原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

縄文の血(その一)

2011年09月20日 08時40分47秒 | 縄文

 北海道全域にわたって縄文遺跡が数多く点在している。我が標茶町も同様で、町内に全部で210を数える遺跡があり、そのうちの140までが縄文遺跡である(他はアイヌの遺跡)。すでに過去ログ(星の原野から)でも取り上げている。縄文時代については長い間、歴史の一通過時点以上の評価は得られていなかった。ところが昨今の研究で、縄文文化には日本の原点があり、欧州を含む他のどの国にも属さない独特の歴史文化であったことが解明されてきている。縄文を知ることは、日本人を知ることに繋がる。縄文時代は単なる歴史の1ページではなくなってきたと、強く思う。

縄文時代とは1万6500年前から約3000年前(紀元前10世紀ごろ)までをいう。いわゆる縄模様のデザインが施された土器が発掘された時代だ。これは中国や朝鮮半島、台湾にもない日本独特の文化であった。世界史では中石器時代から新石器時代に相当する。日本ではこの後に大陸からの渡来人が稲作や鉄製道具を持ってやってきて、いわゆる弥生時代が始まる。ところが北海道はこれと同じ歴史をたどっていない。寒冷地のために稲作が普及しなかった。そのために弥生時代は存在しないで縄文時代が継続、続縄文時代から擦文時代へと時を刻んでいる。本州とは別に縄文時代がさらに1千年近くも延長していた。まさに縄文の里、それが北海道であった。

一つ付け加えるが、この北海道の縄文文化とアイヌ文化は同一ではない。アイヌ文化は早く見ても紀元11世紀以降のもの。オホーツク文化が渡来して、はじめて現在のアイヌ文化が定着する。千年以上も時代が違うのである。

北海道の縄文人とアイヌの人は同一ではないか、あるいは北海道の縄文人と本州の縄文人は違うのではないか、という説がある。これは考古学的にも文化人類学的にもあまり考えられない。現在のDNA検証ではアイヌの人たちはオホーツク人とほぼ同じことが証明されている(北大の研究発表)。だが縄文人はオホーツク人とは違っていた。北海道に定着していた縄文人の中にオホーツクから来た人たちが混じり、それが現在のアイヌの人と呼ばれるようになったと考える方がはるかに自然である。私見だが、アイヌの人も和人と呼ばれる我々も縄文人をルーツにするという点で同一と考えている。

(標茶町では今も縄文遺跡の発掘がおこなわれている)

大きな疑問点の一つに、縄文人はどこから来たのか、というのがある。昔は北方渡来説と南方渡来説が同居していた。伝説に登場する海彦山彦の話から、南方から海洋民族が上陸、北からはシベリアを経由して北海道へ渡ってきた民族があり、それらが合流して縄文人となったという説である。どうもこれは疑問が多い。

縄文時代が始まる2万年前の極東アジアの地形にそのヒントがある。当時は極寒期であり、気温は現在より10度ほど低温であった。海水面は100m以上現在より低い。そうなると、間宮海峡や宗谷海峡はもちろん、日本列島は陸続きとなる。このことは歴史で証明されている。大陸から大量の人が移動することが可能であった。寒さを避けるためにシベリアから多くの人が現在の日本列島を目指して南下してきたことは容易に想像できる。

一方、南の琉球列島から屋久島、奄美大島が陸続きであったことは考えにくい。深い海の断層がここにはある。これでは船で渡るしかない。少数の人数が渡来するのは可能であるが、民族を構成するほどの大量の人が渡来することは考えられない。

つまり、縄文人はやはり大陸から陸を伝って移動してきた人たちと考えるのが一番素直だ。この北方渡来説を裏付けたのが、松本秀雄氏のGm遺伝子の研究である。南方系の人たちにはマラリア菌に抗体を持つ遺伝子があるが、北方民族にはそれがない。太平洋戦争の際、南方諸島に進軍した日本の兵士がマラリアに倒れたのは抗体のない遺伝子しかなかったからだ、と説いていた。つまり原日本人は北方から移住してきた人たちであることを血液の遺伝子から解明したものであった。正直なところ学会ではあまり多くの賛同を得られていないらしい。が、私にはこれ以上の説得力のある論説を知らない。

(発掘された石刃鏃の刃物)

北方渡来説を裏付ける証拠が、標茶町の縄文遺跡からもあった。2010年2月2日のブログ(星の原野から)でも紹介した石刃鏃(せきじんぞく)である。アムール川周辺をルーツとする謎の民族の痕跡が北海道に残っていた。彼らの独特な刃物の作り方は突然に生まれるわけがない。彼らは1万年前にすでに北海道に渡来し、生活していた。そして消えていった。民族が消滅したのではなく文化が突然消滅している。その理由は謎のままだ。

(謎を残す石刃鏃のクマ像)

ただ、奇妙な印を残している。前も紹介したクマの彫り物である。この時代、クマなどを神格化して像に彫るなどという風習はないものとされていた。アイヌ文化には熊送りという神聖な行事がある。アイヌの人たちにとってクマは畏れる対象であったからだ。だがこれは11世紀以降の文化。紀元前の遠い時代には考えられない。ということは、石刃鏃についてまだまだ解明されていない大きな謎があるということで、それは縄文人につながる謎であるということにもなる。

アイヌ文化と縄文文化には共通性が多いことをあげる学者も多い。同一性を謳う根拠の一つである。これはオホーツク人が縄文人の風習を取り入れただけのこと、一緒に生活すれば似るのは当然。むしろ外国文化を積極的に取り入れる好奇心の強い縄文人の性格だからこそ可能となった共同生活、あるいは混合と言えるだろう。この縄文人の性格は現代へとそのまま継続されているように思えてならない。

縄文時代を調べているうちに面白い話を見つけた。ある人の説なのだが、妙に納得するものがある。簡単に紹介しよう。

1万2千年前から7千年前の5千年間にかぎり、朝鮮半島においては日本における縄文時代と同時期の遺跡がほとんどない(50程度はあるらしい)。縄文文化は日本独特のものであることはもちろんだが、この時期、朝鮮半島に人が住んでいた痕跡があまりない(7千年前以降はある)。この時期の遺跡として、日本では三千から五千に及ぶ数が発見されている。これまで文化と呼ばれるもののすべてが、中国を起点に朝鮮半島を経由して日本に到達したと言われていた。このことからみて、縄文文化にはまったく違う流れがあったことを証明していた。この人が言うには縄文文化は、シベリアのバイカルから樺太、北海道を経由して日本全土に広がったものであり、縄文文化は朝鮮半島とは無縁のものであると解いていた。このこともまた重要なヒントを語っている。日本人と朝鮮人と呼ばれる人たちの違いに直結するからだ。同時に北海道の縄文人と本州の縄文人が違うという説も否定していた。

なぜこの時期の朝鮮半島に人が住まなかったのかについては理由は定かではない。加えて、その後、縄文人が朝鮮半島に進出するという説もこの人は語っている。話がますます面白くなるのだが、これを続けると本題から外れるので、いつの日か機会があれば紹介したい。

前置きが長くなりすぎた。縄文人は一体どんな人たちで、今の日本人とどのようにつながっているかについては、次回のブログで紹介しよう。→次回へ続く。


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2 コメント

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いやぁ、ロマンですね! (numapy)
2011-09-20 11:36:03
「グレートジャーニー」を企画し、ドキュメンタリーに出演した関野良晴と、何度か飲んだことがあります。
この話を彼が聞くと大喜びだと思います。
民族大移動時代、縄文人が南下してきて、列島に広がっていった。朝鮮半島からじゃなかった、という説は
大変面白い。ロマンがありますね。
ただ、南方から渡って来た集団が東北あたりにまで来ていて、そのあたりの縄文人と民族混交の果てに日本民族となった、と言う説もありますね。
日本民族のルーツはどうなるんだろう?実にロマンですね。次回を期待してます。
オイラ、あと一ヶ月ほど、違った種類の作業やら、仕事やらでとてつもなく忙しい!疲れてます!
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関根さんと知り合いでしたか。 (原野人)
2011-09-20 13:57:21
たしか、モンゴリアンが南米まで移動した道を逆行して旅する企画でテレビに出ていた人ですね。お医者さんだと聞いてました。たぶん、縄文人の移動はその時期と重なるものがあると思います。
縄文人についてはまだまだ研究不足です。これからだと思います。その分今は何を言っても許されるところがあります。もっとも、北海道の先住民問題ともかかわるので、難しいところもありますが。
それにしてもお忙しそうですね。体調に御注意を。ご自愛ください。
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