりはここでも各自治体のリーダーが出てくる。
道観を経済的に支える集団でもあるのだろう。
貼り紙には、今回の法壇の因果、時間、目的などを説明する。
2、出幌: 決められた順序どおりに並んだ数百人の儀[にんべん+丈]隊が経堂から出発。
各種プラカードを持ち、衣装に身を包んだパレード隊である。
このあたりからようやく庶民にとって、縁日の華やかさが実感できるようなイベントである。
周囲の土地を楽器をにぎやかに鳴らしながら、派手に練り歩くことはいうまでもない。
3、祝厨: お供え物を作る厨房を祭る。
道士らがお経を唱えて祈り、供え物が清潔に、衛生的であるように祈る。
現代でも食品を扱う人が最も恐れる食中毒を回避したいという願いだろう。
科学的に原因が究明されていないものが多い時代だからこそ、祈った。
4、行香: 廟内でお香を上げ、今回の法事の目的を読み上げ、神霊のご加護を願う。
5、提灯: 夜、麻紙で作った灯芯に植物油を浸して灯篭を作り、道の両脇に置く。
道衆(信徒)がお経を読みながら、その間を練り歩き、諸神を天壇に迎え入れ、
四方に施しがあるよう、願いをこめる。
また孤魂野鬼がこの光明に乗じて、苦界から脱離できるようにする。
このように縁日二日目は、昼間のパレード、夜の灯篭に合わせた信者の練り歩き、という大きなイベントで祭り感を盛り上げている。
最後の3日目の活動である。
1、上表: 表文を天庭に上奏する儀式。つまり人々からの願いを天に伝える。
高功法師が読み上げた後、壇前で燃やす。
2、上供: お供え物をする。食べ物が中心。
読経しつつ、十数種類のお供え物を順々に供えていく。
3、放赦: 道教の活動の中の人形劇の舞踊。縁日の中で最も盛り上がる場面。
「赦」とは、赦書、免罪符。
玉帝が人間の罪を許すため、年に一度、諸神を遣わし、人々を祝福するという内容。
1mに満たない人形を山頂の境内から黄河の畔にある山の麓まで、ロープに沿い、
滑り降ろさせる。
縄を緩めたり、張り詰めたりすることにより、仙子らはゆらゆらと揺れ、止まったり、進んだりする。
これを道士らが、にぎやかな音楽で迎える。
人形が地上に到着すると、人形の背中から高功法師の赦書を取り出し、香客の前で読み上げ、放赦する。
4、楊幡: 高功法師の読経により、各路の魂を呼び寄せて祝福し、成仏させる。
5、転九曲: 3日目の晩に行われる。
《封神演義》にちなみ、迷路のように形どった灯篭を道士が読経しながら、信徒を導いていく。
信徒は道士の後をついて、迷路の中を歩き、練り歩く。
縁日は3日目のこの最後のイベントで最高潮となり、終了する。
白雲山が有名なのは、実はもう一つの理由がある。
それはもうさんが長せいの際にここに立ち寄り、占いをしたといわれるからだ。
以下、つまらないことでけんえつにひっかかって、アクセスできなくなってもいやなので
ひらがなで書く。
しかくはないものと見て、飛ばして読んでください。
1947年、長せいの部隊は、国民党・胡■宗南25万の圧倒的な大軍部隊に追撃され、自ら撤退した。
長せいの部隊を分け、ごくわずかな部隊のみを陝西に残し、あとは他地へ行かせたのである。
延安に拠点を置いていた主力部隊が、こうして陝西の根拠地を失った。
もうは、わずかな部隊のみとともに、黄河の畔のこの地まで追い詰められ、やってきた。
黄河に阻まれて先に進めぬところ、白雲観にやってきた。
当時の無極道長は、今後どうしたらいいか、と聞かれ、黄河の水が少ないから今のうちにわたれ、という。
もうは、水が少ないなら、追っ手もすぐに渡れるから意味がない、というが、それに従った。
すると、急に河が増水し、追っ手をその場に阻んでくれたという。
まるでモーゼの「十戒」のような話だが、
道長は長くこの地に暮らす身として、そういう黄河の増水の周期も知っていたのだろう。
もうは、その後、お礼参りにもう一度、お忍びで白雲観にやってきた。
くじを引けといわれたので引くと、「日出扶桑、8■341、99重陽」と出たという。
扶桑は東、東から太陽が昇るというのは、東に行くと成功するから、東にいけ、と。
その後ろの数字はどういう意味か、と聞くと、道長は笑って「天■機不可泄露」
(天のチャンスを漏らすことはできない)、と言ったという。
もうはこの占いの内容をずっと気にかけていたようで、その後、自分の警衛番号を83■41とした。
一説には、99重陽とは、彼が9月9日になくなったことを暗示していたという。
・・・と、まあ。そういう都市伝説がある。
私個人から言わせてもらえば、占いというのは、自分の考えの整理の呼び水としてはなかなかよい。
特に徳の高い人のオーラに触れることは、ドーパミンが出まくって、大変よい影響があるだろう。
その縁を大切に思い、その数字で縁起を担ぐのは、そのドーパミン大量放出の記憶を呼び覚ますという意味で、精神的によい方向に運んでくれるものでもある。
99程度の数字を一人の人間の長い一生の中で、後の人がこじつけて見つけだすこともそんなに難しいことではない。
ともかくもこの一件のおかげで、白雲観の名声は全国にとどろいた。
今でも社会的に成功した名士が、ひそかにお忍びで訪れる、と噂されるのは、
そのような縁もあるのだろう。
もうが訪れたその日、山ではちょうど縁日の日に当たり、上演されている劇を、
もうは一般客に混じって鑑賞したという。
椅子を持ってきてもうに座るように勧めた人がいたが、
自分は背が高く、前の方に座るとほかの人が見えなくなるから、と言い、遠慮したという。
180cmを超える長身であることは、よく知られている。
劇を見終わると「五州部」の名義で、郷劇団に「与時併進」(時代とともに進む)
の四文字を書いた錦旗を贈呈した。
この四文字は、今では扁額にされて、境内に飾られている。
もうは境内を回りつつ、歴史的建造物がすばらしいから、よく保護するように、と言ったという。
白雲山の道長の話が出たが、前述の燕翼堂義塾でも現任の道長の話がよく会話に出てきた。
土地の人からは尊敬を集めている様子が伺えた。
現任の白雲観の道長・張明貴氏は、1931年生まれ。
地元の佳県佳芦鎮の出身。5歳で病にかかり、身をゆだねて白雲山に預けられた。
11歳で正式に張元桐を師と仰ぎ、同郷の修行に専念。
1957年当時、白雲山では混元教を筆頭として反動会道門が勢力を形成しており、
人力、物力、財力で対抗できないくらい大きくなっていた。
26歳になっていた張明貴氏は神宗の聖旨(明の万暦年間に宦官により賜ってきたという前述のもの)を抱え、
北京の中国道教協会の会長・岳崇岳氏に会いに行き、窮状を訴えた。
その努力のおかげで白雲山の道教がようやく安定し、功績を高く評価されたという。
1980年より道長を勤める。
近頃では、人々の生活の中に徐々に宗教の信仰も復活してきつつあるが、
観光以外の目的で寺や道観が機能していることはまだまだ珍しい現象である。
この白雲観では、地元の自治体を巻き込み、地域に根ざした信仰の場となっており、
新鮮な印象を受けた。
***********************************************************************
写真: 陝西佳県の白雲観。
あちこちでたくさん見かけたお札が貼ってありますね。
家に貼ったり、燃やして飲むというのは、どうやらこれなんでしょうか。
眼下に広がる黄河。この日は見晴らしが悪かったが、晴れていたら、素晴らしいだろう。
道観の立地を決める際、この見晴らしは「最終兵器」として、重く見られたに違いない。
白雲山からの帰り、車から見える、眼下に広がる黄河。
陝西佳県の南側。芦jia河の対岸から佳県を望む。
佳県が、二つの川の合流する高台に建てられていることがよくわかる。
岩肌は、こんな断崖絶壁。これでは難攻不落なはずである。
最後に食べ物の写真でも。
おっちゃんがドラム缶で焼いております。
こういう小麦粉で練り上げたごくシンプルな穀物が、甘みがあって飽きがこなくてうまい。
地元の娘さんたち。
地元のおっさんたち。
町の中心広場でどうやら「運び屋」として、待機しているようです。
このオート三輪トラックで荷物を運ぶ仕事を待っているのでしょう。
清代では、比較的重要な行政単位につけるという意識ですが、
ほかの時代のことはあまり意識して考えたことがないので、あまりわかりません。
お役に立てなくてすみません。
私はどちらかというと、あまりやる人がいない分野を選んでテーマにする、という意識があるので、
自分の専門以外のことは、うといです。
明清代は、恐らく時代が近いために資料が膨大にあり、読まなくてはならない資料が膨大なためでしょうか。
比較的書く人が少ないので、敢えて選んでいる、というのが理由です。
答えられる範囲の質問であれば、私もうれしいのですが、まだまだ全能というわけにいかず、お役にたてず恐縮です。
「モンゴルと大明帝国」を図書館で借り、この本はモンゴル前史から書いておりますが、飛ばしまして永楽帝から読み始めております。
ところで、、、、私の場合「ところで」と書きますと質問になるのです。ってことで、
中国の「府」というのが私の中では曖昧なのです。
「南京応天府」、「北京順天府」という都市名のようなものもあり、ドラマを見てますと家の看板に「役職名『府』」というもの、「個人名『府』」というのも見られます。
この「府」というのはどのような使い方がされているのでしょうか?