原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

台湾シリーズ⑤―芝山巌事件

2012年03月16日 07時54分34秒 | 海外

 台北市の北部に芝山と言う町がある。ここに芝山巌の森と言う丘山があり、頂上には恵濟宮の本殿と公園がある。市民の憩いの場でもある。台湾で初めての学校(芝山巌学堂)がこの芝山公園にあった。学校を創設したのは日本政府。台湾総督ができてわずか一カ月後の1895年(明治28年)6月のことである。その半年後の元旦(1896年)に事件が起きた。先生として派遣されていた6名の日本人が抗日テロにより殺害されたのである。六士先生として学校のすぐそばに手厚く葬られた。主導したのは台湾の人たちであった。後にここに芝山巌神社が建立(1930年)。以来、学問の聖地として台湾で教育に殉じた先生を祀る場所となった。

 芝山巌に学校が設立され、そこで起きた事件が台湾と日本を結ぶ強い絆が生まれるきっかけとなった。後に明石二郎が体系化する台湾の学校制度、そして蒋介石が最も恐れた日本語を話す台湾知識人の養成へと道が続いていく。

日清戦争の結果、下関条約により台湾が日本の領土となったのが1895年3月。5月には日本軍が台湾に上陸している。しかし抗日運動が各地で勃発し、世情は不安であった。ただし、これは日本と台湾との戦争ではない。少数民族を中心とする抗日テロが勃発し、それを克服するための局地的騒動であった。日本総督府は8月に軍政を敷き、全島の平定宣言をするのがこの年の11月。そして翌年(1896年)の4月から民政となっている。この複雑で混乱した世情の台湾で学校が設立されていたのである。

学校設立を推進したのは伊沢修二と言う当時の文部省の官僚。初代台湾総督の樺山資紀に進言した。彼は日本語教育の必要性を説いていた。台湾の人に日本語と学校教育を受けさせることで、日本人として扱おうとしたのである。国家として一つになることが強い国になると考えていた。明治維新後懸命な国づくりを目指していた志が伝わる。当時、植民地を持つ国としては考えられないことであった。インドネシアを植民地としていたオランダの高官は、伊沢に忠告する。現地人に教育や知識を与えたら、のちのち必ず反逆者となる。学校の設立など国を脅かすだけだと語っていた。しかし、伊沢は断固として学校推進をやめなかった。後に日本語教育を受けた台湾の知識人が多く輩出し、彼らこそが親日派の中心となったことをみると、この時の伊沢の決断は正しかったということになる。

不幸な事件は伊沢が正月に帰国している間に起こった。まだ抗日の嵐が吹き荒れる台湾では起こりえる事件でもあった。しかし、このことに真っ先に反応したのは台湾の人たちであった。彼らは六人の先生を手厚く葬り墓を建てた。なぜ台湾の人が彼らを大切にし、受け入れたのか。それは日本人の先生たちが危険を顧みず、武器を一切手にしなかったことにある。危ないから武器を持てと台湾の人たちが進言した。そして外に出るなとも忠告していた。にも拘らず、六人は逃げることもせず堂々とテロの人たちの前に出ていた。惨殺されるまで凛とした姿勢を少しも崩さなかった。その行動に台湾の人たちは教育と言うものの価値と意味を感じたのだ。台湾の人が最初に出会った「日本的精神」であった。現代の台湾ではこの日本的精神が今も高く評価されている。芝山巌には神社が建立され、台湾の学問の聖地となったのである。

 しかし、歴史はここで終わらない。太平洋戦争の終結と同時に日本は台湾から撤退する。この後に登場したのが本土から逃げてきた国民党を指揮する蒋介石一派である。彼らはとにかく日本的なものを排除した。神社など真っ先に破棄。先生の墓地などもすべて破壊されてしまった。台湾の歴史から日本的なるものを抹殺しようとしたのである。台湾シリーズ②でも紹介したが、こうした行為が外省人に対する本省人の反発を逆に呼ぶことになる。山頂にある恵濟宮の住職が密かに六人の墓から遺骨を運び出し、別の場所に隠した。白色テロと呼ばれる国民党の破壊から彼らを守った。蒋介石が亡くなり、台湾に民主化の扉が開かれて初めて、六人の先生たちも復活する。1995年には、芝山巌学堂の後身となる士林国民小学校で開校百周期年の祝賀式典が開かれた。日本からも卒業生が数多く参加。この年に新たに六人の墓が立てられた。2000年には倒れたままになっていた石碑も同じ場所に建て直された。この石碑には「學校官僚遭難之碑」と刻まれている。この文字は伊東博文直筆のもの。石碑は蒋介石によって倒されたままになっていたが、幸いにも文字が下向きになったままだったので、消されることなく残っていた。倒された石碑はベンチ代りに使われていたのである。ひょっとすると文字が見えないように隠したのは台湾の人たちであったのかもしれない。

(立て直された石碑。伊藤博文直筆の文字が刻まれている)

 今も台湾には日本語を流ちょうに話すお年寄りがたくさんいる。この人たちの原点に芝山巌がある。あまり観光地としては知られてはいないが、台北に行く機会があったなら、訪れてみて良い場所だ。歴史を感じさせる森は自然そのもの。台湾と日本の出発点となった場所はいろいろな思いを感じさせてくれる。

現在、神社であったという痕跡は石碑以外はほとんどない。入り口の長い石段に僅かに面影が残る。学校跡には図書閲覧用の小さな建物が建っていた。これは蒋介石時代に建てられたもの。今は内部に芝山巌事件の詳細が展示されている。六士先生の名前も列挙。この小さなお堂から少し上がった場所に六士先生の墓がある。

 今年3月11日、東日本大震災の一周年追悼式典があった。世界最大規模の200億円と言う義捐金を寄付してくれた台湾の人たちに日本人として深く感謝したい。にもかかわらず、日本政府は大変な失礼をしていた。台湾代表として出席した台北駐日経済文化代表処の副代表を指名献花から外していたのである。民間団体として扱い2階席へ。中国に気を使っての行為らしい。外務省は国家として承認されていないからだと言う。それなら同じ国家として承認されていないパレスチナが特例として扱われた理由の説明がつかない。国会で追及された野田総理は失礼があったとしたら、お詫びしたいと言った。失礼そのものだと思う。だが、官房長官は翌日、総理の言葉を否定した。この後、謝罪と撤回が二転三転。この国は完全におかしな政治家に席巻されてしまった。外務官僚も常識を見失っている。学校教育の原点からやり直してもらいたい。それも「道徳」の勉強からやり直してもらいたい。

 過去ブログを参照:

・2009年2月3日:西郷菊次郎

・2010年12月24日:元日本人

・2011年12月16日:明石元二郎(台湾シリーズ②)

・2012年2月3日:本省人と外省人(台湾シリーズ③)

 六士の氏名:楫取道明(38歳)、関口長太郎(37歳)、中島長吉(25歳)、桂金太郎(27歳)、井原順之助(23歳)、平井数馬(17歳)


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3 コメント

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歴史・・ (numapy)
2012-03-16 09:58:10
美談や好印象だけで終わりた行為が、後々さまざまな角度から検証され、多面体の構成だったことが段々明らかになる・・・。歴史と言うものは残酷なものです。それだけ、人間がコンプレックスな生き物であると同時に、世の中がフクザツな構成になっているということでしょうか?
それにしても、明治時代の日本人は、骨があった。使命感に満ちていた。開拓時代の北海道にもそういう人物は多々いたのでしょうね。
教育ですね (原野人)
2012-03-16 13:30:04
新自由主義が横行してから、日本の教育は大きく変化しました。原理が原則でなくなったことがたくさんあります。このことを日本人が反省しなければならない時代に入ったとも言えます。
政治家をここまでだめにしたのも、この新自由主義でした。反省すべきことが多すぎます。
何よりも無関心が一番良くないですね。
台湾人の「日本精神」が必要ですね ((・_・))
2015-11-12 06:06:36
こんにちは。
事件の詳細の客観的な御検証、拝読させていただきました。

「六士〔りくし〕先生」は「戮死〔りくし〕」に掛けてあるらしいです。人生を懸けて教育に意気込んでいた者達が悲惨な死を遂げたとの事でも…。
他にも、台湾人の為を心から誠心誠意思い活動していた台湾本省人や原住民達を含む教育者や警察官や住民達など、大勢が殉職していますね。

原住民達や本省人達にとっても、部外者の統治との事で、特に原住民達は部族毎に自ら蕃刀等を以て防衛し続けて来た歴史からの、拒否反応もありました。

オランダ人高官の方の実体験からの御意見も、一理有り、私も他の方々からも同様の意見を伺いましたが、本国人でも同様に「中途半端な知識での判断からの行動は、方向性が不安定であり、偏ったポジション取りになる危険が含まれている」という事の様です。

ですから、大日本帝国時代には、<主義者>と呼ばれた「偏った価値基準を強調してスローガンとして掲げた人達の集団」をとても警戒していました。

霧社事件等を検証された方の意見として、「相互理解の不足」「意思の疎通の不備」「知らない事による認識違い」も挙げられています。

高砂族との行き違いの例として、塩だけが調味料だった高砂族の部族に、日本人が善意から「味噌と醤油」をあげた時の事が書かれています。

日本人にとって「既知の美味しい調味料」であり、高砂族にとっては「未知の謎の、ヌチヌチとした黄土色の物体と黒い液体」でした。

その結果、日本人は「今頃、高砂族は新しい調味料で美味しく食事して喜んでいるだろう」と思っていた事でしょう。しかし、事実は、高砂族達は「日本人は俺達に『大便と血』を送り付け、俺達を挑発している!」と怒っていたそうです。そういった事が出走の原因になった事も有ったと…。

統治側にも協力者にも反対者にも死傷者が有り、現在に至っています。彼等が居た事を忘れずに、御互いに、情緒ある慰霊と思い遣りと相手を理解する気持ちと知識と知恵を以て接する事が出来る様にならないと、同様のケースでの犠牲者は避けられないのかもしれませんね。(と言っても、愉快犯の気持ちまでは尊重する気にもなれませんのが、私の実情ですけれど…)

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