静岡県中央付近の由比と蒲原の間に薩田(さった)峠というのがある。江戸時代までの東海道の通り道たる峠だ。
この間は、僅か1km程しかなく、引き潮の時は海辺の波打ち際を歩くこともできた様だが、歩行幅は狭く世に云う「親知らず子知らず」の伝説があるくらいで、後ろを振り向くこともできぬところだったらしい。そこで、旅の安全を確保するため、わざわざ山を越える薩田峠越が東海道になったとものの本には記してある。
この薩田峠から東方への眺めは、1度ならず見た方が多いのではないだろうか。東海道本線、国道一号線、そして東名高速道路が交差しつつ集中している光景だ。天気が良く、雲が少なければ富士も望めるだろう。
峠付近には幾つかのカメラが設置されており、テレビでも時々出てくる風景だが、Youtube でもライブカメラ放映が24時間見ることができる。
Youtube 静岡市さった峠 交通の要衝
https://www.youtube.com/watch?v=RdS5vaKwmPU
追記
愚人は、さった峠と聞くと、幕末の江戸城無血開城となった山岡鉄舟のさった峠の一件の話しを思い出す。時あたかも西郷隆盛指揮する官軍が江戸を目指して駿府(静岡市)まで迫っていた。その西郷との下打ち合わせのために駿府に向かっていた鉄舟は、官軍の斥候兵に追われ、由比からさった峠の登り口付近にある望獄亭(現存している)という旅籠に逃れたという。時の主人の案内で蔵に匿われ、時を見て裏口から崖を下り船で駿府へ至ったのだという。船の手引きをしたのは清水次郎長だという。めでたく西郷との下打ち合わせが適った鉄舟は、江戸へとって返し、近日の薩摩藩邸における西郷隆盛と幕府代表たる勝海舟の正式会談において、徳川慶喜の無事を条件とする江戸城明け渡し(開城)がまとまったという話しだ。
この間は、僅か1km程しかなく、引き潮の時は海辺の波打ち際を歩くこともできた様だが、歩行幅は狭く世に云う「親知らず子知らず」の伝説があるくらいで、後ろを振り向くこともできぬところだったらしい。そこで、旅の安全を確保するため、わざわざ山を越える薩田峠越が東海道になったとものの本には記してある。
この薩田峠から東方への眺めは、1度ならず見た方が多いのではないだろうか。東海道本線、国道一号線、そして東名高速道路が交差しつつ集中している光景だ。天気が良く、雲が少なければ富士も望めるだろう。
峠付近には幾つかのカメラが設置されており、テレビでも時々出てくる風景だが、Youtube でもライブカメラ放映が24時間見ることができる。
Youtube 静岡市さった峠 交通の要衝
https://www.youtube.com/watch?v=RdS5vaKwmPU
追記
愚人は、さった峠と聞くと、幕末の江戸城無血開城となった山岡鉄舟のさった峠の一件の話しを思い出す。時あたかも西郷隆盛指揮する官軍が江戸を目指して駿府(静岡市)まで迫っていた。その西郷との下打ち合わせのために駿府に向かっていた鉄舟は、官軍の斥候兵に追われ、由比からさった峠の登り口付近にある望獄亭(現存している)という旅籠に逃れたという。時の主人の案内で蔵に匿われ、時を見て裏口から崖を下り船で駿府へ至ったのだという。船の手引きをしたのは清水次郎長だという。めでたく西郷との下打ち合わせが適った鉄舟は、江戸へとって返し、近日の薩摩藩邸における西郷隆盛と幕府代表たる勝海舟の正式会談において、徳川慶喜の無事を条件とする江戸城明け渡し(開城)がまとまったという話しだ。