奉(とも)の独り言

「オギャー」と泣きながら生まれてきました。
だから、死ぬ時は、笑って死ねるように生きたい!

「恵まれている」

2007年04月30日 | 松下幸之助「道をひらく」

 目は心の鏡
     =目は人の心を映し出す鏡のようなもので、その人の胸中に
              にある善悪の思いは、瞳に出て隠す事ができない。
      心が正しければその瞳は澄んでおり、心が正しくなければ
      その瞳は暗く曇っているということ=

   花摘み(ミニー) 「春だから投票してあげるね」
   ★=========★★★★★=========★

            「恵まれている」
                          松下幸之助「道をひらく」より

人間というものはまことに勝手なもので、他人をうらやみ、そねむことがあっても、自分がどんなに恵まれた境遇にあるか、ということには案外、気のつかないことが多い。だからちょっとしたことにも、すぐに不平がですし不満を持つのだが、不平や不満の心から、よい知恵も才覚もわきそうなはずがない。

そんなことから、せっかく恵まれた自分の境遇も、これを自覚しないままに、いつのまにか自分の手でこわしていまいがちである。

恵みにたいして感謝をし、その感謝の心で生き生きと働いたならば、次々とよい知恵も生まれて、自他ともにどんなしあわせな暮らしができることか、思えば愚かなことである。

だが恵みを知ることは、そう容易なことではない。古来の聖賢が、恵みを知れ、と幾万言を費やしてきても、実感としてこれを受け取る人はどれだけあるのだろう。

頭で理解はしていても、心に直接ひびかないのである。そこに人間の弱さがある。

お互いに修業をしよう。自分は恵まれているということを、直接、自分の心にひびかすために、日常の立居振る舞いに、今一度の反省を加えてみよう。

   落ち葉集め(グーフィー) 「邪魔だよ~どいて!」 

       写真:人吉城跡・熊本県人吉市
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熊本県の南部、熊本市から直線距離で真南に約70kmの場所に位置する。市域中央部の盆地(人吉盆地)が市の中心部である。人吉盆地の中を球磨川が東西に貫流し、市内では万江川・山田川・鹿目川・胸川など多数の支流が球磨川へ流れ込んでいる。北部と南部は九州山地の一角をなす山地である。市域南部は宮崎県鹿児島県に接している。中心部は古くからの城下町の町並みが残っており、小京都と呼ばれる。
そして、ここ球磨人吉には私の大好きな焼酎六調子酒造の圓(えん)がある。

 


「時を待つ心」

2007年04月29日 | 松下幸之助「道をひらく」

 遠きを知りて近きを知らず
       =自分から見て遠いことは分かるが、近い事は分からない
        他人のことはよく分かるのに、自分のことは案外分かって
        いないということ=
            (近くて見えぬは睫(まつげ))

     おねだり(ポンゴ) 「ポチッと頼みます!」

    ★=========★★★★★=========★

             「時を待つ心」 
                          松下幸之助「道をひらく」より         

何ごとをなすにも時というものがある。時ーそれは人間の力を超えた、目には見えない大自然の力である。いかに望もうとも、春が来なければ桜は咲かぬ。いかにあせろうと、時期がこなければ事は成就せぬ。

冬が来れば春は近い。桜は静かにその春を待つ。それはまさに、大自然の恵みを心から信じきった姿といえよう。

わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。

だが何もせずに待つことは僥倖を待つに等しい。静かに春を待つ桜は、一瞬の休みもなく力をたくわえている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。

時を得ぬ人は静かに待つがよい。大自然の恵みを心から信じ、時の来るのを信じて、着々とわが力をたくわえるがよい。着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る。

待てといわれればなおあせるのが人情である。だが、自然の理はわがままな人情には流されない。冷たいのではない。静かに時を待つ人には、暖かい光を注ぐのである。おたがいに時を待つ心を養いたい。

   ダンス(ダッチェス) 「クリックしてあげてね」 

          写真:熊本県芦北町:御立岬
  
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御立岬公園のある岬は、かつて景行天皇が熊襲(くまそ)征伐に訪れたとき、この地で「お立ち」になったと言い伝えがある歴史的な場所です。その岬に自然を巧みに利用した巨大なスポーツレジャーランドができている。ファミリーを中心に低料金で、自然と一体になって1日中遊べる所であり、公園内には温泉センター、海水浴場(人工ビーチ)、テニスコート、ローンスキー、スーパースライダー、パターゴルフ、人工釣り場、遊歩道、ジャンボ滑り台、展望所、多目的芝広場、くだもの村のみかんの家、シンボルタワー、人工の大滝、マリンハウス(高級バンガロー)、電動カートなどの設備が整っています。そのほか1千本の桜のほか、10万本のツツジやツワブキ、サザンカ等四季折々の花や木が植えてあり、美しい不知火海の景色と一緒に訪れた人を楽しませてくれます。


「自問自答」

2007年04月28日 | 松下幸之助「道をひらく」

 虚仮の一心(こけのいっしん)
        =愚かな者が一つの事を一心にやろうとすること
                    愚かな者でも、一心に取り組めば、目的を達成
         できるということ=

   待って~! 「頼めますか?」 

    ★========★★★★★========★

                              「自問自答」
  
                          松下幸之助「道をひらく」より

自分のしたことを、他の人びとが評価する。ほめられる場合もあろうし、けなされる場合もある。冷やかに無視されることもあろうし、過分の評価にびっくりすることもあろう。さまざまの見方があって、さまざまの評価がある。

だから、うれしくなって心おどる時もあれば、理解の乏しさに心を暗くする時もある。一喜一憂は人の世の習い。賛否いずれも、ありがたいわが身の戒めと受け取りたい。

だがしかし、やっぱり大事なことは、他人の評価もさることながら、まず自分で自分を評価するということである。

自分のしたことが、本当に正しかったかどうか、その考え、そのふるまいにほんとうに誤りがなかったかどうか、素直に正しく自己評価するということである。

そのためには、素直な自問自答を、くりかえし行わねばならない。みずからに問いつつ、みずから答える。これは決して容易ではない。安易な心がまえで、できることではないのである。しかし、そこから真の勇気がわく。真の知恵もわいてくる。

もう一度、自問自答してみたい。もう一度、みずからに問い、みずからに答えたい。

 花摘み  「厚かましいですか?」

             写真:南阿蘇・白川水源
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熊本市内を流れる白川。その水源のひとつがここ、白川水源。毎分60トンもの湧水量を誇り、おいしい水処として、年中賑わっています。杉林に囲まれた水源内は、外より涼しく、涼を求める人たちのオアシスでもあります。交通の便がよく、駐車場から水源まで100m程と、利用しやすい観光地です。年中通して14℃という湧水は、水源の地中より、砂を巻き上げ湧き出しています。水源内には、売店が建ち並び、湧水を持ち帰るための、ポリ容器を始め、白川水源ならではの名産品や地域の物産品などを求めることが出来ます。

 


松下幸之助 「花のように」

2007年04月27日 | 松下幸之助「道をひらく」

 ならぬ堪忍するが堪忍
      =もうこれ以上我慢できないところをじっと堪え忍ぶのが
                本当の忍耐だということ=
             (堪忍は一生の宝)

     スズラン  花とちょうちょ チューリップ  “ よろしくね”
   ★=========★★★★★========★

              「花のように」

砂漠に見いだす清らかな泉は、旅行く人の喜びであり憩いであり、そして励ましである。荒涼たる山野に、毅然として咲き誇る一輪の花は、また旅人へのこよなき慰めとなり励ましとなる。

今の世の中が、荒野の如く荒れ果てているとは敢えて言わないが、それでもこのむつかしい時代に、人々の心は次第に落ち着きを失って、索漠たる気配が感ぜられぬこともない。

おたがいに手をつなぎ、助けられながら生きねばならぬこの世の中である。人の心が砂漠の如く荒れ果ててはたまらない。
せめてわれわれだけでも、清らかな泉のように、毅然たる一輪の花のように、強く正しく働いてゆこうではないか。

むつかしいことかもしれないが、自分の仕事に誇りを持ち、自分の働きに意義を感じるならば、わが身の処し方もおのずからに見いだされてくるであろう。

どんな世の中になっても、あわてず、うろたえず、淡々として社会への奉仕を心がけてゆこう。その姿自体が、人びとにとってすでに大きな励ましとなり、憩いとなるのである。

 花のように。泉のように。そこにわれわれの喜びもある。


 

    チューリップ  チューリップ  花とちょうちょ    元気をください!

           写真:阿蘇:「阿蘇の涅槃像」
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お釈迦様が頭を東にして寝ている姿(東から西にかけ、写真では左から右方向)に見えることから阿蘇の涅磐像と呼ばれています。どうですか?確かにみえるでしょう?  いちばん左の頭に見える山は「根子岳」です。なぜこの根子岳の頂上がデコボコか知りたい方は肥後むかし話」のねこ岳のお話を読めばわかります。ちなみに、下の方に見える町並みは温泉で有名な内牧(うちのまき)の町です。

 


縁あって

2007年04月26日 | 松下幸之助「道をひらく」

 縁なき衆生は度し難し
        =広大無辺な仏の慈悲をもってしても、仏縁のない者
         は救いようがない。
         人の言うことを聞かない者は、救ってやりようがない=

   怒った! 「え~い!目障りだ!」

     ★========★★★★★========★

             「縁あって」

おたがいに、縁あってこの世に生まれてきた。そして、縁あっていろいろの人とつながりを持っている。

縁あって━ なんだか古めかしいことばのようだけれど、そこにはまた一つの深い味わいがひそんでいるように思う。

人と人のつながりというものは、とにかく人間の個人的な意思でできたと思いやすいもので、だからまたこのつながりは、自分ひとりの考えで、いつでも断てるかのように無造作に考えやすい。

だがほんとうはそうでない。人と人のつながりには、実は人間のいわゆる個人的な意思や希望を越えた、一つの深い縁の力が働いているのである。男女の縁もまた同じ。

そうとすれば、おたがいにこの世における人と人とのつながりを、もうすこし大事にしてみたい。もうすこしありがたく考えたい。

不平や不満で心を暗くする前に、縁のあったことを謙虚に喜びあい、その喜びの心で、誠意と熱意をもって、おたがいのつながりをさらに強めてゆきたい。

そこから、暗黒をも光明に変えるぐらいの、力強い働きが生まれてくるであろう。

        「投票してね!」   黙れ! 

          写真;熊本県山鹿市・日輪寺
   
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豊前街道【ぶぜんかいどう】随一の宿場町・温泉郷として古くから栄えた山鹿市。その山鹿市街から国道3号線を北上することおよそ4Km、右手前方の小高い山の麓に名刹「日輪寺【にちりんじ】」がある。その裏山には約35,000本もの久留米つつじが植栽され、つつじ公園として整備されてある。また、ここ日輪寺は市指定史跡とされ赤穂義士一七士の遺髪を納めた遺髪塔があることでも知られており、毎年ニ月の第一日曜日には「義士まつり」も開かれている。


松下幸之助 「志を立てよう」

2007年04月25日 | 松下幸之助「道をひらく」

 渇しても盗泉の水を飲まず
     
=どんなに困窮しても、断じて不正を行わないたとえ=
       (旅の途中、孔子は喉が渇いたが、泉の名が「盗泉」
        であることを知って水を飲まなかった)

     仲良し  お願い(^_-)-☆ 

   ★=========★★★★★=========★

             「志を立てよう」

志を立てよう。本気になって、真剣に志をたてよう。生命をかけるほどの思いで志をたてよう。志をたてれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。

志をたてるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。

今までのさまざまの道程において、いくたびか志を立て、いくたびか道を見失い、また挫折したこともあってであろう。しかし道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものがあったからではなかろうか。つまり、何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからでははかろうか。

過ぎ去ったことは、もはや言うまい。かえらぬ月日にグチをもらすまい。そして、今まで他に頼り、他をアテにする心があったとしたならば、いさぎよくこれを払拭しよう。

大事なことは、みずからの志である。みずからの態度である。千万人といえども我ゆかんの烈々たる勇気である。実行力である。

志を立てよう。自分のためにも、他のためにも、そしておたがいの国、日本のためにも。

   う~ん(ドナルド)「迷うちゃうなぁー」 

       写真:宮本武蔵五輪書を訪ねて「岩戸観音」
    
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雲巌禅寺(うんがんぜんじ)の奥の院にあたる「霊巌洞(れいがんどう)」に安置されている石体四面の観音像。平安朝の歌人檜垣(ひがき)が参拝したことで知られ、家内安全・商売繁盛などを願う参詣者が全国各地から訪れています。また、この岩戸観音がある洞窟「霊巌洞」は、宮本武蔵(みやもとむさし)が『五輪書(ごりんのしょ)』を著した場所としても知られています。

 


松下幸之助 「道」

2007年04月24日 | 松下幸之助「道をひらく」

学びて思わざれば則ち罔し(まなびておもわざればすなわちくらし) 
      =先生に教わっていくら学んでも、自分自身で考えて
       みなければ、本当に理解した事にはならない

    やったね!(ミッキー)   「任せて!投票したよ」

        ☆=========☆☆☆☆☆=========☆

                 「道」

自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。

広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。なぐさめを求めたくなる時もあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。

あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道。いま歩んでいるこの道、ともかくこの道を休まず歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。

   怒ったぞ!   迷ちゃうな!ウ~~ン」

              写真:熊本城
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西南戦争前
戦国期の肥後の国は当初「隈本」と記され、出田・鹿子木氏、佐々成政と城主が移り変わり、加藤清正の時代に現在のような大規模で堅固な城郭となり、名前も「熊本」と改められました。明治初期は陸軍鎮台が置かれ、神風連の乱、西南戦争といった不平士族の反乱の舞台にもなりました。特に西南戦争における天守のナゾの出火・焼失は有名な話。 西郷隆盛率いる軍の攻撃前に火災が発生し、天守ほか大部分が焼失します。 官軍側がわざと焼いたとか、失火であるとか、はたまた西郷軍密偵の放火であるとか、現在でも明らかではありません。
                               

 


松下幸之助「道をひらく」・さまざま

2007年04月23日 | 松下幸之助「道をひらく」

商人(あきんど)と屏風は直ぐには立たぬ 
      =屏風は折り曲げないと立たないように、商人も自分の
       感情を曲げ、客の意に添うようにしないとやっていけな
       いということ=
       (商人と屏風は曲がらねば世に立たず)ともいう。

     チュッ(ミッキー&ミニー) 二つともよろしくね 

     ★========★★★★★========★

               「さまざま」

春が来て花が咲いて、初夏がきて若葉が萌えて、野山はまさに華麗な装いである。さまざまの花が咲き、さまざまの草木が萌え、さまざまの鳥が舞う。さまざま、よりどりなればこそこの華麗さである。
この自然の装いである。

花は桜だけ、木は杉だけ、鳥はウグイスだけ。それはそれなりの風情はあるだろうけども、この日本の山野に、もしこれだけの種類しかなかったとしたら、とれもこの自然の豊かさは生まれ出てこなかったであろう。

いろいろの花があってよかった。さまざまの木があってよかった。たくさんの鳥があってよかった。自然の理のありがたさである。
人もさまざま。

さまざまの人があればこそ、ゆたかな働きも生み出されてくる。自分と他人とは、顔もちがえば気性もちがう。好みもちがう。それでよいのである。

ちがうことをなげくよりも、そのちがうことのなかに無限の妙味を感じたい。無限のゆたかさを感じたい。そして、人それぞれに力をつくし、人それぞれに助け合いたい。

いろいろの人があってよかった。さまざまの人があってよかった・・・。

    リラックス(トランプ) 押してはいよ!」

         写真:熊本南阿蘇・高森湧水トンネル公園 
   
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高森町の南阿蘇鉄道の高森駅の南にある高森湧水トンネル公園。このトンネルは開通するはずであった延岡と熊本を結ぶ九州中部横断鉄道のトンネルで、昭和48年12月に工事に着手したが昭和50年2月に突然大量の水が噴出。それ以後も度重なる出水事故発生で2055m掘った時点で工事を一時中断。その後日本国有鉄道再建法の制定により、高森線の第三セクター化が決定し、昭和55年に高森トンネル工事も中止となった。
現在トンネルは高森町の水源地として利用されており、常時毎分32トンの勇水量があり高森地区の貴重な水瓶となっている。
このトンネルが公園化されており奥まで入ることができる。中は電飾が飾られクリスマスのイルミネーションのようである。トンネルの歩道の中央部には溝があり湧き出た水がコンコンと流れているので夏でも涼しい。一番奥には水神様が祀られており、そこから湧き水が噴出している。またウォーターパールと言って水に特殊な音波を与え球体にし、ストロボの光の発行間隔の調整で流れ出る水玉が下に落ちたり上にあがったり停止したりと不思議な動きをする装置がある。少しおもしろい。

               投票よろしくね!(^_-)-☆

 


日々是新(ひびこれあらた)

2007年04月22日 | 松下幸之助「道をひらく」

                  御礼
人気blog Rankingに登録しまして一週間になります。皆様の本当に温かいご支援を頂き、順位も20番台の前半と本当私にとりまして、励みになりました。感謝申し上げます。これからも、毎日更新してまいりたいと思います、何卒ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。    奉

    ティンカー・ベルに扮したミニー  宜しくお願いします 
    ★========★★★★★========★

         「日々是新」

年があらたまれば心もあらたまる。心があらたまればおめでたい。
正月だけがめでたいのではない。心があらたまったとき、それはいつでもおめでたい。

きのうもきょうも、自然の動きには何ら変わりはない。照る陽、吹く風、皆同じ。それでも心があらたまれば、見るもの聞くものが、みな新しい。

年の始めは元旦で、一日の始めは朝起きたとき。年の始めがおめでたければ、朝起きたときも同じこと。毎朝、心があらたまれば、毎日がお正月。あらたまった心には、すべてのものが新しく、すべてのものがおめでたい。

きのうはきのう、きょうはきょう。きのうの苦労をきょうまで持ち越すことはない。「一日の苦労は一日にて足れり」というように、きょうはまたきょうの運命がひらける。

きのうの分まで背負ってはいられない。毎日があたらしく、毎日が門出である。

日々是新なれば、すなわち日々是好日。素直で謙虚で、しかも創意に富む人は、毎日が明るく、毎日が元気。

さあ、みんな元気で、新しい日々を迎えよう

 

    恋してる 甘えて御免ね 

           
写真:阿蘇・仙酔峡
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「花に仙人が酔うほどうつくしい峡谷」という意味が込められた仙酔峡は、初夏に5万本ものピンクのミヤマキリシマの花で埋まる。現在は中岳、高岳遊歩道も完成し、
岳火口一帯の険しい岩場を眺めながらのハイキングと組みあわせて楽しめる。


 


「欲」ということ=欲は悪の根源か=

2007年04月21日 | 松下幸之助「人生談義」

 欲の熊鷹股裂くる(よくのくまたかまたさくる)
      =欲が深すぎるとひどい目に遭うということ=
      (熊鷹は日本に生息する鳥では最大級で、羽を広げると
       1,7メートルのもなる。その熊鷹が二頭のいのししを同時
       に掴んだ。驚いたいのししが左右に駆け出したので、
       熊鷹の股が裂けてしまった。という昔話から)

    チュッ!(ミッキー&ミニー)    (*^_^*)ポチィと!
    ========☆☆☆☆========

            「欲は悪の根源か」

人間の欲望は、数限りなくあるようです。仏教ではこれを、三欲五欲とか、八欲十欲とか分類しているようですが、人間の欲望は、その質においても、その量においても、他の生物とは比較にならないほど広く、また深いものがあります。

まあお互い人間は、いわが欲の塊というか、欲と二人づれといってよいわけで、欲がないという人はおそらくないと思いますな。

それほど欲というものは、人間と切っても切れない関係にあるわけですよ。けれども、どうも、“欲”というと、これまでの通念として、あまりいい響きはありませんね。“欲が深い人”というと好ましくない人という響きがあります。

もっとも、そう考えるのもムリはない。お互いの社会生活において、何かよくない事件や、人と人とのみにくい争いなどは往々にしてこの欲に目がくらみ、ということから生じる場合が多いからです。

だから、これまで欲というものが悪の根源のように考えられてきた。そして、この欲を断ち、欲から脱却することが人間の徳として尊いことのように考えられてきた面があると思うのですよ。しかし、果たして欲は悪なのでしょうか。

ぼくはね、欲というものは、決して汚らわしいもにでもなければ悪の根源でもないと思うのです。それは人間の生命力のあらわれであり、生きんとする力が形になってあらわれてきたものだと思うのです。

つまり、これはね、蒸気船でいえば蒸気力のようなもにですよ。ですから、これを悪いものだといって停めてしまうと、船は動かなくなります。それと同じことでしてね、一切の欲望をなくせば、生命もなくなってしまうことになる。

欲それ自体は善でも悪でもないと思うのです。それは一つの力と考えるべきもので、善悪以前のものだと思うのですよ。生命力は人間が生きていくためにいわば宇宙根源の力によって与えられたものですからね。そのあらわれである欲望もまた天与のもの。

従って、人間はこれが与えられていることを大いに喜び感謝しなければならないと思うのです。欲望は感謝すべきもにであって、決して憎むべきものではない。

ただ注意しなければならないことは、善悪以前ということは、善にも悪にもなりうるということですね。

ちょうどそれは、われわれが船のカジを握っているようなもので、蒸気の力を善い方向にもっていくかは、このカジの動かし方一つにかかっているのですよ。

人間には、カジを左にも右にも動かしうる自由が与えられている。それは、船を順調に進ませるか座礁させるかの責任を負っているということでもある。つまり、みずからの欲望をお互いの繁栄・平和・幸福をおし進める方向に使うか、あるいは、お互いの不幸を招くために使うか、それは、人間自身が決めることだということです。

結局、欲望に対する認識とその処理は、すなわち、人間そのものの認識であり、人生の歩みを定めるものであるといっても過言ではないでしょうな。
                
     「松下幸之助:人生談義より抜粋」

   哀愁(ミッキー)  元気をください(^_-)-☆  

             写真:熊本県水俣市・湯の児温泉
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不知火海に面した海の温泉。景行天皇が発見されたという古い歴史を持つ温泉である。旅館が14軒ばかありあり各館とも露天風呂には凝っており、洞窟風呂やほら穴風呂、展望風呂と自慢の風呂がいっぱいである。それに、不知火海の海の幸が豊富に揃った料理も楽しみの一つである。また、桜の名所として有名で桜並木が続く
チェリーラインがあり、3月下旬~4月上旬の桜祭りには、八代海に乗り出す海上花見船が出て、船上からの花見も楽しめます。

 

 


困難に出会ったときに=寝床で考えない=

2007年04月20日 | 中村天風語録

 寝た間は仏
       =どんな人間でも、寝ている間は苦労を忘れて仏の
        ように無心になれるということ= 

     ゆらゆら(ドナルド)「投票してあげてね(^_-)-☆」 

   ========☆☆☆☆☆========

       「寝床で考えない」

今夜から寝がけに、必ず、寝床の中に入ったら最後、昼間の出来事と心を関係づけさせない努力をするんだ。人間、生きている間、自分がいくら朗らかに生きていようとしたって、はたから来る波や風は、これはもう防ぐことができない。そこが人生だ。

けれども、いったん寝床へ入ったら最後、どんなつらいこと、悲しいこと、腹の立つことあったにせよ、明日の朝、起きてから考えることにするんだ。

寝ることと、考えることをいっしょにしたら、寝れなくなってしまいます。どんな頭のいい人でも、いちどきに二つのことを思いもできなければ、おこなうこともできない。たった一つのことしかできないはず。

寝るなら寝なさいよ。寝床に何しに行くんだ。考えに行くんじゃないでしょう。あそこは考えごとは無用なところだ。

一日中、昼の間に消耗したところのエネルギーを、一夜の睡眠、夢ゆたけく眠ったときに、また蘇る、盛り返る力をうけるところだ。

寝ている間、あなた方の命を守ってくれている大宇宙は、ただ守ってくれているばかりではなく、疲れた体に、蘇る力を与えてくれている。

昔からいうだろう。「寝る子は育つ。よく寝る病人は治る」その力をうけようとする前に、眉に皺をよせて恨んだり嫉んだり、泣いたりするなんて、罰当たりなことはしないようにするんだ、今夜から。
                                「中村天風」

    うふふ(ミニー) チョット・チョット・(?_?)

 

    写真:緒方弘之「素晴らしい自然」菊池渓谷(熊本県菊池市)
     
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 菊池川の源をなす菊池渓谷は、うっそうとした天然生広葉樹で覆われ、その間をぬって流れる淡水は、大小さまざまな瀬と渕と滝をつくり、その変化に富む渓流と,美しい森林とがおりなす姿は絶景です。
また、天然クーラーと称され、夏の平均水温は13度と低く、身を切るような清流は避暑地として最適であり、渓谷ぞいは、川のせせらぎと小鳥のさえずりで、楽しい夢をさそい、秋は渓流に映える紅葉がすばらしく、春は新緑、冬は全山に霧氷の花が咲くなど四季を通うじて訪れる人々の心をなごませてくれるところです。

 

 


北風と太陽

2007年04月19日 | 松下幸之助「人生談義」

 足るを知る者は富む
      
=満足することを知っている者は、たとえ生活は
        貧しくとも、心は豊である=

   痛っ!   宜しくね(^_-)-☆ 
 ========★★★★★=========

             「北風と太陽」

ご存知の方も多いでしょうが、『イソップ童話』にこのような話があります。あるとき、北風と太陽が、どちらが強いかということを言い争った。

たまたま下の野原を見ると、一人の旅人がやってくる。北風は「あの旅人のオーバーをどちらが先にはぎ取るかで勝負をきめよう」と提案した。

北風は早速旅人のオーバーを吹き飛ばしてやろうと、つめたい北風をビュービューと全力をあげて吹きかけた。しかし、風が強くなればなるほど、旅人はオーバーのエリをしっかり立てて、身をすくめながら歩いていく。

次に太陽の出番となった。太陽は雲をはらいのけ、照りつけた。そのポカポカ陽気に、旅人は汗をぬぐい、ついにオーバーをぬいでしまった。

ざっとこんな話だったと思うんですが、これは非常におもしろい話だと思うのですね。われわれが、何か望むことがあったときに、太陽のような態度をとっているのか、北風のような態度をとっているかということですよ。

たとえば、あの人は大変いい人だから、自分のお嫁さんにしたいなと思う。その人にこちらを向いてもらうためにはどうするでしょう。

北風のような態度をとれば、きっと彼女は逃げていく。やはり太陽のような態度が必要なのでしょうね。

この話は人間関係のすべてに通じると思いますよ。
                   「松下幸之助:人生談義より抜粋」

   雨ふり(プー)  宜しくね(^_-)-☆ 

            写真:熊本市立田自然公園
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立田山麓にある、肥後藩主・細川家の菩提寺泰勝寺(たいしょうじ)跡です。細川家初代藤孝(ふじたか)夫妻と二代目忠興(ただおき)とガラシャ夫人の墓「四つ御廟(ごびょう)」や、武人でありながら茶道にかけては国内随一といわれた細川忠興の原図に基づいて復元された茶室「仰松軒(こうしょうけん)」などがあります。茶室「仰松軒」にある手水鉢(ちょうずばち)は、京都で細川忠興が愛用したもので、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や茶の師・千利休(せんのりきゅう)も使用したと伝えられます。

 


「困難に出会ったときに」=苦しみも微笑みに=

2007年04月18日 | 中村天風語録

我が身を抓(つね)って人の痛さを知れ 
     =自分の身に当てはめてみて、他人の苦痛を思いやれと
      いうこと。また、自分が苦痛だと思うことは、他人にはする
      なという戒め=

   怒った!(クルエラ)    クリックしてね! 
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            「苦しみも微笑みに」

悲しいことやつらいことがあったとき、すぐ悲しんで、つらがってちゃいけないんだよ。そういうことがあったとき、すぐに心に思わしめねばならないことがあるんだ。

それは何だというと、すべて消極的な出来事は、我々の心の状態が積極的になると、もう人間に敵対する力がなくなってくるものだということなんだ

だから、どんな場合にも心を明朗に、一切の苦しみをも微笑みに変えていくようにしてごらん。そうすると、悲しいこと、つらいことのほうから逃げていくから。

人の運命というものは、油断すると、常に本能と手を組んで歩こうとしているものなんだ。そして、消極的な出来事は絶えず、不器用な人々の周囲を徘徊しているんだ。

だから、運命の力をほどよく制御したかったならば、自己の本能の分別ない行動を正しく制御しなきゃならない。

苦しいとか悩ましいとかいうのは、みんな本能の踊り子に自分の心がなっていたための結果だよ。
                           「中村天風」 

               メリークリスマス!(ダルメシアン) 宜しくね

            写真:熊本市・水前寺公園内
     
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東海道五十三次を模したみごとな庭園であり、国の名勝、史跡に指定されています。筑山、浮石、松の木が巧みに配され、池のほとりには京都から移築した茶屋「古今伝授の間」がある。「長寿の水」は石の水盤に流水されていますが、この水盤はもともとは朝鮮の京城城門の柱の礎石であったといい、「袈裟」の銘が残っています。細川忠興公が大いに愛され庭に置き日夕賞玩されていたという貴重なものです。

 

 


「夫婦」というもの

2007年04月17日 | 松下幸之助「人生談義」

 冬来たりなば春遠からじ
        =暗く寒い冬がくれば、明るく暖かい春がすぐに
         やってくる。今は辛く苦しい状態であっても、それさえ
         しのげば、やがて明るい未来が開けてくる=

    たんぽぽよろしくね!(*^_^*) 
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          褒めあうことが必要

夫婦というものを、これだけ長くつづけてきますと、ときに、「夫婦にとって大事な事はなんでしょうか」とたずねられることもあるのです。ぼくは、それに答えられるにふさわしい人間かどうかはわかりませんが、しかしぼくなりに、これだけは大事だと思うようなことがあるのです。

それは、奥さんというのは、しかるべくご主人をほめるというか、その長所をよく認め、素直にそれを伝えていく、またご主人の方もある程度は奥さんをほめていくということです。

ほめるということはいたわりであり、お互い人間同士をしっかり結びつける一つの大切な絆ではないかと思うのです。

ぼくは、これまでにたくさんのご夫婦をみてきましたが、あまりうまっくいっていないご夫婦はどうもあまりほめあっていないように思える。
その反対に、うまくいっているご夫婦は、たくまず自然のうちに、お互いがほめあっている。そういうことがいえると思うのです。

男というものは、いや人間というものは他人からほめられるのもうれしいものですが、自分の奥さんなり、ご主人からそういうことを言われると、ひとしおうれしいものです。

ぼく自身も、たまに家内から「あなた、うまいこと考えましたね」とかいわれれば、正直なところ、うれしい気分になりますものね。反対にほめてくれないと、何か物足りない。そんなものですよ。

まあ、何といっても、夫婦はお互いによき夫、よき妻であり、信頼しあえることがいちばん幸せなことでしょうね。しかし、それには多少の辛抱が必要です。辛抱しないで、自分の好き勝手をして、いい奥さん、いい夫になるというのはどだいムリな話ですわ。

やはり、いい妻、いい夫になるためには、それだけの努力をしなければならない、ぼくは、そんなことを最近とくに感じるんです。
                                    「松下幸之助:人生談義より抜粋 」

          すげー!          よろしくね!(^_-)-☆

              写真:天草
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大矢野島、上島、下島を中心に大小120余りの島々が散在する天草。1966年20万島民の悲願であった本土と島が5つの橋で結ばれた。天草パールラインと命名されロマンの島も身近に観光できるようになったのである。
素朴な土地柄と新鮮な海の幸が訪れる人を歓迎してくれる。しかし、この美しい風土の背景には天草四郎をはじめとするキリシタン悲哀の歴史が秘められている。

 


日々愉快に生きるために=悪人と善人=

2007年04月16日 | 中村天風語録

 
 明日のことは明日案じよ
      =明日の事は今日から心配せずに、明日になってから考え
       ればいい。先のことをくよくよ考えるより、今現実を充実さ
       せて生きる事が大切だということ=  

      ゆらゆら(ドナルド)  よろしくね(^_-)-☆ 

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              「悪人と善人」

いつかある人が私に聞いた事がある

「先生のところには、どんなことがあっても、機嫌の悪いという人をみたことがないが、誰もどんなことがあっても、お怒りにならないのはどういうわけですか?」と言うから

「それはね、俺のところはみんなね、悪人ばかり多いからだよ」とこう言ったら、その人が目をまるくして「先生のところは悪人だらけですか?」「そうなんだよ」

まだ意味がわからないから、「どうゆうわけですか?」と聞くから、

「私のところじゃ、何か事が起こるだろう、そうすると、『あ、私が悪かった』とこう言う。誰でもいいから、私が悪かったってことを言って罪を背負ってしまうと、喧嘩にならない。人が一言でも、『あ、私が悪かった、そこにそれを置いたもんだから、壊れたのね』というふうに言っちまうこれ、喧嘩にならないよ。

ところが、あなた方の家庭だと、善人ばかりだからいけないね。何か事があると、『私はいいんだ、私は何も悪いことはしていないんだ。あの人が悪いんだ』とこうなると、そりゃ好きに喧嘩をやりだすものね」
                                 「中村天風」

       ダンス(ピノキオ)よろしくね(^_-)-☆ 

               写真:熊本県菊鹿町・棚田
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熊本県一の彼岸花の名所、番所地区。秋の訪れとともに、頭を垂れた稲穂の脇に、真っ赤に染まった彼岸花が咲き並びます。 ここは、古い家並や石垣が残っており、日本の懐かしいふるさとの風景を見ることができます。また、第二回県農村景観コンクールで大賞に選ばれ、毎年多くの方が見に来られます。