奉(とも)の独り言

「オギャー」と泣きながら生まれてきました。
だから、死ぬ時は、笑って死ねるように生きたい!

生きる(20)

2007年02月22日 | 生きる「強皮症の母と」
母の病室は四人部屋である。
皆、母よりは若いが、70才位である。

毎日見舞いに行く私に「親孝行ですね」って言う。
母も皆さんから「いい息子さんを持って幸せですね」って
「子育てが上手だったんですね」言われて・・
「はい、幸せですよ」と
嬉しそうに笑う。

私は「親孝行ですね」って言われると、恥ずかしい。
決して私は親孝行な息子ではないし、毎日見舞いに行くのは
自分の中の日課みたいなもので、母の顔を見ると安心する.
只それだけの事に過ぎない。

日毎に母の顔色は好くなっている。
食欲も旺盛で、一安心である。

     写真:天草五橋

生きる(19)

2007年02月21日 | 生きる「強皮症の母と」
母も起き上がれるようになったし、テレビを見れる様に書類を提出して、
病室に着くなり、
「明日、退院して良いと」突然嬉しそうに話す。
「先生がそう言ったの、退院は無理やろう、まだ歩けんし」
そう言いながら、テレビを付けて、イヤホンを母の耳に当ててあげる。

母としてはテレビどころではない。
「チャンと先生に聞いてきて、退院って先生が言ったから」

{どうせ先生が退院出来るように頑張りましょうね}・・・
と、でも言ったのだろう。それを退院と早とちり・・・

母に急かされて看護士に聞きに行く
「母は明日退院と言ってますが?」「えぇ~先生から聞いていませんが」
と、早速、先生に連絡取りますから・・

先生と連絡を取った看護士に呼ばれる。
「胸水」が減って好くなっているとの事、明日、採血してその結果次第で・・
リハビリをして退院を予定しています・・・

母に、その事を告げる。
急に不機嫌になる・・テレビを見て話そうとしない。
チャンとリハビリをして、歩けるようになってから・・・頑張らんね!
そう言い残して帰る。

写真:熊本県・阿蘇



生きる(17)

2007年02月20日 | 生きる「強皮症の母と」
流石に、気丈な母でも兄・姉が帰って3日も経てば、寂しいようです。
私には、気を使って言葉にこそしませんが、親子ですから顔色一つで分かります。
 
母の病室にはテレビが設置されてはいますが、一日の使用料が200円必要です。
その事を、母も分かっておりますので、テレビを見たいとは言いません。

入院当時は、身体を起こす事も出来ませんでしたので、テレビを見る気分に
ならなかったのでしょう。

今は身体を起こせますのでテレビを見れるようにするね。と言っても
テレビは見たくない・・・見なくて言いと・・・

そこまで、気を使わせている自分が悲しいです。
かと言って強引に契約する訳にもいかず・・・
「水戸黄門」が再放送されてるよ・・
「氷川きよし」の番組があるよ・・・
寝てばかりじゃ「ボケるよ」と言っても効き目なし・・・

一日中ベッドの上での生活、何を思い・何を考えているのか・・
矢張り、今からテレビを見れるように病院に行って来ます。

生きる(16)

2007年02月19日 | 生きる「強皮症の母と」
自分の家族が病気になる。
チョットした風邪なら、近くの病院でも構わない、
母の場合は、一年2ヶ月前に、大腿骨骨折で手術をしました。

手術後は足が浮腫み、4~5ヶ月経っても、全く浮腫みが取れませんでした。
高齢のために、治るのに時間がかかる。その位の知識でした。

関西に姉夫婦が住んでいましたので、関西の有名な病院で見てもらう事しました。
骨にも異常は無いとの事。
浮腫みの原因は依然として分からず・・血液の検査をして次回の診察は一ヶ月後

そんな中、姉から「母ちゃんが吐血した」と連絡がありました。
逆流性食道炎との事です。
インターネットで逆流性食道炎について調べました。

母は一週間ほどで退院する事が出来ましたので、母を迎えに行き無事、熊本に
帰ってきました。

熊本では、母が何十年と診て貰ってる主治医がいますので、関西の病院の診断書
・レントゲン写真を持って行きました。

診断書を見るなり、膠原病の可能性が有りますね。
母の手足の浮腫みを手で何度も擦り「強皮症」と言う病名をその時初めて聞きました。その日は血液検査をして、次回の検診日を約束して・・・
ネットで「強皮症」を調べました。
難病指定・原因不明・完全な治療方法が分かっていない・・・の文字が目に飛び込んで来ました。

今、母は「強皮症」の治療を受けています
良く「有名な病院」「名医」という事を聞きます。
家族が病気をすると、「名医」に診てもらいたいと思うのは当然です。
母にとっての「名医」とは、長年母の病気を・身体を知り尽くしている
今、母を診てくださっている先生だと確信しています。


写真:熊本県・阿蘇

生きる(15)

2007年02月18日 | 生きる「強皮症の母と」
母と話すのは面白い。
昨日何を食べたかさえ忘れているのに、昔の事は鮮明に覚えている。

母の生い立ちから、父との出会い、私が子供の頃の話を永遠と話す。
兄の事、姉の事、私が生まれる前の話は特に興味深い・・

私は、祖父・祖母を知らない。
母が話して聞かせてくれるが記憶に全く無い。
記憶に無い私を不思議がる・・
あんなに可愛がってくれたのに、覚えていないのかと言われても三歳の時に
亡くなたらしい・・
記憶の引き出しを捜してみる・・・遠い昔、広い板張りの家に行った事。
祖母らしき人が寝ていて、その傍らで泣いてる人につられて泣いた事がある。
その位の記憶だけである。

昔話をする時の母は、時には涙し、時には笑いながら、得意げに話す。
昔話をしてる時の母は、病人で有ることを忘れさせるぐらいに生き生きと話す。
そんな母に、悪戯をして「保険証は何処に直してるか」と訊ねる。
「分からん」と急に困った顔になる。
「チャンと直してるから心配せんでもいいよ」と言う。
安心して笑う・・・

写真:熊本県・阿蘇


生きる(14)

2007年02月17日 | 生きる「強皮症の母と」
毎日、病院に見舞いに行くと、患者さんとも顔馴染みになって又、それも
楽しいものです。
ましてや、母と同じ病室の方は、母に「今日は朝ごはんは何だった?
今日は、風呂入ったの?体の調子は?」と訊ねると、母が答えるより
先に、答え・返事が返ってきます。

病人ですから、静かにしていて貰いたい時もあるでしょう。
静かに寝ていたい時もあるでしょう。
でも、いつも、皆気持ちよく私を迎えてくれます。
私を、実家に帰ったような気持ちにさせてくれます。

母の病状は、見た目には以前より、元気になりました。
手足の腫れは、見ていても本当に痛々しかったのに、
今ではすっかりひいています。
逆流性食道炎による痰の絡みも少しは和らいでいるようです。

見舞いに行く度に
母の背中、母の手、こんなに小さかったのかと、今更ながらに思います。
「随分苦労かけたからね」って言葉に出して言いたいけど・・・
もう少し、心に仕舞い込んでおきます。

     写真:熊本県・阿蘇


生きる(13)

2007年02月16日 | 生きる「強皮症の母と」
父を送ったときは、親戚・兄弟に何度「危篤」の知らせを送った事だろう。
その度に、皆が見舞いに遠くから来ては・・・
曾孫・孫・子供の顔を見ては、元気になり、10日後には、又「危篤」の
知らせをする。
そんな事が何度あったであろうか。

皆それぞれ、仕事があり、何度も休む訳に行かない。
でも、両親と暮らしている私は、何度でも、医者から「今日がヤマ場です」と言われれば連絡をしない訳にはいかない。

それでも、兄弟は皆、夫婦で駆けつけてくれました。

今、母の見舞いに兄弟・親戚が一週間来てくれました。
明日、皆帰ります。
母は今、以前とは見違えるように元気になりました。
外泊・外出の許可を貰い、家にも二度帰ってきました。

急に寂しくなります。
母が寂しがらないように、と皆から頼まれますが・・・
私でさえ寂しくなると感じているのに、母を寂しがらせないように出来る訳が
ありません。
只、母とお喋りをしに病院には、毎日時間の許す限りは行きます。




生きる(12)

2007年02月15日 | 生きる「強皮症の母と」
「二度と家に帰る事が出来ないかも・・・」その覚悟をさせられた。
そんな、母の病状はすこし良くなっているのか?医者から、
リハビリを来週から開始します。
その後、家に帰れるようにします。
有り難い事ではある・・・・!

医療制度改革によるリハビリの打ち切りで、帰れるのか・・
そんな事が脳裏をかすめる。

以前もリハビリの打ち切りで70日ぐらいで、まだリハビリが必要なのに
退院させられた。
もう少しリハビリをしていたら、母はモット元気だったはずだ・・・
もう少し歩けるようになっていたのは間違いない!

然し、今度は「母が生きて帰る事のない家」と思った家に帰れるんだ。
自分に出来る事の精一杯をしよう。
背伸びをせずに、無理をせずに、自分に正直に!
母の笑顔が今日よりも、一つでも増えるように・・・!


生きる(11)

2007年02月13日 | 生きる「強皮症の母と」
母の元気なうちに会えて良かったと叔父が話す。
私は、一人病院に帰った母が、楽しかった時間以上に今、寂しさを感じているであろうと心を痛めている。

かと言って、叔父に会わせた事を後悔はしていない、それどころか、叔父には感謝しても感謝しきれない程の気持ちである。
喜びの後は悲しみが必ず訪れるのだろうか?

そんな事を考えながら、母の見舞いに行く。
顔色が悪い。
下痢をしているとの事、3日間続いているらしい、早速インターネットで強皮症の症状を調べる、便秘・下痢の文字が目に飛び込む。
病状が悪化してるのか?
手足の腫れがひいて、安心していたのに・・・・

叔父に会えた事を母も喜んでくれた。
「嬉しかった分寂しいね?」って聞く。
「会えて良かった。元気になって今度は自分から会いに行く」と言う。

母の前向きな姿に少し元気を貰った。

生きる(10)

2007年02月12日 | 生きる「強皮症の母と」
楽しい時間は、あっと言う間に過ぎ去りました。
今日の夕方6時に母を病院に送ってきました。
このまま、家に居たいであろう母の気持ちを思う時、切なさを感じます。
母は、母で家に居ると、皆の手を煩わせる事を知ってか悲しい顔を見せずに
帰りました。
 
老いていくことの苦しみ、病の苦しみ、別離の苦しみと戦いながら・・・

確かに歩く事の出来ない母を看病する事は気を使います。
下の世話一つにしても大変です。
それは、世話をする方も、される母も同じでしょう。
でも母の居ない家はそれ以上に、寂しいものです。

母は多分、子供に気を使わせるよりは・・・
子供に下の世話をさせるよりは、自分が我慢をした方がと考えているのだろう。

子供の優しさが時として重荷に感じるのか・・・
自分自身に歯痒いのか憎まれ口を言います。
親子だから許しあえる口喧嘩です。

もっと口喧嘩もし、笑い声も聴き、日常の会話を何気なく・・
只、親が生きてるというだけで良いのです。

生きる(9)

2007年02月11日 | 生きる「強皮症の母と」
我が家から久し振りの笑い声が、近所の迷惑も省みずこぼれる。
今日は母の90歳の誕生日である。

遠くから叔父、姉夫婦が母の誕生日を祝いに掛け付けてくれる。
私は、母の外泊の許可を病院に打診するも断られ、兄への言い訳の言葉と母のガッカリすれであろう姿を思うと、見舞いに行くのを躊躇してる。
今日、見舞いに兄夫婦が来る事、叔父が来る事を母に伝えた、今日家でお祝いをしようねって・・・母に言った自分の軽率な言動が心に重くのしかかる。

「今度は無事に家に帰る事が出来ないでしょう」と先生の言葉が胸を締め付ける。
部屋を掃除して、母の洗濯物を洗い気を紛らわす。

憂鬱な時間の中突然携帯電話が鳴る。
病院からである。「先生から外出許可が出ました」
嬉しさと安堵感・・・
「では。今から直ぐ母を迎えに行きます、宜しいですか」「ハイ」
病院と我が家は歩いて5分である。
こんなに近い病院を、遠くに感じていたんだなぁ・・・私がこんな気持ちでは・・
母が帰りたい時はいつでも、帰らせてあげよう、そう考えながら迎えに行く私、
先程までの憂鬱な気持ちは何処へやら・・
足取りも軽くなり、母の喜ぶ姿が目に浮かぶ・・・
「母ちゃん、家に帰るよ」「先生が駄目って、まだ、外出は無理って」
「先生から許可を貰ったから」「本当ね!」
「本当たい、車椅子でこのまま帰るばい」
嬉しそうは母。
携帯が鳴る。
「トモか、家に着いたけど、今何処に居ると?」
「うん!病院、今から母ちゃんを連れて帰るけ、待っとって」
誕生日祝いに花束、赤飯を作って来た兄夫婦、何十年振りに会う叔父に、涙を流し
喜ぶ母。そんな母の姿を久し振りに見た。
笑顔が一番の薬なのか・・・母の久し振りの大声での笑いに病魔が逃げ出したのか・・・いつもなら「疲れた、横になる」と言う母。
時間の経つのも忘れ、我が家から笑い声が夜中も響く・・・ 
そんな母に時間が遅いから今日はこれで寝ようと頼み込む息子。
もう、夜が明ける。





生きる(8)

2007年02月10日 | 生きる「強皮症の母と」
{このまま死ぬかもしれないなぁ。最後に会いたかったなぁ。}
意識が薄れていく、頭の中が空っぽになって気持ちがいい。
{このまま死んでもいいか}
2005年12月31日の事である。
実はその5日前に十二指腸潰瘍の手術をして退院したあくる日の事です。
「先生、又下血しました」「今日は病院は年末で担当の先生が休みなので、
・・病院に行って下さい。先方には連絡しておきますから」
兄の運転で兄弟3人に付く添われ病院に着く。
指定された病院に来て、2時間待たされ、血圧・体温等の測定が始まる。
「先生、血圧が75/40です」
紹介先の病院からのカルテに目を通しているのか、担当の先生は来ない。
そんな中、意識が段々薄くなっていく・・・
意識が薄くなるにつれ、頭の中は空っぽになり、気持ちがよくなっていくものである。時計の針をじっと見つめる、両側には救急車で運ばれたのか、今にも死にそうな患者が、大声で唸る。
「十二指腸に穴が空いています。かなり出血されていますので一応内視鏡手術をします、それで駄目な場合は外科手術に移行します。
外科手術になりますと、出血しますし、万が一の結果になるかも知れませんがいいでしょうか?」
「先生、成功の確率は何%位ですか?」「何とも言えませんが30~40%位です」
「お願いします」
人生って終わる時はこんなもんかな・・不思議と、モット生きたい。死にたく無いといった感情が湧かなかったが不思議である。
意識が薄れていく時は不思議と気持ちがいい、
そんな中、看護婦が、これからの手術の説明・手術に当たっての同意書の説明と
捺印を私に求めるも、字を書くのもヤットである。手の人差し指に朱肉を付け、
書面に誘導してくれる。
それから先は如何して手術室まで運ばれたのか記憶にはない。
目が覚めたのは、点滴をされ、色んな機械が横にあり、手術を今からするのか、
それとも終わったのか、キョロキョロしていると、看護婦か無事に終わりましたよ。800CC輸血しました。家族の方は帰られました。又後で来るからとの事でしたと教えてくれた。
成功したんだ、腹は、傷が無い。内視鏡手術で成功したんだ。
涙が一粒・・・

ピロリ菌による十二指腸潰瘍です。
全く痛みもありませんでした。
夕食後、胸が急にムカつき、もどしましたが自分では完全に
食中りと思い込んでいました。トイレには何度も行きました。
7回程行ったと思います。
トイレを終え立ち上がると目眩がしました。
歩く事さえフラフラしてキツイのです。
食中りにしてはおかしいとその時初めて思いました
次のトイレに行ったときに、初めてトイレットペーパーと便器を見ました。
真っ黒でした。
臭いました。臭いが無いのです。
その時、下血してる事に気が付きました。
自分で救急車を呼び、最初の手術をしました。





生きる(7)

2007年02月08日 | 生きる「強皮症の母と」
「介護に疲れて母親を殺害」!悲しい記事を目にする。
一人で何もかも背負ってしまったんですね。
週に1,2日はヘルパーさんにお願いするとか、ディサービスを利用し、自分を
少し開放しないと、殻に閉じ込まってしまうと悪い方へ、悪い方へと自分を追い込んでしまうものです。
母の見舞いに行くと病室が変わっていました。
いつも、病室の入り口のおばあちゃんに挨拶すると「お帰りなさい」って言ってくれていましたが、今日は「お母さんは病室変わったよ」って・・
折角、おばあちゃんとも友達になれたのに・・
今度の病室の方々は、歩ける人、車椅子で自分で移動できる人達のようです。
病室には、母一人がベッドの上に座っていました。
病室が変わったばかりで、話し相手がいないのか、何時もの元気なし!
「気分はどうね?」って聞くと「寝かせて」って言うから薬を飲ませて、横にさせて、又明日ね!って帰る。




生きる(5)

2007年02月07日 | 生きる「強皮症の母と」
6年前に父を亡くしました。丁度母と同じ90歳でした。
入院して3ヶ月で旅立ちました。「肺水腫」でした。
仕事帰りには毎日見舞いに行き、バナナ・イチゴをつぶして食べさせました。
私は父の43歳の時の子供です。
小学生の頃は父は50歳過ぎで又、頭も禿げておりましたので、友達の父親と比較しますとたいそう老人に見えましたので、そんな父を嫌っていました。
父とは必要以上に接する事は有りませんでした。
でも、人間として、人の悪口一つ言わない父・誰にも笑顔で接する父を尊敬はしておりました。
父の入院期間中が一番父と接する事の出来た時間です。
いつも「ありがとう」と言う父に会いに行くのが楽しくて・・・・
そんな父も人工透析をするようになり、透析中には血圧が上が60ぐらいになるのです。すると先生を呼び透析を中止します。
透析がかなり辛そうでした。
そんな日が1ヶ月ぐらい続きました。
あくる日先生が「明日の透析は如何しますか?ご本人さんも大変辛そうですし・・」「中止してください」と答えました。
父が亡くなったのは、明け方5時半です。
毎日病院に、時には会社も休んで・・・でも最後の最後に父に会えませんでした。
今も病院の前を通ると、最後に父は何か言いたい事があったんじゃないのかと・・
家族に見守られる事なく逝った父・・・
見守って逝かしてあげたかった家族・・
只只見守って逝かせてあげられ無かった事を後悔しています。
                              合掌