日本は民度の高い国か?
このところ考えているワードに「民度」というものがある。
広辞苑で「民度」を引くと、人民の生活や文化の程度。「―が高い」とある。
一方ウィキペディアで引くと、以下の様な記述がなされている。
民度(みんど)とは特定の地域・国に住む人々または、特定の施設・サービスの利用者(ユーザー)・参加者・ファン等のある集団の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、マナー、行動様式などの成熟度の程度を指す。民度は高いほど良いとされている。特定集団のある平均レベル・マナーの度合い以外に明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。
この民度が高いとか低いというワードは、多国を眺めて民度が低いとかいう表現も使われるし、自国の中でも政治家の堕落を指し手、この様な政治家が選出されるということは民度が低いからだという表現もある。こうして見ると、民度とはどうやらその国民とか団体などの知的水準の高低を指す様だが、かなり曖昧さを持つ言葉でもあると思えて来る。
さて、日本国民の民度が高いのか低いのかという質問を多くの者にした場合どういう回答が得られるだろうか。
あるものは、日本は治安も比較的良く、つまりこれは規範精神も高く、知識や教養という面でもあるから民度は高いという意見がありそうに思える。一方、政治家とか高位官僚の腐食が多い事象を見たり、そもそも愛国精神に欠けている国民が多いこところを見ると、決して日本の民度は高くはないのだという言論者もいる。また、学校の知的レベルが下がっているとか、企業社会での活動において、上位下達意識は強く、例え社会的に非難される様な間違った指令が長年放置されたまま、発覚して驚く様な事態を晒す場合もあり、これは組織構成員の民度が低いからだという意見も出そうだ。
一方、米国とか旧ソ連すなわち現ロシアでの、国家斉唱の場面で、それを取り巻く国民の姿をYoutubeなどで見ていると、皆が国家を口ずさみつつ、その言葉を強く意識しつつ、見ている者に強い愛国心を持っているのだと伝わる場面がある。これが日本だと、君が代が流れる場面で、皆が下を向き静聴の姿勢は取るが、決して顔を上げて口ずさむなんて姿はなく、米国とかロシアの様に、強い愛国心を露わにすることはない。だからといって、日本国民に愛国心が欠落しているとまでは思っちゃいないが、相当国民性に差があることを感じさせる場面だ。
最近読んだ本で、故小室哲哉氏(社会学者)の本で、米国は、小中高校高での教育の基本は、愛国教育の基本を教え込むことに傾注されており、学校教育の知識の付与というのは大学以降なんだという記述があった。その中で、戦前までの日本は、この米国式の愛国教育が日本でも行われており、だから間違ってはいたが軍部独走の戦争になった時、日本国民は愛国心を持って戦えたという解説がなされていた。そして、敗戦後、米国GHQは、この米国式愛国教育に相当する、教育勅語とか天皇崇拝という愛国教育姿勢を変えることを企み、現在の小中高における教育でも、ことさら愛国心を持たせる教育をさせない様に仕向けてきたのだと記している。
ここで、誤解しないでもらいたいのは、小室氏が天皇絶体王政が良いとか教育勅語が単純に良かったと云っている訳ではなく、国民が自由民主という思想を掲げる国家に対して、これを尊重することを前提に愛国心を持っていたことだと云うことなのだろう。
私は先の戦争で、国民は既に敗戦危機を直接知らされてはいないものの、戦局が不利な状況になっていることは肌で感じていたと思うのだが、こういう中で恒常的な特攻作戦が繰り返されたことを、日本人の単に同調圧力に弱い国民性故に起きた事象なのかと理解していた。つまり、それ以前の徴兵制度で、強制的に出兵を命じられた国民もそうだが、これに逆らうことは、非国民と呼ばれ、村八部になることを恐れおののき、渋々従っていたのが当時の国民意識なのかという思いでいた。特攻作戦も、こんなことをやっても、ほとんどの特攻機がそれ以前に撃破なされ、大した戦果も得られないことを論理的には判っていながら、渋々上位下達の命令に従っていたと云う思いが強くあった。
しかし、そこには、根底に愛国心があり、負けて占領敵兵に陵辱される家族親族のためなら、この一名を掛けても、反抗してやろうという愛国心を根底にする心根があった故に、従ったのだろうと思える。ただし、命令を下した軍高官は、自らは生き延びて、戦後隠れて過ごしたり、そもそも国民の一名の命の重さなど、ほとんど考慮していなかったことは、明らかで腹立たしく感じるところだ。
ところで、安倍政権以来、この10年近くを、まるで戦前の思想に帰ろうという政治思想が示されつつ、実際に軍事費倍増だとかたった10年ちょっと前のあのもしかしたら日本が壊滅状態になったかもしれない福島原発事故の反省もなく、原発回帰を打ち出したり、政治姿勢に捕らわれないという学術会議の認定拒否を行ったりしている姿だが、この根底に愛国心の再興があるのだろうかと考えて見ると、それはまったく違うことに気づかざるを得ない。
つまり、私は天皇肯定論でも否定論でもないが、国家という団体構成員が自由民主の命題を求めて一つに団結するためには、愛国心は欠かせない要素だと信じる。しかし、安倍政権の戦前回帰論の根底には、自由民主という命題などなく、そこに垣間見えるのは、米国に占領された以後、連綿と続くポチ犬根性しかなく、愛国心があるとしても、それは米国隷下に帰属するというおよそ、独立国の愛国心ではないと信じるところなのだ。
このところ考えているワードに「民度」というものがある。
広辞苑で「民度」を引くと、人民の生活や文化の程度。「―が高い」とある。
一方ウィキペディアで引くと、以下の様な記述がなされている。
民度(みんど)とは特定の地域・国に住む人々または、特定の施設・サービスの利用者(ユーザー)・参加者・ファン等のある集団の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、マナー、行動様式などの成熟度の程度を指す。民度は高いほど良いとされている。特定集団のある平均レベル・マナーの度合い以外に明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。
この民度が高いとか低いというワードは、多国を眺めて民度が低いとかいう表現も使われるし、自国の中でも政治家の堕落を指し手、この様な政治家が選出されるということは民度が低いからだという表現もある。こうして見ると、民度とはどうやらその国民とか団体などの知的水準の高低を指す様だが、かなり曖昧さを持つ言葉でもあると思えて来る。
さて、日本国民の民度が高いのか低いのかという質問を多くの者にした場合どういう回答が得られるだろうか。
あるものは、日本は治安も比較的良く、つまりこれは規範精神も高く、知識や教養という面でもあるから民度は高いという意見がありそうに思える。一方、政治家とか高位官僚の腐食が多い事象を見たり、そもそも愛国精神に欠けている国民が多いこところを見ると、決して日本の民度は高くはないのだという言論者もいる。また、学校の知的レベルが下がっているとか、企業社会での活動において、上位下達意識は強く、例え社会的に非難される様な間違った指令が長年放置されたまま、発覚して驚く様な事態を晒す場合もあり、これは組織構成員の民度が低いからだという意見も出そうだ。
一方、米国とか旧ソ連すなわち現ロシアでの、国家斉唱の場面で、それを取り巻く国民の姿をYoutubeなどで見ていると、皆が国家を口ずさみつつ、その言葉を強く意識しつつ、見ている者に強い愛国心を持っているのだと伝わる場面がある。これが日本だと、君が代が流れる場面で、皆が下を向き静聴の姿勢は取るが、決して顔を上げて口ずさむなんて姿はなく、米国とかロシアの様に、強い愛国心を露わにすることはない。だからといって、日本国民に愛国心が欠落しているとまでは思っちゃいないが、相当国民性に差があることを感じさせる場面だ。
最近読んだ本で、故小室哲哉氏(社会学者)の本で、米国は、小中高校高での教育の基本は、愛国教育の基本を教え込むことに傾注されており、学校教育の知識の付与というのは大学以降なんだという記述があった。その中で、戦前までの日本は、この米国式の愛国教育が日本でも行われており、だから間違ってはいたが軍部独走の戦争になった時、日本国民は愛国心を持って戦えたという解説がなされていた。そして、敗戦後、米国GHQは、この米国式愛国教育に相当する、教育勅語とか天皇崇拝という愛国教育姿勢を変えることを企み、現在の小中高における教育でも、ことさら愛国心を持たせる教育をさせない様に仕向けてきたのだと記している。
ここで、誤解しないでもらいたいのは、小室氏が天皇絶体王政が良いとか教育勅語が単純に良かったと云っている訳ではなく、国民が自由民主という思想を掲げる国家に対して、これを尊重することを前提に愛国心を持っていたことだと云うことなのだろう。
私は先の戦争で、国民は既に敗戦危機を直接知らされてはいないものの、戦局が不利な状況になっていることは肌で感じていたと思うのだが、こういう中で恒常的な特攻作戦が繰り返されたことを、日本人の単に同調圧力に弱い国民性故に起きた事象なのかと理解していた。つまり、それ以前の徴兵制度で、強制的に出兵を命じられた国民もそうだが、これに逆らうことは、非国民と呼ばれ、村八部になることを恐れおののき、渋々従っていたのが当時の国民意識なのかという思いでいた。特攻作戦も、こんなことをやっても、ほとんどの特攻機がそれ以前に撃破なされ、大した戦果も得られないことを論理的には判っていながら、渋々上位下達の命令に従っていたと云う思いが強くあった。
しかし、そこには、根底に愛国心があり、負けて占領敵兵に陵辱される家族親族のためなら、この一名を掛けても、反抗してやろうという愛国心を根底にする心根があった故に、従ったのだろうと思える。ただし、命令を下した軍高官は、自らは生き延びて、戦後隠れて過ごしたり、そもそも国民の一名の命の重さなど、ほとんど考慮していなかったことは、明らかで腹立たしく感じるところだ。
ところで、安倍政権以来、この10年近くを、まるで戦前の思想に帰ろうという政治思想が示されつつ、実際に軍事費倍増だとかたった10年ちょっと前のあのもしかしたら日本が壊滅状態になったかもしれない福島原発事故の反省もなく、原発回帰を打ち出したり、政治姿勢に捕らわれないという学術会議の認定拒否を行ったりしている姿だが、この根底に愛国心の再興があるのだろうかと考えて見ると、それはまったく違うことに気づかざるを得ない。
つまり、私は天皇肯定論でも否定論でもないが、国家という団体構成員が自由民主の命題を求めて一つに団結するためには、愛国心は欠かせない要素だと信じる。しかし、安倍政権の戦前回帰論の根底には、自由民主という命題などなく、そこに垣間見えるのは、米国に占領された以後、連綿と続くポチ犬根性しかなく、愛国心があるとしても、それは米国隷下に帰属するというおよそ、独立国の愛国心ではないと信じるところなのだ。