熊本県:山鹿市・日輪寺
「二つの見方」
ご存知の方も多いと思いますが、二宮尊徳翁がおもしろいたとえ話をしています。
田舎から二人の若者が花のお江戸に仕事を求めて出てきました。そうしますと、江戸では、街角で一杯の水を売っている人がいます。二人はそれを見て驚きます。しかし、その二人の驚き方が異なるのです。
一人の若者は“なんと、江戸では一杯の水も金を払わないと手に入らないのか。このようなところではとうてい住みつづけることはできない”と、気を落として田舎に帰ってしまう。
ところがもう一人の若者は、“これはおもしろい。江戸では一杯の水を売ってさえ商売ができるのか。知恵を働かせば、商売の道は無限だな”と、胸をおどらせて江戸に残ることにした、というのです。
一杯の水を売っているという事実は一つですが、その見方はいろいろあり、悲観的に見ますと、心がしぼみ絶望へと通じてしまいます。しかし、楽観的に見るなら、心が躍動し、さまざまな知恵や才覚がわいてくる、ということを尊徳翁はいいたかったのでしょう。ぼくもその通りだと思います。
ぼくは、よく人から、「苦労されたでしょう」ということを言われたり、「いちばん苦労されたのは何ですか」という質問を受けたりするのですが、そのときいつもハタと困ってしまいます。というのも、実際、あまり苦労したという実感がないからです。
それはなぜかと考えてみると、おそらく、九歳で大阪に奉公に出てきてから今日まで、意識的にも無意識的にも、水売りの姿を見て江戸に残った若者のように、ものごとを積極的に、明るく見てきたからではないでしょうか。
船場で小僧時代には、確かに寒風吹きすさぶ冬の朝に、手まで凍りついてしまうような冷たい水でぞうきんがけをしたり、ご主人の言われた用件を間違えて大目玉をくらったり、ビンタをはられたりしたこともありました。
しかし、当時はご主人や先輩から、常に、「苦労してこそ一人前になれるんやで。苦労というものはお前の身になるのや」と言われていましたし、一瞬“つらいな”と思っても、次の瞬間、“いや、これは自分のための苦労や”と思い直していたように思うのです。そうすると、苦労が苦労でなくなり、むしろ喜びに変わってきます。
=松下幸之助「人生談義」=
熊本県:山鹿市・日輪寺
古い寺であるため境内には、寺にまつわる史跡も多くあります。菊池武時の息女了心素覚尼の五輪塔や在銘の梵鐘、忠臣蔵で知られる赤穂義士のうち細川藩に預けられた17士の遺髪を納めた遺髪塔があります。
「友人との会話」
ツルル~ン
「久し振り・・・なんばぁ・・・しよっと」
「今・・・泣いた~」
「なぁ・・・なんで・・・なんか、あったの」
「テレビでナイター観よっと」
「巨人、阪神戦」
「巨人が負けて・・又・・泣くばい!」
「ナイターば見て泣いた~」
なんて、言わんでよ!
「tomoは、なんばしよっとね」
「うん・・・ネット」
「又・・パソコンばしよっとね」
「目が悪うなるばい」
「誰が・・パソコンって言うたね」
「寝っと!」
「あんたこそ、ネットばしながら寝っと」
なんて・・つまらん洒落ば言わんでよ!だって!