自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

説明責任

2009年01月08日 | Weblog
 俗に言う大物政治家や企業責任者の言い訳は、「説明責任」と訳されるアカウンタビリティーという言葉の重さを示すこととなった。
 この翻訳には違和感がある。経過を充分に説明し、その結果について責任を取ること、ないしそもそも説明できないことをしてはいけないということ、アカウンタビリティーという言葉にはそんな厳しさが込められている。「説明責任」はそんな厳しさの半分しか伝えていないし、説明さえすれば事足れりとなりかねない。事実、不祥事を起こしても、口先の説明だけで居座った経営者や政治家は多い。
 この言葉の元である「アカウント」は古くは聖書に出て来るそうだ。最後の審判のとき、人が神にする申し開きのことだという。自分の生涯が聖書の教えに反することはなかったかどうか迫られる訳だ。キリスト教国では緊張感のある言葉なのだろう。
 「説明・償責と訳してはどうか」という提案があったそうだ。中国の古典から引いた償責(責任を償い果たすこと)と説明とをセットにすれば、言葉の厳しさが伝わるというのだ。
 政治家や経営者に限ったことではないが、言い訳をした人々は、責任を償い果たしたのであろうか。はなはだ疑問である。

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