私の思いと技術的覚え書き

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職業的正義

2023-02-05 | コラム
職業的正義
 日本もいちおう法治国家と云われている訳だが、法律の網を網をかいくぐりだとか、あまりに大きな問題だと、誰もそれを警告しないし、もちろん警察など捜査機関も捜査しないし、検察も追訴しない。その端的な事例が311福島原発の事例だろう。

 民事における株主代表訴訟では、経営陣に総額13兆円という一審判決出されているが、刑法上の訴訟は検察段階で不起訴で、検察審査会でも不起訴が続いている。そもそも、事故が生じて以来、国会事故調とかその他調査委員会は調査を行ってきて、それなりにこれは天災でなく人災だとの結論が下されているだが、正式の捜査機関、今回の場合で云えば、警察、労働基準監督署、消防署などまったく手を付けないという異常さだ。

 津波の予見性があったのなかったのと天災絡みの論議がなされるのだが、私が思うに全電源喪失という事態を頭からあり得ないとして、その訓練とかそれを想定した準備をまったく怠っていた訳で、このことは絶対どれなりの罪を問う必要があるのだが、そうなると国(経産省もしくは原子力保安院)という国家官僚の責になるという当たりが、誰もが黙るという構図なのだろう。しかし、こういう責任を追及しない、つまり反省すべきを特定しない姿勢は、絶対将来また、事故を起こすことだろう。この事故に限らず、先の太平洋戦争についても、GHQの裁判が行われたのだが、その際に公職追放はなされたが、多くの官僚はそのまま維持された。つまり、高位者とか指揮者には、為したこと為さなかったことについて、同等の責任があるのだが、黙って天の声に従うのも大なる責任だろう。

 ところで、日本および多くの国では、罪刑法定主義と呼ぶ、「いかなる行為が犯罪となり,それに対していかなる刑罰が科せられるかについて、あらかじめ議会が民主的に定める成文の法律をもって規定しておかなければならない」という近代憲法の原則がある。 「法律なくして刑罰なし」という法格言があるが、これがまさに罪刑法定主義の内容である。

 また、今回の主題における正義(もしくは倫理)というのは、その世界によりやや異なった正義というものがあるのだろが、善良なる国民を前提にした社会一般に共通する正義というものがあるはずだ。

 身近な事例を引き合いに出せば、修理とか板金業という職業における正義で云えば、幾ら顧客第一と云えども、その内容での依頼は、金の話を抜きにして引き受けられないという思いを多くの善良な工場関係者は持つだろう。

 また、私は元損保の調査員だったのだが、最近はあまり聞かれないし、おそらくこの仕事に従事している多くが意識することもないのかもしれないが、「査定正義」という感が方があった。この査定正義の考え方を以下に披歴してみたい。

【査定正義】
 保険会社の損害認定については、民法の不法行為(709条)における賠償、それを前提にした保険約款を基本としつつ、合理的かつ論理的で、客観的(第三者的視点)であることを基本としたものであること。

 ただし、自動車の特に事故修理という製品は、商品がプロダクションなされた完成品を取り替えるれば済むというものでなく、前提となるのは取替の場合でも、半製品を使用し、それなりの修理加工を経て製品が完成すると云う問題があるのであって、そこには修理の手際とか技量という問題が付いて廻る点で客観性を判じることが難しいという商品特徴がある点がある。

 つまり、ある損傷の評価を、ある者は修理が困難と云い、別のある者は修理できると云う訳だ。ここで、同じ自動車でも、整備と板金塗装の違いとして、整備の場合は、新品取替により、マスプロダクションされた完成品を取替れば最上の品質として完了するのに対し、板金塗装においては、必ずしも取替た方が最上の品質にならないという場合も往々にしてあることを、一般ユーザーは知らないが、およそプロの板金塗装担当者なら認めるところだろう。それは、先に述べた様に、板金塗装で交換される部品の多くが、半製品として供給され、例え新品に取り替えたからと云えども、修理品質が最上のものとはならない場合があることから確かなことでであろう。

 また、比較的新しい車両であって、損傷部位部品が溶接取り付け部品であると、その取替を行うことは、中古車査定において、事故車扱いになる場合があり得るが、このことを知らないユーザーとか、技量の低い板金塗装施工者では、この事故車扱いによる車両の価値減価を不必要に生み出してしまうことがあり得る。また、新車ディーラーなど、部品粗利の大きい修理業者では、サービス部門の売上重視と技量の低さが相まって、取替主体の修理施工を実施しがちとなるが、そういう修理を押し進め、代替の際は事故減価をして、ユーザーに不利益を与えている場合もあり得る。

一般論として、保険会社は営利を追求する資本主義の企業である。しかし、契約者から受益する保険料は特別立法の保険料率算定機構で集計した純率損害率をベースとして、各社の事業費や戦略を含めた付加率により決定なされる。しかし、事故より支払いを行う保険金については、その妥当性を追求し公平を定めた約款により支払うものであり、その保険金支払の総額が、先に純率損害額のベースとなることを鑑みれば、その公平性とか妥当性の追求は揺るがすことのできない責務となって来る。つまり、保険会社による保険金の支払いは、広く契約者に対する保険料の適正さに関わり、厳格さを要求される、いわば公益性のある責務と考えられる。この支払保険金の積算決定の妥当性を追求することは、保険会社にとっては、責務であると共に正義であると認めなければならないところだ。


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