私の思いと技術的覚え書き

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教養を思う

2022-12-25 | コラム
教養を思う
 教養とは、wikiなどを見ると、「一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す。」などと記している。してみると、専門職が持つ、ある一芸に秀た俗に良く云われる○○バカとは異なり、広範な知識を備えており、ゼネラリストの素養を云うのかという気もしてくる。

 しかし、専門職であっても、その一芸だけに特化して、その他はまるで知識がないとなると、これまた歪で、ある意味一般社会で通用しなくなるといういうことが想定できる。そもそも世の製造業だとかサービス業にしても、その専門職が、その一芸だけに特化していればという訳にはいかないことは容易に想像もできる。つまり、例えば自動車などは、工学的な側面だけでなく、化学だとか、人間工学、はてや人間心理とか情感に訴える要素もありそうだ。

 それでは、平たく広範な知識を持つ人間がいるのかとなると、なかなか現実問題として少ないだろう。かといって、広範な知識を持つが、それのレベルが低いとなると、問題外となると思える。

 そもそも、こんなことを考え始めたのは、30年程前にある専門職企業において、教育という立場に立ち、今で云うマニュアル化を試行し始めた頃のことだった。このマニュアル化だが、何処までも深くマニュアル化できるというものではない。ある程度、最低限のレベルとか確認を促すのがせいぜいのところで、千差万別の問題は、個別の思考力を期待し、それに頼る以外にないという宿命がある。ところが、その辺りを勘違いする上位職も多く、プログラムで云うところの単純アルゴリズムの如く、Yes、Noで分岐させて結論を出せれば良いじゃないかという安直試行が結構あり、当時正気云えばジレンマを感じつつあったところだ。つまり、あまりに安直に結論を得られるような深度の低いマニュアル化は、低レベル金太郎飴を量産するに過ぎず、企業のパフォーマンス低下を招きかねないという想定が当然の如く想定でき、それへの懸念を表明せざるを得なくなったと云うことがある。実のところ、それから30年を経て、世が正に安直な金太郎飴を量産するのが当然となった様にも思う。

 ところで、教養たる広範な知識とか、そもそも人としての視野の広さや情感の豊かさというのは、端的に結論付ければ、その人物の読書量とある程度相関するように感じている。これは必ずしも読書でなくても、新聞、インターネットの各種情報などでも同等の効果はある様にも思えるが、これらには新聞とかメディア情報には、ある種の偏向というフィルターを通過しているということがあるし、Netメディアだと、情報の集中度が薄いとか、ゴミに類する根拠のない未整理かつ、なるべく短文で結論だけを記しているものが大過ぎるという管を受ける。

 そもそも、ものごとを文書にして表すと云うことは、そこには結構口述だとまやかすことができる論理矛盾が表出し易いということがある。そういう点で、例え小説でも、起承転結の論理がしっかりした文章を繰り返し読むことが、自ら作る文章力を鍛えることになる様に思える。


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