熊本県:黒川温泉
昨日は人の身今日は我が身
=昨日他人に降りかかった災難が、今日自分のものに
になるかもしれない。人の運命は、いつどのように
変わるかもしれないということ=
「宜しくお願いします」
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「一休さんの工夫」
松下幸之助「人生談義」
それは、一言でいうと、“人を見て法を説く”ということ、つまり、相手の人の性格や好みやそのときの気持ちをよくわきまえて、その人にあった言い方をするということです。
もちろん、自分の考え方を受け入れてもらおうと思えば、その考え自体が的を射たものであることが大切なのはいうまでもありませんし、熱心に熱意を持って伝える努力をすることも必要でしょう。しかし、それだけでは十分でない、やはり相手によって、言い方、説得の仕方を変えなければならないと思うのです。
そうでなければ、いくらいい考えを持っていたとしても、熱心になればなるほど相手の人の心を閉ざし、受け入れてもらえないということになりかねません。
あの有名な一休さんの若い頃の話に次のようなものがあります。
一休さんは若い頃から才知がすぐれていて、しばしば人を教え導いていました。しかし、中にはそんな一休さんの姿を見て、若僧のくせに生意気だ、と思う人もいたらしく、そんの人の一人が、ある日一休さんに質問しました。
「聞くとことによると、地獄とか極楽というものがあるそうですな」
「ありますよ」
一休さんはにこやかに答えます。
「しかし、その地獄や極楽へは行くのは、死んでからでないといけないといいます」
「そうです」
「人が生きている間に悪事をすれば、死んでから三途の川、死出の川などという難所を越して、そしてようやく地獄に入るといいます。そして極楽浄土というのは、ここより十万億土というはるか遠く離れたところにあるといいます。非常に遠い道のりを行かねばなりません。私たちのような体の弱い者は、極楽はともかく、地獄へも行きにくいと思うのですが、どうでしょう」
こういう質問を受けて、一休さんは静かに答えて言いました。
「地獄というのは、別に遠くにあるものではありません、目の前のこの世の中にあるのです。浄土もまた、ここから遠いところにあるわけではないのです」
するとその人は
「いやいや、あなたそのように目の前に地獄や極楽があるとおしゃるが、実際にあらわれて見えないのですから、私は納得できません。あなたのように若い坊さんとしては、やはりくわしく、わかるように示してくださることはできないのでしょうね」
と言ってあざ笑いました。バカにされて腹を立てたのが一休さんです。
「さてはあなたは、私を若年ものとあなどられるのですか!」
一休さんは、一本のナワを持ってその人のうしろへまわり、そのナワを首にかけて、ギュッと締めつけました。
「さあ、これでどうだ!」
締めつけられてはたまりません。
「苦しい!わかった、わかった。これは地獄だ。まさに地獄だ。助けてくれ!」
それで一休さんはそのナワをといてまた、たずねました。
「さあ、こんどは、こういう状態ではどうだ!」
ホッとして息をついたその人は答えました。
「やれやれ、これはほんとうに極楽だ。浄土だ。よくわかりました。いや、あなたはまだ若いから実際は大したことはないと思っていましたが、私が間違っていました。あやまります。あなたの才知はほんとうにすばらしい!」
一休さんは、口で言ってもわからないので当意即妙に身体でわからせようとした。そうすると、相手はたちまちのうちに理解したというのです。
これは、実際にあった話かどうかはわかりません。また自分の考えを相手に伝える方法としては非常に極端な例だとは思います。けれども、人に自分の考えを理解してもらおうとする場合には、この一休さんのような工夫がやはり必要なのではないでしょうか。
人はさまざまです。短気な人もいれば気の長い人もいる。緻密な人もいればおおざっぱな人もいる。理論派もいれば人情家もいる。というように、それぞれの持ち味がみな異なります。
しかも、それだけではありません。同じ人でもその心というものは刻々に動いていて、いわば千変万化の様相を呈しています。ですから、同じことを言っても、ある人は反発し、ある人は喜んで聞いてくれるといったことがあるでしょうし、同じ人でもそのときの心の状態のいかんによって、受け取り方はさまざまに変わってくると思うのです。
「何卒・宜しくお願いします」
写真:阿蘇・黒川温泉
田の原川沿いに旅情あふれる旅館やお土産屋やお食事処が軒を連ねる。各旅館のそれぞれに趣向を凝らした露天風呂を下駄と浴衣姿で巡る。小さな温泉地全体がしっとりとした雰囲気に包まれている。