ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

イングマール・ベルイマン・1~『沈黙』

2019年07月16日 | 1960年代映画(外国)
イングマール・ベルイマン監督の『沈黙』(1963年)を観た。

スウェーデンに戻る国際列車の客室に三人の旅行者が乗っている。
翻訳家のエステル、それに妹のアンナと子供ユーハン。
蒸せるような暑さの中、エステルが身体の調子を崩し、三人は途中下車する。
一行は、言葉も通じない、軍事的緊張下にあるらしい見知らぬ街の大きなホテルに入る。

アンナはバスタブで入浴した後、ユーハンにローションを塗ってやり二人して眠ってしまう。
中仕切りのある部屋の一方のベットに伏せっていたエステルは、多少元気になって飲みながら翻訳の続きを始める。

目覚めたユーハンはホテルの廊下を歩き回り、こびと一座の部屋で、こびと達に女装されられて一緒に遊ぶ。
このホテルには、他に誰ひとり客がいない。

アンナは、止めようとするエステルを無視して、一人で街に出掛ける。
部屋に取り残されたエステルはヒステリーに襲われ、ウイスキーを飲みながらベットから転げ落ちる。
エステルは床で、自分の家で死なせて、と神に願う・・・

公開当時この作品は、ショッキングな内容ということで成人映画になり、センセーショナルな話題が先行していた。
特に、アンナの“バーの男を誘って、教会に入り柱の裏の暗がりでセックスをした”というセリフが、
教会を冒涜しているとキリスト教国を中心に非難ごうごうだったと記憶している。
そんなこともあり、十代だった私は、見てはならないものを覗く気分で緊張し映画館に入った。
だから、この映画の記憶は、ベットを象徴の中心として強烈に残っている。

だが今回、50年以上経って観ると、普通の一般的な映画の印象で、当時からの衝撃的な記憶は何だったかと拍子抜けしてしまう。
自慰とか、観ていて想像力はかき立てられても、表現としての猥雑さはどこにもない。
そんな作品である。
でもこの作品には、ベルイマンらしく、映像的構図のすばらしさと引き換えに、難解さはどうしても否めない。
それは、架空の街やホテルの雰囲気、言葉が通じない老執事からもわかる。

そして、数少ないセリフの中から、徐々にエステルとアンナの確執が見えてくる。
ベルイマンが敢えて、“神の沈黙”作品の三作目と呼んだ理由が、観る者を悩ます。
というのは、エステルとアンナの会話、それぞれの考え方の中に“神”は出てこない。
あるのは、アンナが言う「姉は、エゴで優越感ばかりを持ち、ずっと私を嫌っていたはずだ」との思い。
それに対してエステルは否定し、「アンナを愛している」と言い、そのように言う妹を憐れむ。
が、アンナが外出することに、エステルは身体の弱い自分への当てこすりと思い、屈辱を感じる。

そこにあるのは、どうしようもない二人の意識の断絶。
それに加えて、エステルの死への恐怖。
このような重要な状況の中で、なぜ神は現れて物事を解決してくれないのか、果たして本当に神はいるのか、
とベルイマンは問題提起しているのではないかと想像する。
そのようにいろいろと考えさせてくれるベルイマンの作品が、私には興味深い。

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