私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

かつて沼津に存在したオートバイメーカー

2019-10-17 | 沼津そして伊豆周辺
 先の大戦で我が国の敗戦後、経済復興に伴ってのある一時期のことでしょうが、オートバイメーカーと称する企業が100社くらいにも達したといいます。しかし、この時代、俗に「三台メーカー」と呼ばれる、3台しか作っていないというメーカーも多かったやに聞いています。

 その様な中、沼津に「昌和製作所」というメーカーが存在しました。この昌和製作所の源流を検索すると、以下の様なブログが見つかり興味深く見ましたので紹介します。

嘗ての沼津の名門企業「昌和クルーザーの昌和製作所」(龍さんのプログ)
http://tryu.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-9b4a.html


なんだか色々早すぎた企業・昌和製作所と日本計算機(ビジコン)(はる坊の雑記)
https://harubou-room.com/showa/


私設 「北野晶夫の世界」~小説に登場する二輪メーカー【 昌和製作所(株) 】
http://akiokitano.web.fc2.com/chapter3/32/321/08/321_08.htm


 これらとその他の資料を傍観すると、そもそも「小島和三郎」という方が1918年(大正7年)に中国奉天で創業した「昌和洋行」という貿易商社が原点と判る。
 その後、1939年(昭和13年)、目黒製作所が製造したメグロ号が好評で、警視庁の白バイにも選定される。そこで、昌和洋行から目黒製作所に中国にバイクを輸出したく製造依頼が持ち込まれたことから、昌和洋行と目黒製作所の合弁企業たる昌和製作所が沼津に設立される。(登記上は1944年11月16日だという。)
 昌和製作所ではオートバイの製造が始まったが、間もなく横須賀海軍工廠の軍需工場に指定され、航空機(部品)の製造で終戦を迎える。
 戦後、1948年(昭和23年)に昌和製作所はオートバイ昌和号を製造販売するに至り復興する。その後、1954年、昌和クルーザー250ccがヒット作となる。
 1959年、軽四輪車「昌和ミニカ」を東京モーターショーに出品。しかし、技術開発費の割りに販売面が振るわず経営が逼迫する。1955年にヤマハ発動機の出資により傘下に入る。この時点で、創業者の小島一族は除外されることとなる。その後は昌和製作所はヤマハ製品の関連会社として製品製造を続ける。
 その後、ヤマハの別関連会社と合併し、1988年「創輝」→2006年「ヤマハモーターパワープロダクツ」と「創輝H・S」を分社→2008年「「創輝H・S」を「ヤマハモーターハイドロリックシステム」に社名変更。なお、同ハイドロリックシステムは、二輪および四輪のダンパーなどを製造している。

 というバイクから、部品サプライヤーへの流れがある一方、「小島和三郎」が創業した「昌和洋行」たる貿易商社を原点とする機械式手動計算機→電子卓上計算機への流れがある。これは、日本計算機→ビジコン社となり、この中で、同社の嶋正利氏が関わり米インテル社で世界初のマイクロプロセッサー(i4004)の開発がなされた。しかし、電卓業界はカシオ、シャープなどの参入で競争が激化。1974年に同社は倒産。会社再建?した様だが一般コンシュマー製品としてほとんど名を聞かなくなったがよく判らず。



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1 コメント

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昌和製作所について (はる坊)
2021-01-24 12:34:32
はじめまして。
はる坊と申します。

この度、私のブログ(はる坊の雑記)に記しました「なんだか色々早すぎた企業・昌和製作所と日本計算機(ビジコン)」を取り上げて下さっているのに気付きました。

本当に有難いことです。
心より御礼申し上げます。

昌和製作所には我が父が新卒で入社して、数年勤務しておりました。

1960年にヤマハ発動機傘下になる直前には、若い従業員が多かったこともあり労働争議が起こり、大変だったようです。
父は、そういった状況に嫌気を差し、退職して他社に移りました。

ただ、東京モーターショーに出品した軽四輪車「昌和ミニカ」については、新人ながら関わることができたようで、自慢げに話しておりました。

あらためて、拙ブログを見てくださったことに深謝いたします。

それでは、失礼をいたします。
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