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【過去の紀行文】明治飛行場のこと 2004年7月19日

2004-07-19 | 過去の紀行文
【過去の紀行文】明治飛行場のこと
 猛暑が続いておりますがお元気でお過ごしのことと思います。
 さて、この3連休ですが単身赴任ですることもなく、最寄りの安城市歴史博物館で戦争関連の特別展を開いているのを知り覗いて来ました。かつての大戦中、この地(安城市)にも明治飛行場という軍用飛行場があったそうです。そう、愛知県といえば、名古屋市の三菱重工や半田市の中島飛行機等の飛行機産業のメッカであったことから、当初の各務原飛行場だけでは手狭となり、この明治飛行場や豊田飛行場、岡崎飛行場等々の軍用飛行場が次々と作られていった様なのです。

 今回の展示は、明治飛行場関連のものが若干ありましたが、当時の航空兵達を写した写真を見て、何とも幼い屈託ない笑顔が印象に残りました。思えば私の息子達と同じような年齢の者が、ここから九州や沖縄へ向けて飛び立って行ったのです。何とも酷い時代ですが、写真で見せる彼らの幼い笑顔には、その様な悲惨さは現れていないだけに、よけいに悲しい気持となります。

 ところで、この明治飛行場ですが、現在この付近を通っても、かつてその様な施設があったと感じられるものは見かけられません。しかし、以下のサイト等を見るに付け、それなりに痕跡は残されている様です。 http://ktx.fc2web.com/fc2/meijikiti/meijikiti.htm
※展示場は残念ながら撮影禁止でしたので、もらったパンフレットの写真を1枚添付してみます。 送信日時: 2004年7月19日月曜日 20:32(写真3枚)




追記
 文中にも気している様に、愛知県は航空機や軍需工場も多く、戦争末期米国の容赦ない空襲を繰り返し受けた地域です。そんな中で、祖国防衛上から、急遽多くの飛行場(基地)が作られた様で、その総てを知るのもこんなです。この安城市北部の明治飛行場、大府市にあったと云う大府飛行場、岡崎市の現在の三菱自動車岡崎製作所のある岡崎飛行場(岡崎市笹目町)程度が、拙人の知る確かなところです。

 戦時中は、米B29の大群が来襲すると、これら急遽作られた臨時飛行場からインターセプトする戦闘機が出動する訳ですが、当時のゼロ戦の最終型たる52型でも、B29の航行する1万メートルまで上昇するのがやっとで、満足な迎撃活動はできなかった様です。疾風、雷電、紫電改など、優秀最新型機は、やっと少量が間に合って参戦し始めていた様ですが、多勢に無勢で、米軍の爆撃になすすべもなかった様です。それでも、B29の何機かは撃墜され、その地で生存米兵の山狩りとか、墜落残骸から米軍テクノロジーの調査が行われたとの事跡に接することが希にあります。その中に、中村良夫氏(ホンダ技研F1初代監督)の、墜落B29のエンジン内部を観察し、クランクメタルに銀メタルが使われていたことなどを知るところです。

 このエンジン主軸のメタル軸受けですが、今でこそ常識の軸受け構造ですが、戦中から戦後もしばらくの期間は、多気筒エンジンほど使用できなかったものです。それは、高精度なメタルが作れないと云うより、メタルに接するシャフト(軸)の表面精度(表明荒さ)や真円度、そして多数の軸受け部の直進度を高精度に加工する技術が未熟な故だった様です。


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