安土城址散策と晩秋の琵琶湖畔
つい先日のこと、久方ぶりに大阪に行くべき(夕刻からの)諸用があり、せっかく大阪行くのだからと、古い知人と翌日夕刻前会う段取りとし、その前に大阪城とその界隈を散策する予定でいたのだった。そして、その大阪城と懐かしい知人との「昔は良かった」という爺い話を過ごし、その翌日はただ帰るには惜しいと、これも計画通り、現在から450年前の政治の中心地だった安土城址を探訪したのだった。
この安土城だが、築城年は1576年で、ご存じの通り織田信長の居城として建てられたが、例の「本能寺の変」(1582/6/21)で織田信長が死んでしまい、その後まもなく理由は定かではないが焼失してしまうという、たったの6年しか実存しなかった城だ。しかし、この6年は未だ毛利氏は配下に治めていなかったとはいうもののほぼ天下布武を握り、日本の政治の中心地はこの地にあったと云えるだろう思いを抱いての散策だった。
しかし、安土城の城楼は現在しないのだが、この城址を散策してみると、石段でそこそこ整理されているとはいえ、その急登坂の連続さには、日頃の運動不足のこともあるが、息も絶え絶えと散策を終えたのだった。
しかし、400年前に廃城とされ、戦後になって発掘調査と共に整備もなされたことを知るが、そこに残された石積みを見るとき、その前日見た大阪城のしっかり管理され整然と整った石積みに比べ何と荒れ放題のことだ。時を400年も経ると、盤石な石積までがここまで荒れ果てるのかという思いだ。
ところで、この安土城の石積だが、wikiでの記述はすべてを真実とする保障はないのだが、以下の様な記述がある。つまり、日本に残された城もしくは城址の多くが、石積みの上に建設されていてそれが一般的だが、その先駆けがこの安土城だというのだ。
『日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、初めて石垣に天守の上がる城となった。ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。』
この天主台址からの下山は順路に沿って下って来たが、琵琶湖を遠望できる開けた地に出た。天気は秋らしい快晴だったが、その地で見た銀杏の色が記憶に残る。
つい先日のこと、久方ぶりに大阪に行くべき(夕刻からの)諸用があり、せっかく大阪行くのだからと、古い知人と翌日夕刻前会う段取りとし、その前に大阪城とその界隈を散策する予定でいたのだった。そして、その大阪城と懐かしい知人との「昔は良かった」という爺い話を過ごし、その翌日はただ帰るには惜しいと、これも計画通り、現在から450年前の政治の中心地だった安土城址を探訪したのだった。
この安土城だが、築城年は1576年で、ご存じの通り織田信長の居城として建てられたが、例の「本能寺の変」(1582/6/21)で織田信長が死んでしまい、その後まもなく理由は定かではないが焼失してしまうという、たったの6年しか実存しなかった城だ。しかし、この6年は未だ毛利氏は配下に治めていなかったとはいうもののほぼ天下布武を握り、日本の政治の中心地はこの地にあったと云えるだろう思いを抱いての散策だった。
しかし、安土城の城楼は現在しないのだが、この城址を散策してみると、石段でそこそこ整理されているとはいえ、その急登坂の連続さには、日頃の運動不足のこともあるが、息も絶え絶えと散策を終えたのだった。
しかし、400年前に廃城とされ、戦後になって発掘調査と共に整備もなされたことを知るが、そこに残された石積みを見るとき、その前日見た大阪城のしっかり管理され整然と整った石積みに比べ何と荒れ放題のことだ。時を400年も経ると、盤石な石積までがここまで荒れ果てるのかという思いだ。
ところで、この安土城の石積だが、wikiでの記述はすべてを真実とする保障はないのだが、以下の様な記述がある。つまり、日本に残された城もしくは城址の多くが、石積みの上に建設されていてそれが一般的だが、その先駆けがこの安土城だというのだ。
『日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、初めて石垣に天守の上がる城となった。ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。』
この天主台址からの下山は順路に沿って下って来たが、琵琶湖を遠望できる開けた地に出た。天気は秋らしい快晴だったが、その地で見た銀杏の色が記憶に残る。