食料危機
2022年03月26日(土)
プーチン・ロシアのウクライーナ侵略で見えてきたものの一つが、近い将来食料危機が起るであろうということです。
冒頭、恥ずかしながら最近知ったことですが、ホロドモール! 以下ネットから引用です。
ホロドモールは1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉である。 ウクライナ人たちは強制移住により、家畜や農地を奪われ、400万人から1,450万人が死亡した。また、600万人以上の出生が抑制された。 この大惨事は、当時のソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンによる計画的な飢餓ではないかとする議論が長年続いていた。2006年、ウクライナ議会は「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定した。また、米英など西側諸国においても同様の見解が示されており、ソビエト連邦による犯罪行為であるとしている。
400万人から1,450万人が死亡したとは! 絶句であります。
23日の赤旗です。
東京大学の鈴木宣弘教授は、日本が食料の「買い負け」になっていると指摘しています。日本の経済力の低下を見るとき、これから益々拍車がかかるものと思われます。
鈴木教授は、「今、突き付けられた現実は、食料・・などを海外に過度に依存していては国民の命を守れないということです。それなのに、貿易自由化を進めて調達先を増やすのが『保障保障』であるかのような議論がまだ行われています」と指摘しています。
「食料を自給できない人たちは奴隷である」(キューバの著作家・革命家のホセ・マルティ)
「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも。これなくして真の独立はない」(高村光太郎)
「農は国の基本なり」→誰の言葉だろう?
以下ネットから引用です。
義農作兵衛(1688〜1732 / 江戸時代 伊予国松山藩筒井村の農民)
享保17(1732)年の夏、西日本を中心に害虫の雲霞(うんか)が異常繁殖し稲を食い尽くした。江戸四大飢饉の「亨保の大飢饉」の始まりである。
人々は食べるものも無く、飢えて餓死する者が続出し、松山藩筒井村の貧農だった作兵衛(さくべえ)も、飢饉で父と息子を亡くし、そして自身も飢えで動けなくなった。
村人たちは作兵衛へ、命には代えられないので、耕作途中の種籾を食べることを勧めたが、作兵衛は「農は国の基・・・」と言い残し死んでいった。
村人たちは作兵衛が残した種籾で次の年を乗り切ったという。
安永5(1776)年、伊予松山藩主・松平定静(まつだいら さだきよ)は作兵衛の尊い死に感銘し顕彰頌徳碑を建立。
彼の残した義農精神は模範の農民として現代にも語り継がれている。
義農作兵衛の墓
25日の赤旗です。
食料自給の問題が、選挙の大争点になれば良いと思います。
生協の注文書です。「ロシア産の紅鮭の切り落とし」とあります。ウクライーナ侵略前に仕入れていたモノかも知れませんが、一言説明が欲しいですね。→無神経と言わざるを得ません。勿論買いませんですよ。
私の世代では、飢えるということは勿論知りませんし、「ひもじい」という感覚も分りません。12歳上の兄は「ひもじい」思いをしたことがあると言っていました。
実は、私の義理の兄が、小学3年生の時に赤痢にかかり約2か月入院していたんです。その義兄が言うには、その間、重湯と梅干しだけだった!
以下、その手記です。
集団赤痢ということで村の隔離病院へ収容された。疎開児のうち3年生の男子2人、女子1人が収容され、男子1人が死亡した。
隔離病棟といっても、海水浴の海の家と同様で間仕切りのない板張りの上にござが敷かれたもので庭先に木の棚があり外部から自由に入れないようにしてある構造の粗末なものだった。
治療としては特別なものはなく、重湯と少しの梅干しを口にだけだった。
原爆投下後、何日かたって、親族のうち1人だけ元気だった叔母(当時20歳)が来て柵越しに家族の話をしてくれた。
2ケ月位の入院で退院し寺に戻った。
重湯と梅干しだけ!それでも人間って、生きるんだ! 凄い生命力!
食料危機の話が、生命力の話に変わってしまいました。(笑)
ただ、「食料危機」については、人為により解決可能です。「生命力」いいかえると生命については、私はアンタッチャブルと思っています。