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【書評】殺人犯はそこにいる(清水潔著)

2022-07-14 | 論評、書評、映画評など
【書評】殺人犯はそこにいる(清水潔著)
 この本は、wikiにも「北関東連続養女誘拐殺人事件」として掲載されている群馬、栃木、埼玉県境付近の半径20キロの県内で、1979年~1996年の17年間で断続的に以下の様な共通項があるとされている。添付図参照
・被害に遭ったのが4歳から8歳までの女児である。
・3事件においてパチンコ店が行方不明の現場になっている。
・3事件において河川敷で死体遺棄されている。
・4事件において金曜・土曜・日曜および祝日に事件が発生している。



 この本を読む端緒となったのは、90.5.13のいわゆる足利事件として有罪となり収監されていた菅谷利和氏に結局は冤罪として17年の収監を経て晴れて誤審が認められたという由々しき事態を知っていたのだが、この本は著者の清水潔(きよし)氏がジャーナリストとして足利事件を追求した自己ルポルタージュというべき内容だ。

 この本の中でも記されているが、桶川ストーカー事件(99.10.26)として埼玉県警の不祥事事件として発展した事件も著者は関わっている。桶川事件では、被害者の提出した告訴状を埼玉県警がかってに被害届に訂正し、なかなか動こうとしなかったのを、自ら犯人の居場所を見つけ、動かないなら先にスクープとして発表すると行動を促したり、告訴状の訂正の事実も察知しスクープしているという方だ。

 本署の主題として、足利事件(菅谷冤罪事件)だけでなく、他の迷宮類似事件との関わりを何故追求しなかっかったのかという怒りが行動の原動力になったと思えるところだ。それも、その事件に向ける思考が、正に警察捜査員が持つべき性格を感じるところでもあり、もし著者が警察官だったら相当な敏腕刑事としての活躍もあったのかもしれない。ただし、それも次項のことを思えば、どんなに活躍しようが、何れ組織の壁に突き当たり、限界がおとずれてしまう様に思える。

 このちょっと前に読んだ「警察はなぜ堕落したのか」(黒木昭雄著(故人))によれば、警察総職員数は黒木氏の本では26万名と記していたと思ったが、いずれにしても巨大組織であるが、あまりに官僚主義なのだと訴えていた。このことをもっと具体的に記せば、添付表のH30警察職員の定員で、総員約30万名だが、この内実働部隊となる都道府県警察職員数は29万名に対し、上級庁となる警察庁職員は総員8千名。さらに警察庁の警察官とされるのは2,200名しかいない。つまり総員に占めるキャリア比率は0.8%でしかない。この警察庁所属の警察官とは、現場警察官からも警視正以上に僅かな者がなり、警察庁管下(国家公務員)として地方警察の署長などになる事例があるものの、ほとんどがキャリアと呼ばれる超出世のエリートで占有される官僚組織になっていることがあることに大きな要因があると述べている。黒木氏の論は、先の大戦で、各部隊のエリート指揮官達は、陸軍大学とか海軍大学とか出身者で占められたが、およそ頭でっかちで現場の実態を知らず、そういう者が指揮を振るい、外向きには国のためといいながら、結局は自己のため、自分らキャリアグループのための思考が先になるから組織が空回りするのだと記している。


 この官僚主義だが、一部の大学を卒業したということと、ある種の採用試験(キャリアであればに国家I種合格者)ことで得られるもので、昔の中国であった科挙と呼ばれる上級国家公務員試験時代からそういう思想は万国共通に作られてきた一種の権威主義と区分して良いだろう。ただし本人達に問えば権威ではなく能力であり、そのパス(資格)を得たからだというのだろう。これに類似したことを、最近の米学者でマイケルサンデル氏は、大学卒業者は謙虚であれとか能力主義の拡大に批判的な発言もしくは論を提示している。

 この官僚主義は否定しなければならないと思うが、能力主義、資格主義は一定の理もある様に思えるし、現在の政府、国家官僚組織、地方自治組織はどれも、国民のためにあるもので否定できるものではない。警察など、さまざまに批判を受けてはいるが、それではこれをなくせば治安悪化とか犯罪の跋扈で国民の安全安心は失われる。

 そんな否定的にに見られがちな官僚組織だが、結構民間企業でも類似のものは多い。特に公共への影響度が高い業種で、主に国家の行政の許認可とか監督を受ける業種ほど、その傾向が強く出てくることになるのだろうと思える。また、その様な業種ほど、それら組織体そのものというより、その業種の社団法人とかの長たる理事は天下り先を前提としている場合が散見されるが、あまりにも判り易い相身互いの図だ。

 最後にDNA鑑定について、この本で改めて認識したこととして付記しておきたい。このDNAへよる同一人としての証拠性だが、日本では足利事件でまず最初期の鑑定が行われ有罪判決の証拠とされたという。ここで、このDNA鑑定だが、正しくはDNA型鑑定というもので、血液型と同じく型が入ることがある。血液型では、A、B、O、ABの4型しかなく、一致したからと云えども、たったの4種の一つであり、到底確立から云って証拠能力がない。しかし、例えば指紋で12特徴点一致となると、一致確立は1兆分の1だという。足利事件の場合、当初はDNA型が一致し、その確立は相当高いとされていて、それを日本で最初に採用した科警研でも自信を示し、最高裁までこれを信じ続けたのだった。これを再鑑定したら不一致であり、明かな証拠の間違いがあり、裁判所も誤審を認めざるを得なかったというところだが、それにしても再鑑定までの時間が長過ぎた思える。DNA型の一致性も現在の技術では同一パターンが出現する確率は4兆7000億人に1人といわれるまでに高まって信用性があることになっているのだが、足利事件の際の科警研鑑定は、あまりにお粗末な技術しかなかったというところで、著者は鑑定とは所詮一つの意見であって、当時の科警研には奢りがあったのではないかという様な冷徹な意見を記している。


#冤罪 #ジャーナリスト魂 #警察組織 #DNA型鑑定


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