ヌルハチの部隊の陣容が大きくなり、八旗が整えられてくると、それぞれの旗の主が決められた。
天命6年(一六二一)の朝鮮側の資料によると、
当時の八旗は一旗が一万二千人、八旗で九万六千人の規模であったという。
ヌルハチが自ら二旗を率い、タイシャン(代善)が二旗、残りの四旗の主がアミン(阿敏)、マンゲルタイ(奔古爾泰)、ホンタイジ(皇太極)、ドゥド(杜度)が受け持った。
この中でドゥドだけがかなり年が若く、後から旗主になった。
当初は残りの四人が「旗主」ベイレ、満州語では「ホショ(和碽)」ベイレとして、別格に扱われた。
「ベイレ」は、ほかにも多くいたが、皆「旗主」ベイレの傘下に入り、その命令に従わねばならなかった。
タイシャンはヌルハチの次男である。
当初は長男のチュイン(褚英)が父ヌルハチの信頼を受け、戦場でも活躍したが、
チュインは戦士としては有能でも性格が傲慢だったため、大臣らや他の兄弟らを多く敵に回し、弾劾された。
ヌルハチはチュインの非を認めないわけにいかなくなり、ついには幽閉の末、死を申し渡したのである。
このためタイシャンは次男ながら、後には頭角を現すようになる。
**************************************************************
遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮
ホトアラ城
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当時の八旗は一旗が一万二千人、八旗で九万六千人の規模であったという。
ヌルハチが自ら二旗を率い、タイシャン(代善)が二旗、残りの四旗の主がアミン(阿敏)、マンゲルタイ(奔古爾泰)、ホンタイジ(皇太極)、ドゥド(杜度)が受け持った。
この中でドゥドだけがかなり年が若く、後から旗主になった。
当初は残りの四人が「旗主」ベイレ、満州語では「ホショ(和碽)」ベイレとして、別格に扱われた。
「ベイレ」は、ほかにも多くいたが、皆「旗主」ベイレの傘下に入り、その命令に従わねばならなかった。
タイシャンはヌルハチの次男である。
当初は長男のチュイン(褚英)が父ヌルハチの信頼を受け、戦場でも活躍したが、
チュインは戦士としては有能でも性格が傲慢だったため、大臣らや他の兄弟らを多く敵に回し、弾劾された。
ヌルハチはチュインの非を認めないわけにいかなくなり、ついには幽閉の末、死を申し渡したのである。
このためタイシャンは次男ながら、後には頭角を現すようになる。
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