いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語42、シュルハチの死

2019年01月30日 15時13分10秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
シュルハチは憤懣やる方ないまま、長男アルトンア(阿爾通阿)、三男ジャサクト(扎薩克図)とともに
明の陣営近くに移り住み、自力で土地の開墾を始める。

そのまま独自の勢力となられてはたまらない。
ヌルハチはそれ以上座視できなくなり、ついにシュルハチの二人の息子と側近らを殺したのである。

この時、シュルハチは殺されていない。
恐らく満州の中でもシュルハチの功績への評価が高く、殺せば部下らの信頼を失うことになったからだろう。

しかし腹心の部下と息子らを殺され、頼りにしていた明朝も大きくは支援してくれない。
両手両足をもがれたが如く、進退窮まったシュルハチは、仕方なくヌルハチの元に戻った。

しかし自由の身にはしてもらえず、
鉄鎖で縛られ、二つの小さな穴のほかは、出口のない密室に幽閉され、まもなく没した。


アミンは、シュルハチの次男である。

父の移住には加わらなかったが、危うくヌルハチに殺されそうになる。
そこをホンタイジらの必死の嘆願により赦されたのだ。

最終的に父のシュルハチ、兄弟二人が殺されたが、
次男のアミンだけは、父らと行動をともにしなかったために殺されるのを免れた。


以来、叔父のヌルハチの下でひたすら軍人としての功績を挙げることに没頭し、
アミンは、ついには旗主ベイレの一人になるに至ったのである。

まさに苦労の人だ。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語41、シュルハチの失脚

2019年01月26日 15時13分10秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
シュルハチの退却の口実を諸ベイレ、諸将軍らの中で誰もまともに聞く者はなく、
皆の総反対を受け、やむなく行軍が続けられた。

フェイユ(蜚悠)城に到着すると、の酋長ツオムトヘイの率いる五百戸の民は、
すでに出発の用意を整えて待っており、一行はそのまま帰り道を急いだ。

ウラ部のプジャンタイはこの知らせを聞き、すぐに一万の騎兵を派遣して迎え撃った。

味方は3千。
手ごわい相手だ。

双方が戦いの陣営を広げ始めたが、シュルハチは手下の五百人を率いて一方に退き、
チュイン、タイシャンらが奮戦するのを高見の見物を決め込んだのである。

シュルハチは傍観し、その手下チャンシュ、ナチブも戦闘に加わらなかった。

このためにチュイン、タイシャンらは最終的にはウラ騎兵を打ち負かすことができたとはいえ、
致命的な打撃を与えることができないまま、撤退するしかなかったのである。


このことが皆の轟々の非難を浴びたことは、いうまでもない。
ヌルハチはその手下のチャンシュ、ナチブを臨戦逃亡罪で処刑しようとした。

つまり弟を直接罰するのは、これまでの戦功の貢献度などを考えるとまだ憚られたが、
明らかに打撃を与えようという意図があった。

シュルハチは真っ向うから食ってかかり、
二人を殺すなら自分を殺せ、
と後先考えず、窮鼠猫を噛むが如き気迫で抵抗した。

このため、ヌルハチもやむなく処分を見合わせた。


しかしこの一件でシュルハチは完全にすべての軍事的権限を剥奪され、窓際に追いやられるのである。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語40、シュルハチ、ウラ部との対立を避けたい

2019年01月22日 10時07分03秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
シュルハチが兄との対立を決定的にしたのは、万暦三十五年(一六〇七)三月のことであった。

フェイユ(蜚悠)城なる場所に暮らす、ある小さな女真のが、
隣接するウラ部から強いられる奴役に耐えられず、ヌルハチの元に身を投じたいと申し出てきた。

ヌルハチとしては、陣営が大きくなるのは歓迎すべきことなので、
民を迎えに行くため、配下の者どもを派遣した。


前述のごとく、シュルハチはウラ部の酋長プジャンタイと二重の婚戚関係を作り、ヌルハチに真っ向から対抗している。
ヌルハチが当てつけの如く、この出迎え部隊にシュルハチを加えたのは、いうまでもない。

シュルハチが婚戚と事を起こしたくないことを知った上で、自分への忠誠を強要したのだ。

この時、派遣されたのはシュルハチ、ヌルハチの息子のチュイン、タイシャン、将軍のフェヤントン、ヤングリ、チャンシュ、フルハンなど。
兵三千を持たせて向かわせた。


これを聞きつけてウラ部のプジャンタイが、黙って民らを行かせるわけがない。
自らの隷属が他に取られるのだ。
当然、こちらも陣営を組み、迎え撃ってこれを阻止した。

シュルハチは道中、
同行の将軍らの旗の上に淡い光が見える、どうもこれはよくない兆候だから退却しよう、
と言い出す。

それがただの退却への口実であることは、すべての人にわかっていた。
シュルハチが兄に服しないこと、ウラ部が妻の実家であり、娘の嫁ぎ先であることは、誰もが知ることだったからだ。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語39、シュルハチの勢力拡大

2019年01月18日 10時07分03秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
旭日の勢いで勃興しつつあった満州は、
明にとっても朝鮮にとっても脅威でないわけはなく、
ヌルハチとシュルハチ兄弟らが仲たがいして、内訌で体力をすり減らしてくれることを願い、
積極的に仕かけたのである。
 
シュルハチはまんまと乗せられ、ますますヌルハチの下に甘んじなくなる。
 
ヌルハチの実力が十分に明に対抗できるほど強大になってくると、
両者の対立はいよいよ激しくなり、小競り合いの発生も多くなる。

明は罷免していた遼東総兵の職にあった李成梁を再び起用する。
かのヌルハチ兄弟らの祖父と父を死に追いやった戦いの将軍だ。
 

李成梁は兄弟の不仲を助長させるため、シュルハチを優遇し、
なんと息子の李如柏の側室にシュルハチの娘をもらいさえするのである。

シュルハチはこのほかにも満州内でも布石に余念がなかった。

ウラ部の酋長プジャンタイ(布占泰)の妹を妻にもらい、
翌年にはさらに娘のオシタイ(额実泰)をプジャンタイに嫁がせる。

明とも満州の他のとも個人的な関係を結ぶことにより、
本気でヌルハチに代わって満州の主になれると思い始めたのである。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語38、ヌルハチの同母弟シュルハチ

2019年01月15日 10時07分03秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
旗主ベイレの一人、アミンはヌルハチの同母弟シュルハチの子である。
アミンの位置付けを知るには、まずはヌルハチとシュルハチ兄弟の関係から紐解いていく必要がある。


ヌルハチの異母兄弟らが、戦場での活躍にもかかわらず高い地位を与えられず、
その子孫も後に清朝の政権の中で振るわないまま終わったことは、前述のとおりである。

これに対してシュルハチはヌルハチの同母弟として、
ヌルハチの片腕となり苦楽を共にしたが、やはり後には不仲となった。

創業の過程において、シュルハチの目覚しい戦功が人望を集め、次第に発言権が強くなったからである。


ヌルハチの勢力拡大に、分は対等いやそれ以上の貢献をしていると思うようになり、
ヌルハチの部下に甘んじることを潔しとしなくなるのである。
 

さらに兄弟の不仲を周辺諸国が利用したから、余計に始末が悪かった。
シュルハチはヌルハチの最も信頼できる代理人として、明朝や朝鮮に使者として赴くこと、再三に渡った。

明も朝鮮もこの時とばかりにシュルハチを盛大に歓待し、ヌルハチとまったく同格に扱うだけでなく、
故意に褒め立て、シュルハチこそが真の満州のハーンにふさわしいといわんがばかりに持ち上げた。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語37、旗主ベイレ

2019年01月11日 10時07分03秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ヌルハチの部隊の陣容が大きくなり、八旗が整えられてくると、それぞれの旗の主が決められた。

天命6年(一六二一)の朝鮮側の資料によると、
当時の八旗は一旗が一万二千人、八旗で九万六千人の規模であったという。

ヌルハチが自ら二旗を率い、タイシャン(代善)が二旗、残りの四旗の主がアミン(阿敏)、マンゲルタイ(奔古爾泰)、ホンタイジ(皇太極)、ドゥド(杜度)が受け持った。
 
この中でドゥドだけがかなり年が若く、後から旗主になった。
当初は残りの四人が「旗主」ベイレ、満州語では「ホショ(和碽)」ベイレとして、別格に扱われた。

「ベイレ」は、ほかにも多くいたが、皆「旗主」ベイレの傘下に入り、その命令に従わねばならなかった。
 

タイシャンはヌルハチの次男である。

当初は長男のチュイン(褚英)が父ヌルハチの信頼を受け、戦場でも活躍したが、
チュインは戦士としては有能でも性格が傲慢だったため、大臣らや他の兄弟らを多く敵に回し、弾劾された。

ヌルハチはチュインの非を認めないわけにいかなくなり、ついには幽閉の末、死を申し渡したのである。
このためタイシャンは次男ながら、後には頭角を現すようになる。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語36、ヌルハチの息子と甥ら

2019年01月07日 10時07分03秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ヌルハチにごく近い身内でありながら、出世に大きな違いが出たのは、兄弟だけではなかった。

息子らの運命にも大きな違いが出ている。

統一事業を進めていく上で同盟関係を結ぶべきから次々と妃を迎えいれたこともあり、
ヌルハチは息子十六人、と子沢山だ。
 
大福金(正夫人)三人の生んだ息子は
チュイン(褚英)、タイシャン(代善)、マンゲルタイ(奔古爾泰)、ドゴレイ(徳格類)、アジゲ(阿済格)、ドルゴン(多爾衮)、トド(多鋒)の七人、

庶妃の出はアバイ(阿拝)、タングタイ(湯古岱)、ダバイ(塔拝)、バプタイ(巴布泰)、ライムブ(頼慕布)、フィヤンゴ(費揚果)、
そのほかにも側福金(側室)の出のアバタイ(阿巴泰)、そして愛妃の出のホンタイジ(皇太極)がいる。
 

ヌルハチの息子らは幼年時代「タイジ(太吉)」と称されたが、
のちにすべて「アーゴ(阿哥)」と呼ぶように決められた。


しかしその中でも次第に称号の差が出てくるようになる。

正夫人の出の七人とホンタイジ、アバタイはベイレと尊称されるようになったが、
残りの庶出の七人はタイジのままで一生を終え、ベイレに昇格することはついになかったのである。
 

一方、ヌルハチの兄弟シュルハチらの子供は、ほとんどがタイジに遇され、
アミン(阿敏)、ジルハラン(済爾哈朗)、ジャイサング(斎桑古)の三人のみがベイレに昇格した。


それは彼らが軍功に優れ、頭角を現したからである。
今後の戦いの中でもこの三人の名前は、頻繁に出てくることになる。
 

リーダーの一等親や二等親で側近の多くが固められるのは、
氏族社会を単位として生活し、組織する騎馬系民族の典型的な特徴を成す。


漢人の農民蜂起では、ほとんど聞かぬ現象だろう。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語36、ヌルハチの五弟バヤラ

2019年01月03日 10時07分03秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
一番下の五弟バヤラお運命は、さらに数奇だ。
ヌルハチが起兵した時、バヤラはわずか2歳の乳飲み子でしかなかった。

しかしその生母は、ヌルハチにつらい少年時代を送らせた継母のナラ氏である。
バヤラは乳飲み子だったので何ら罪はないが、悪い因縁というしかない。


バヤラは優れた戦士に成長する。
十七歳の時、甥チュイン(褚英)、大臣のゴーガイ(喝蓋)、フェイントン(費英東)とともに
千の兵を率い、アンチュラク(安楚拉庫)部を攻めた。

バヤラは夜を徹して駆け、夜討ちで寨を二十箇所も陥し、残りをすべて降伏させ、人畜一万余りを得た。


さらに二十六歳の時には、再び大臣オイド(額亦都)、フェイントン(費英東)とともに
千の兵を率い、東海のウオジ部などのを攻め、人畜二千を得た。
 
このように若いながら勇猛果敢に数々の軍功を上げながらも、
生前は「ジョリクテゥ(卓礼克図)」、--つまりは普通のベイレでしかなく、
政治の中枢に関わる「執政ベイレ」ではなかった。

その子も太宗(ホンタイジ)代にも王公爵位に封ぜられることはなかった。

--因縁の関係ゆえ、致し方ないともいえるか。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語35、ヌルハチの兄弟

2018年12月30日 10時07分03秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ヌルハチの次弟ムルハチの件で注意しなければならないのは、
後の時代に漢女を母に持つ場合とやや事情が違うということである。

原始状態で暮らしていた当時の女真族には、後の宮廷のごとき一貫した教育システムがあったわけではない。
子供たちはそれぞれの母親が育てたことだろう。

つまり漢人の母親から生まれたムルハチは、漢人の母親の元で教育を受けた可能性が高い。
当時としては、同じ文化ではなく、育った環境にやや差があっただろう。

また奴隷出身の生母であれば、ムルハチの家庭での地位はあまり高くなかったことも考慮しなければならない。
ヌルハチは嫡出と庶出の違いをはっきりさせようとしたのだろうか。

あるいは正夫人の母とその子供たちであった自分たちが、後に受けた仕打ちのむごさがそれほどまでに骨身に応え、
どうしても兄弟間でも待遇に差をつけねば気がすまなかったのか。

この件は今の時点では、これ以上は検証できないので、ここまでとする。


次の三弟シュルハチは、ヌルハチと同母の生まれである。
ヌルハチの発展とともに堂々たる「三都督」まで勤めた。
またその子孫が、数代のちに紫禁城の主となった後、死後ではあるが、順治十年(一六五三)に和碽庄親王に追封されている。

つまりは「親王」、皇族の爵位としては最高位である。

シュルハチは最後までヌルハチと仲がよかったわけではなく、ひと悶着あったが、
その一連の経緯については、後述する。

四弟ヤルハチもヌルハチと同母の生まれだが、
没年と事跡の記録がなく、どうやら夭折したらしい。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語34、清朝皇帝たちの漢人血統

2018年12月26日 10時07分03秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
実際は、なぜ乾隆帝の親が漢人かどうかがそんなに重要なのかわからないほど、
漢人の親を持つ皇帝はわんさかいる。
 
康熙帝の生母・佟佳氏は、功臣を多く出した漢人の一族・佟氏の出であり、
嘉慶帝の生母・魏氏も漢人の包衣家庭出身、
ラストエンペラーの溥儀の祖母・劉佳氏も漢人である。

乾隆帝の親が漢人であろうとなかろうと、
大騒ぎするまでもなく、皇帝たちの血は漢人だらけだ。
 
血筋は、必ずしもアイデンティティに決定的な影響を与えない。


例えば、ユダヤ人は数千年も異郷に暮らしながら
独自の文化・言葉・宗教を維持してきたことで知られるが、血筋は必ずしも純粋ではない。

ユダヤ人同士の近親婚が多いとも言われるが、
実は原住民との混血は深く進み、見た目はほとんど区別がつかないまでになっている場合が多い。

では、何ゆえにユダヤ人になるかといえば、教育による文化・言葉・宗教的世界観の取得である。
小さい時からユダヤ教の洗礼を受け、旧約聖書の説法を聞き、
ヘブライ語を習得し、ユダヤ人のコミュニティーで価値観を共有することにより、
初めてユダヤ人としてのアイデンティティが生まれる。
 

同じように例えば康熙帝の母親が漢人であろうとも、
ほとんど母親自らが子育ての機会を与えられず、宮廷のシステムに則り育てられる場合、
漢人である母親から文化を継承する機会はなく、アイデンティティは満州族のそれとなる。

もちろん教養としての漢文は学ぶが、それは必要と判断されたものの取捨選択後であり、
親からの伝統の継承とは別系統である。

教養としての漢文の取得により、満州族の「同化」が進むが、それは別問題として考える。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語33、ムルハチの母は漢人奴隷

2018年12月22日 00時26分40秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ムルハチは確かにヌルハチと同母の生まれではない。

ヌルハチの生母シタラ氏は嫡妃、ムルハチの生母は庶妃・李佳氏である。
李佳氏という名前からして、ムルハチは漢人の奴隷女にお手がついて生まれた子供の可能性が高い。

「佳」の漢字は満州語の「ギャ」の発音に当てられ、
「なんとかギャ」は満州族らしい姓というイメージがあるらしい。

たとえばラストエンペラー溥儀の生母「クワルギャ」氏は、漢字で書くと「瓜爾佳」となる。
そこで漢人の帰化には、元の姓に「佳」を付け加えて満州姓とすることが慣習となる。
 

ムルハチの例を見るまでもなく、満州族は早くから漢人との混血が進んでいるが、
人種的にあまり遠くない以上、血統的な決定的な影響とはならない。

異民族に征服されたという意識、いやコンプレックスのある漢族の間では、
満州族が如何に「漢化」したか、特に血筋の上でも「同化」したかは、大いに重要な問題らしい。
 
そんな庶民の心の慰めとして、
特に偉大な皇帝といわれた乾隆帝が「自分たちの側の人間」と想像するのは、楽しいことのようである。

よく言われるのが、「乾隆帝の父親は、江南の海寧の陳閣老の子供だ」説と
「乾隆帝の生母は実は承徳の貧しい漢人の農民の娘だ」説である。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語32、ヌルハチの次弟ムルハチ

2018年12月19日 00時26分40秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ヌルハチには四人の弟がいることはすでに述べた。

長男ヌルハチを筆頭に次男ムルハチ、三男シュルハチ、四男ヤルハチ、末っ子バヤラがおり、
ヌルハチの起兵以後、四人の弟はそれぞれにベイレの尊称で呼ばれた。

四人のその後の境遇は大きく異なる。

まず次弟のムルハチと見ると、
ヌルハチより二歳年下、兄の蜂起を最初から強く支持し、全面的に協力した。

特に建州と海西の五部族連合軍との戦いでは、
敵の不意打ちに怖気づいた味方が誰もヌルハチの突撃についていかない中、
ただ一人兄と共に敵の中に切り込んでやっと味方の士気を奮い立たせたことがあった。

このほかにも数々の戦功を挙げているが、その後の出世は極めて地味だ。

本人の生存中は「青巴図魯(チンバトゥール)」というごく普通のベイレの爵位しか賜っていない上、
その子孫も息子十一人のうち、
第四子ウダハイ(務達海)が崇徳四年(一六三九、ホンタイジの治世)に輔国将軍に封じられているだけである。

輔国将軍は、十等ある爵位の中で下から数えて二番目でしかなく、
残りの息子十人はホンタイジ統治の下で誰も爵位を賜っていない。

戦功華々しいムルハチになぜ待遇がやや冷たい嫌いがあるのか、史料にはっきりとわかるような理由は載っていない。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語31、へトアラ城と身分制度

2018年12月15日 00時26分40秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
城はヘトアラ(赫図阿拉)城、満州語で「横に長い丘」と命名、
後に中原の主になってからは「興京」と追尊された。

築城は中州の中央になされたが、南、東西には広大な土地が広がり、
数万人規模まで徒党が増えても収容できるほか、演習場を作る余裕もあった。

この城を拠点とし、後金は急速な発展を遂げる。
 
拠点を安定させると同時に身分の分類も行われるようになる。
後の皇族制度の基礎がこの頃から整備され始めた。

「宗室」は、ヌルハチの父タクシの兄弟の子孫らまで、つまりはいとこの子孫までとし、
後には黄金色の帯をつけることが許される。
清朝の政権が確立してからは、等級ごとに俸禄を支給される。

「覚羅(ギョロ)」は、一族、やや近い親戚とでもいおうか。
フマン(福満、曽祖父)の子孫、ジェチャンア(覚昌安、祖父)の子孫、
つまりは「はとこ、またはとこ」の子孫と規定し、赤い帯を身につけることが許された。

後に制度が確立されるまでの間、
宗室のメンバーは「ベイレ(貝勒)」、「タイジ(台吉)」の称号で呼ばれる。

ベイレは満州語だが、タイジはモンゴル語から来ている。
さらに元をたどると、「太子(タイズ)」の中国語の発音だ。

モンゴル族は、元朝の滅亡で草原に戻ると、ほとんど中国の影響を持ち帰らず、
元の草原の民に戻ったといわれるが、数少ない痕跡の一つが爵位の名称だという。

このほかにも「福晋(フジン)」は、「夫人」から来ており、モンゴル語からそのまま満州語にも定着した。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語30、フィアラ城が手狭に

2018年12月12日 00時26分40秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
十六年後にこの地を離れざるを得なくなった理由は、情勢変化に伴う人口過多だ。

小さな勢力だった時は、守りやすく、ちょうどよい規模だった城も
たて続く戦勝で兵力が拡大し、収まりきらなくなったのである。
 
城内に四五箇所ある井戸だけでは、千人規模に増えた郎党とその家族の生活用水を賄うことができず、
人々は下の河まで水を汲みに行った。

春から秋までは桶でかつぎ、冬になると凍った河の水をのこぎりで切り出し、
荷車に乗せてえっさわっさと城門に続く坂道を押して上がる。

交差する荷車の絶えないことはいうに及ばず、数人の労働力を占拠する余計な仕事である。


ヌルハチが新たに見つけた場所は、なんと元の住まい、先祖代々住み着いた地であった。

フィアラ城からの距離はわずか五里、やはり蘇子河と加哈河に挟まれた中州だが、
フィアラ城と違い、高台ではなく、面積も圧倒的に広かった。

味方少なし頃のヌルハチにとっては、このだだっ広さが安全ではなかったのだが、
千人規模の徒党を抱える身になると、そのゆったりとした収容力が決め手となった。

海抜が低いだけに敷地内の井戸も水が豊か、城中に残る井戸は今も水を並々とたたえ、
地元の人々は「千軍万馬も飲み干せぬ」と褒め称えた。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語29、フィアラ城の建設

2018年12月08日 23時48分54秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
フィアラ(費阿拉)城の場所は、
ヌルハチ一家が先祖代々暮らしていた場所から遠くない(現在の遼寧省の東端・新賓県)。

フランハダ(呼蘭哈達=満州語の「煙突の峰」の意)山の麓にある二本の河、
ジャハ(嘉哈)河とシュリ(首里)河の間の高台である。

険しい山に囲まれて少数の谷の入り口を守りやすく、四方を川に囲まれた中州だ。


そこに内城と外城の二重に囲った城壁を作った。

内城にはヌルハチ一族百戸余り、外城には諸将と族党が三百戸、
外城の外側に庶民四百戸、合計八百戸の勢力を収容できる規模である。

それぞれの住宅の周りは木の柵で囲む簡単な造り、城壁の入り口には門楼があり、城内に井戸が四五箇所あった。

建物をすべて瓦屋根とするには、まだ力不足だったと見え、重要な建物以外は藁葺きだった。

周りを険しい山と河に囲まれた高台の城は、
敵多く、味方少ないヌルハチ郎党にとっては、守りやすく攻め難い要塞となった。


ヌルハチとその郎党は、ここで十六年暮らした。
ヌルハチは暗殺の危険から解き放たれ、建州女真の統一、海西女真との戦いに集中できるようになる。

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