谷沢健一のニューアマチュアリズム

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追悼 稲尾和久さん(その2)

2007-11-30 | プロ野球への独白
 福岡斎場には早めに到着した。場内に稲尾さんの在りし日の映像が流れていた。寂寥の湧き上がる心でしばし見入っていると、日本ティーボール協会の吉村正副会長と末次義久専務理事から声を掛けられた。稲尾さんも協会の副会長である。やがて前参院議長の扇千景さんが最前列にお座りになった。また福岡で合宿中のアジア予選に向かう「星野ジャパン」のスタッフの面々も着席していた。
 稲尾さんは、私をいつでもどこでも「健一!」と呼んでくれた。その縁は、中監督(78~80)の時代にコーチとしてドラゴンズに在籍したときに始まった。投手コーチとはいえ、私が80年に復帰を果たすまで陰になり日向になりして応援してくださった。
 稲尾さんが日本シリーズ4連投や年間42勝は古今未曾有の記録によって、多くの野球ファンの記憶に刻み込まれ、「神様、仏様、稲尾様」と呼称された当時、三原監督の下に影のトレーナーが存在していた。故小山田秀雄氏である。日本酒マッサージで私のアキレス腱を蘇えらせ、私の心も回復させた名医だ。
 あるとき「小山田さんを覚えていますか?」とたずねたら、「忘れもしないよ。オレの凝縮された投手人生は小山田先生のお陰だよ」「一度、先生を交えて食事をしませんか。喜ぶと思います。」さっそく、私は段取りを重ね、会食が実現した。
 会話は弾んだ。「稲尾君は知る由も無いだろうが、三原監督は細かい指示を私に良く与えましてね。夜中に選手の寝姿を見てこいと言うんだなー。寝ぞうの悪い者には布団を掛けて回るんだが、寝姿で体調が分かるもんだと監督から教えられたねー」と小山田氏。「小山田先生も、お爺ちゃんになりましたね。それなのに、有志のポケットマネーで、福岡から名古屋まで皆さんの治療にいらしているとは有難いことですね」と稲尾氏。もっとも思い出に残る食事会の一つである。