Natural Mystic ~ナチュラルミスティック~

There's a natural mystic blowing through the air

屋久島 ~横川(よっこ)渓谷~

2006-07-29 23:17:05 | 
朝食後、昨日の海のリベンジとして川へ行くことにする。宿から近い女川の河口部分は砂浜になっていて楽しい。早速用意して車で行ってみるが、海を目にしたとたん次男が「うみ、こわいの~!!」と喚きだした。こうなってはどうしようもない。あっさりあきらめる。嫁と相談し昨日、一湊の海水浴場でガイドさんが教えてくれた横川(よっこ)渓谷に行くことにする。

永田から川沿いに進み、横川への道を入ろうとすると、何故か工事のため車両通行禁止の看板が出ていた。5分ほどよけいになるが炎天下のもと子連れで歩いて進む。少し歩くだけで暑くて汗だくである。本来の駐車スペースを進み、川沿いの歩道を更に5分ほど進み横川渓谷に着くも思いの外水量が多く、水音も大きかった。ちび共はまたもや泣き出した。とりあえず川原におろすも怖がって、水に近寄ろうともしない。怖くないことを見せようと私が水に足を突っ込んで、思いの外水温が低いことに気づいた。これでは泳ぐのは危険である。せめて足を水に浸けさせる位のことはしてみようと、私と入れ替わりに嫁も水辺へ言って脚を突っ込んで同様に感じたらしい、しかし、ちび共はこの様子を見て若干恐怖が和らいだらしく、水に脚をバシャバシャさせることを始めた。我々には消化不良であったが、ちび共は石を拾ったりして満足行ったようだったので引き上げることにする。


【左手がプール・右手が滑り台として楽しめる】

この横川渓谷、永田集落から足がないと30分程歩くことになるが、天然の岩の滑り台、小さな滝の下で遊ぶことも出来、楽しいところである。ただ、水の流れる場所は滑りやすいため注意は必要である。

そこそこ良い時間だったため、宮之浦でお土産を買い安房まで戻り、食事をとる。

14:45、宿に戻り、荷物をまとめ、空港にてチェックイン。搭乗までの間に、車を返し、また宿に戻る。宿の主人に空港まで見送って貰っていると買い出しに出ていた、女将が駆けつけてくれた。
「また帰ってくるからね...。」
といって別れを告げる長男に主人は喜んでくれた。

屋久島 ~前岳~

2006-07-28 22:55:34 | 登山・アウトドア
3日目、今日で屋久島も最後である。昨日に続く快晴で初めて宿から愛子岳がすっきり見えた。こんな日は登山も最高であろう。


【快晴の愛子岳】

島で登山道のしっかりした山というのはメジャーなもので6座ある。そのうち3座は奥岳と呼ばれるもので島のかなり標高が高い部分からの入山となり、黒味岳・宮之浦岳・永田岳が当てはまる。これらは日帰りも可能ではあるが、縄文杉ルートも加えて、1泊行程が普通である。

その他のは前岳と呼ばれ日帰りではあるが海側からの登山となり傾斜がきつく夏の登山には適さない。屋久杉ランドからの入山となる太忠岳、宿から望める愛子岳、以前紹介した本富(モッチョム)岳がそれら前岳の代表格である。

一昨年、この愛子岳に登ったときのこと。8月14日大快晴であった。3時間程度で山頂を踏める山という認識から本来朝の5時にはスタートすべきだったにもかかわらず、登りはじめが何と8時であった。気温がその時点でも高かったが急斜面を登る途中で一緒に登った3人のうち1人がバテはじめ、私がサポートに付きだましだまし山頂まで行ったということがあった。

しかしながら山頂からの眺めは最高で種子島はもちろん、馬毛島まで見渡せた。何よりもそこから4日前に縦走した宮之浦岳・永田岳を確認出来たときは嬉しかった。

余談だがここからアマチュア無線144Mhz帯2W送信で広島と交信が成立したのには驚いた。

先ほど述べた太忠岳もおもしろい。あまり急な登りもないため楽しめる山であるが、前岳にもかかわらず山深いので夏でも比較的涼しい。何と言っても頂上がユニークなのだ。標高1497mの頂上部には高さ約50mの天柱石と言われるモノリスが立っているのだ。そこからは海が見渡せ景色も楽しい。


【太忠岳の天柱石】

この辺りの前岳は冬でも凍結し雪がなければ特に登山には支障がないようなので楽しい場所である。ちなみに本富(モッチョム)岳に登ったのは3月2日のことであった。

屋久島 ~屋久杉自然館~

2006-07-27 22:47:09 | 
まだ、宿に戻るには早いため嫁に相談し、屋久杉自然館に行くことにした。


【樹齢7200年・縄文杉】

初めて島に上陸したときのこと。往復8時間かけて縄文杉を見に行った帰り、突然おかしなイメージが頭をよぎった。とてつもなく大きな木材が今自分が歩いている森林軌道(トロッコのレール道)を巨大なトロッコで運ばれている映像だ。それを大昔見たような気がした。一体その記憶は何なのか分からないまま歩くと、途中にある廃墟と化した小杉谷の集落の小中学校跡に着いた。校庭で休んでいると突然、先ほどの記憶が何であったかが分かった。幼い頃、確かに私はこの場所を見たことがあったのだ。

それはそのときから25年以上も昔の記憶であった。多分、私がまだ幼稚園に入る前のもの。父親と一緒に見たテレビの映像であった。当時、日曜の朝にNHKでは『新日本紀行』という番組の再放送が放映されていた。その番組で屋久島が紹介されていたのである。一時期は隆盛を誇った屋久杉の事業であるが、何らかの都合で縮小されたというような内容だったと思う。番組では無人となった小杉谷の集落には学校の跡があり、校庭の端にはかつて学校が在った証となる校歌を刻んだ石碑(普通の立っている物ではなく地面に半分埋もれていて、文字の部分が上を向いている)が残っていると紹介していた。その蘇った記憶の通り校庭の端を探したところやはり、文字の部分が上を向いた石碑が見つかった。このときは何とも不思議な感動におそわれたものである。番組を見ていたとき父親が「ここはずっと遠い、日本の端っこで簡単には行けない場所だ。雨がとても多く、山も深いし、もの凄く遠いところだから滅多なことでは行けねえ所だ。」と教えてくれた。そんな場所に自分が立っているという思い、幼い頃の記憶の奥底に埋もれていた映像の場所に自分がいる感動。こんな不思議な感覚は今まで体験したことがなかった。屋久島という名前さえも覚えていなかったが、沖縄の本土復帰前のことなので当時の交通の利便性を考えても実家のある東北からはまさに遠い場所であったのだ。

下山後、その『新日本紀行の』映像がこの屋久杉記念館で見れると知り見に行った。断片的にではあるが記憶に蘇った映像を確認することが出来、父親が言った「ずっと遠い、日本の端っこ」にいる自分に感激したものである。

3年前の9月、気晴らしにと身重な嫁を島に連れて来たはいいが特に遊ぶことも出来ないため、宿にある漫画を数冊ここに持ち込み、クーラーの効いたこの館内でまったりしたものだ。あのとき私は『Dr.コトー診療所』を全巻読み切ったのだ。中は相変わらずガラガラで前と変わらず様々な島の自然の情報が紹介されていた。

今回も大きく変わることはなかった。1階部には煉瓦状の屋久杉のブロックが床一面に敷き詰められ裸足だと木のぬくもりが非常に心地よく、また屋久杉の独特の強い香りが心地良い。一角にある子供コーナーには屋久杉の木片を利用した積み木が置かれ、ちび共は大喜びで遊んでいた。



そこで面白い体験をした。遊んでいる途中、長男は大を催し、気づいたときはその場でしてしまった。階のトイレは清掃中で使えなかったということもあり、困っていると掃除のおばちゃん曰く、
「誰もいないからオムツだったらそこで交換して良いですよ。」
とのこと。やむなくその場で嫁はオムツを交換した。ところがである。いつもならしばらくは臭いが残るのであるがあっという間にこの悪臭が消えた。これには嫁も私も驚いた。以前から屋久杉の消臭効果は物凄いという話を耳にしていたが、それが実感出来たのだった。

この屋久杉自然館入場料は取られるが屋久島の自然を知るには楽しい場所であり、我々のようにノンビリするにも良い場所である。時間に余裕があるときは是非お奨めしたい。

屋久島 ~亀の手~

2006-07-26 22:04:20 | 
屋久島はウミガメの産卵地としても有名である。ラムサール条約に登録している『いなか浜』等は厳重に係員が張り付き保護が行われているが、東側から南西部のある部分には監視員はいるものの、条約登録がないため、直にカメの観察ができる場所がまだいくつか残っている。

ウミガメは5月~8月にかけて砂浜に上陸し、産卵を行う。警戒心が強いため人の話し声や騒音がすると上陸してこないと言われている。その後、砂浜に穴を掘り、産卵し、そのまま海へ戻っていく。

7月末からはその孵化の時期となり孵った子亀達は海へ向かって進み、波にさらわれる形で海へ消えていく。一昨年の夏の夜に浜辺で孵った子亀が2匹海へ消えていった姿には感動したものだ。



話は変わるが、以前、屋久島で『カメの手』なるモノを食ったことがある。なるほど言われてみればカメの手のような感じもするモノであった。



味噌汁に入っていたモノで堅い爪とブヨブヨした皮の食材であった。確かに味噌汁の出汁としては旨い。店のオヤジにこれは一体何なのかと尋ねると笑いながら
「カメの手だよ。」
との返事が返ってきた。その後に続いた言葉は島で捕れるフジツボの一種らしく、様相が亀の手を思わせるからこの名前で呼ばれているのではないかという話だった。塩味が利いていて美味。屋久島の珍味である。

屋久島 ~カヤック・サウスアイランド~

2006-07-25 22:47:40 | 
食後、更に島をまわる。安房のスーパーで手みやげを買い、知人のガイドさんを訪ねた。

ここ、3~4年で屋久島もリゾート化がめまぐるしくすすみ、ガイド業・レンタカー業・宿泊業が著しく増えた。そんな中でも島でシーカヤックを一番に始めた知人がいる。

彼とは6年前の5月下旬、奄美大島でカヤックをした際に知り合った。屋久島出身の彼は当時、日本各地をまわりカヤックの修行をしていたそうだ。その後島に戻り、現地調査を繰り返し、島で初めてのシーカヤックガイドとなったのである。

15:00、そろそろ小学生の娘さんが帰っている時間のため奥さんはいるだろうと思ったがあいにくと留守であったため土産を玄関に置いて退散した。

私も嫁もカヤックがかなり好きである。いままで体験レベルではあるが、知床・奄美・屋久島・西表とチャンスがあれば参加している。


【このガイドの屋久島一周ツアーの一つ。西部林道からの眺め】

※ 実は私、乗り物酔いに弱い体質なため海よりも川の方が多い(笑)

そんなわけで私としては屋久島でのリバーツーリングがお勧めである。

このガイド、ハタナカさんの気遣いで安房川で2度ほど遊んだことがあるが、夏の渓谷沿いのルートも良かったが、このルートを弱い雨の中のカヤッキングは適度に霧もかかり、水墨画的な景色を見ているようで非常に印象深い。また彼の企画するツアーも面白く、一度シーカヤックを知人に紹介したところ大満足と感謝された程である。

その日の夕方、ハタナカさんと連絡が付き、家族の方々とも会うことが出来た。久しぶりの娘さんは驚くほど成長し、嫁も私もかなり驚いた。

3歳になれば我がちび共もカヤックに乗せられるとの事であった。

彼の立ち上げた会社のHPはこちら

屋久島 ~西部林道~

2006-07-24 23:27:25 | 
島を左回りで進む。永田集落からは一昨年登った永田岳が雲を被ってはいるモノのかろうじて望めた。その集落から先は西部林道と呼ばれ世界自然遺産の区域を横切ることとなる。狭い道路ではあるが、ヤクザル・ヤクシカ・ヤクイヌなどをかなりの確率で見ることが出来る。ただし、最近このヤクザルは観光客から餌を貰うことを知ってしまったため人を襲うような事故が発生しているという。サルにもヒトにも迷惑な話である。


【西部林道から見た東シナ海と口永良部島】


私のヤクザルとの格闘の記録はこちら

この林道、観光バスは狭いため進入が出来ない。また路線バスも走っていないためレンタカー等の足がなければ基本的にはバスの終点となる北側の永田あるいは南側の栗生橋(大川の滝)まで行って歩かなければならない。

3年前の5月に島一周(105km)を丸一日かけて歩いたことがあるがこの区間は6時間かかった。夜中の零時に丁度島の反対側となる小瀬田集落の宿を出発したためこの林道は朝の10時過ぎに入り、出るまで4時間ほどかかったが一体何処まで続くんだと思うほどの照葉樹林の原生林であった。その話はまたいずれ。

また狭い道路ではあるが、妊娠中の嫁を連れてきたときは特にすることもなかったためこの林道の待避所に車を止め、エンジンを切り、ドアをフルオープンにして宿に大量にある漫画から借りてきた『Dr.コトー診療所』を読みのんびりしたこともあった。

あのときとは逆ルートで曲がりくねった林道を進む。時折滝や沢また反対側には青い海を見ながら暫く進むとやはりヤクザルがすぐ目の前に現れた。クラクションで道を空けさせ、進むと次にヤクシカが現れた。一種のサファリパークである。


【道端に現れたヤクシカとヤクザル】

40分ほどのんびり進み、バス停のある落差88mの大川(おおこ)の滝に到着。以前この滝壺で泳いだことがあったが流石に流れが強く、滝の裏側にはとても辿り着けなかった。

昼もまわったので飯を食うことにする。栗生集落に入ると『手打ちそば 松竹』の看板が目に入る。面倒なので入ってみる。驚いたことに島では珍しい古民家を改造したものであった。今ままでこのような場所には入ったことがなかったので何とも物珍しかった。蕎麦は屋久島の名産ではないがそこそこに美味かった。値段も観光地の割には良心的でお勧めである。

屋久島 ~一湊海水浴場~

2006-07-23 19:03:41 | 
朝食後、手配しておいたレンタカーが届く。山は曇っているが海辺は快晴である。こんな日は海が一番と考え、泳ぎに出かける。途中、橋の上から見た限りでは前日までの雨の影響で川の流れは若干速そうであった。こんなときの川は泳げたとしても水温が低いため要注意である。

宮之浦の街を抜け、一湊(いっそう)海水浴場に着く。ここを選んだのは夏休み前のこの時期に既に監視員がいると聞いたためである。早速着替えて子連れで海に入ろうとする。長男は平気な様子であったが次男は怖がり泣き叫んでいた。



長男を連れて波打ち際に近づくと横でカップルがいちゃついていた。何を思ったのかその男性は女性を抱きかかえ波の方に連れて行った。女性は
「いや~...やめて...きゃー...あーっ...」
とお約束の台詞で笑いながら数々の奇声をあげて海に投げ込まれた。

この様子を見た長男は突如怖がりだし泣き叫び始めた。適当にあやしながら海に入るも長男の顔は恐怖に引きつり、この世の終わりのように絶叫している。横を見ると嫁に抱きかかえられた次男も同様であった。

あまり恐怖心を与えても仕方ないのでやむなく退散。早速シャワーを浴び着替えて撤収の準備をしていると、先ほどのカップルが近づいてきて男性は我々に声をかけた。

「かわいいですねぇ。波を怖がってたんじゃ残念ですね。」

一瞬、恫喝してやろうと思ったがカップルをかまっても仕方がないので適当に流して退散となった。

周りを気にせず恥ずかしげもなくいちゃつくカップル。ある意味公害である(笑)

その後、ブラブラしていると、午前中のシュノーケリングのガイドを終えたという女性が声をかけてくれた。



世間話をしながら泳ぎに適した場所を聞くと、今日は水がおおいが、明日には落ち着くだろうからと私にとって思い出深い横川渓谷を勧めてくれた。子供達は天然の滑り台に喜ぶだろうとのアドバイスを受けた。

屋久島 ~ライダーハウスとまり木~

2006-07-22 23:12:06 | 
95年8月の九州ツーリングの帰り、宮崎・日向のフェリーターミナルで知り合ったバイク乗りに屋久島を勧められた。
98年9月初旬、ツーリングで行った静岡県の梅ヶ島温泉近くのキャンプ場で一緒になり、宴会をした集団が屋久島のライダーハウスで出会ったという人たちだった。この連中とはその後もちょっとした週末や連休に一緒に遊ぶようになり、屋久島への私の憧れは増していくばかりであった。

翌99年のGWの事である。有給休暇は3日の申請で入職以来初めての11連休を取って南九州方面へは初めてのツーリングに出発した。このとき屋久島は滞在が当初4日のつもりが先ほどの仲間に紹介されたライダーハウスの居心地が良いのも手伝い、8日も滞在してしまった。

初めてこの宿に泊まったときは驚いた。宿泊費が2,000円と言うのには惹かれたが、行ってみるとカーテンの付いた3段ベッドが12あるのみ。プライベートを確保できるのはその空間のみである(よく言えば簡易なカプセルホテルと言えないこともない)。風呂は家庭用のもので当然のように順番待ち。食事は事前に頼めば夕食のみ出して貰えるが他の宿泊者、オーナー夫妻と一緒。700円で庭にテントも張らせて貰えるしまあ、贅沢は言えないと泊まったものである。しかし、ここで知り合う旅をする人々との情報交換が面白く、それ以後、島という独特の雰囲気と居心地の良さもあり9回も屋久島を訪れることになってしまった。


【西部劇にでも登場しそうな外観】

今回わざわざ飛行場まで我々を出迎えてくれた女将は、初対面となるちび共に
「お帰りなさい。初めまして!」
と挨拶をくれた。
それに対し長男は、
「どうもごちそうさまでした!」
と最初から呆けをかましていた。嫁にとっては2003年の9月下旬、双子が嫁の腹にいたとき以来の上陸となった。

空港すぐそばの宿に着き、挨拶を済ませ、落ち着いたので翌日の朝食を買いに散歩がてら出かけることにした。500m程離れたホームセンターベースのスーパーで買い出し。

※ この宿は朝食は出ない。夕食以外は全て自分で用意することになる。またライダーハウスとは誤解されがちだが、ライダーに限らず誰でも泊まれる。

宿に戻り入浴。その後夕食となった。オーナー夫妻は子連れの我々に喜んでくれ食いきれないほどの料理でもてなしてくれた。中でもミズイカと首折サバの刺身は絶品であった。

ハイジャック

2006-07-21 22:17:25 | 
さて、話は逸れるが飛行機に乗るたびに思い出すことがある。
2002年のGWのときのことである。九州の離島ツーリングを考えた。少しでも時間を有効利用しようとして出発の2日前の早朝、バイクを東京湾のフェリー埠頭から北九州へフェリー輸送をかけた。その後、2日間仕事をして、終業後、飛行機のバースデイ特割を利用し北九州へ1万円で飛んだ。

※ この北九州空港は今年3月16日に新北九州空港のオープンに伴い現在閉鎖となっている。

そのときの羽田でのことである。手荷物となるザックを検査に回し、普通に出発ゲートをくぐった。体の反応はなかったが、荷物はブザーが鳴りひっかかった。その場に居合わせたセキュリティの男性2人は私に言った。
「なにか金属系のものは入っていますか?」
キャンプ用品一式は既にバイクに積み別便で送ってあるため私は答えた。
「ちょっと心当たりありませんが、開けてみましょうか。」
私の申し出に2人は顔を見合わせ
「どうぞ、結構です。」
とそのまま荷物を返してくれた。

離陸後、機体が安定してからツーリングプランを確認しようとしてザックから地図を取り出そうとした。何気なく地図の入っている隠しのファスナーを開いて唖然とした。

何と、そこには刃渡り12cmを越える長さのヴィクトリノックスの登山ナイフが入っていた。すぐさまファスナーを閉じて辺りを確認する。こんなモノを機内で見られてはそのつもりはなくてもハイジャック犯と誤解される。幸い隣の席の人も客室乗務員も気づかなかったようだ。



ふと冷静になっていろいろ考えてみた。前年の9.11のテロまた翌月開催の日韓サッカーワールドカップの影響で警備が格段に厳しい。そんな中での一般客の航空機内ナイフ持ち込みとう不祥事である。これネタになるかも知れない...。

そこで、どうにか機内にナイフを持ち込んだという証拠写真を撮ってやろうと考えた。しかし機内と分かるようにするには例えば飛行機の特徴ある窓際にナイフが置いてある画像や、ナイフの画像の背後に客室乗務員が写ったりしていなければならない。いろいろ考えたがどうやっても一歩間違えばハイジャック犯扱いである。そこでトイレに行くことを思いついた。あそこなら個室だし、機内のトイレは間違いなく特徴的である。そう思い、ザックを抱えカメラを携えて立ち上がろうとした瞬間、客室乗務員に呼び止められた。
「お客様、先ほど当機は着陸態勢に入りましたのでおかけになりシートベルトをご確認下さい。後数分で到着となりますから...。」

飛行機には着陸態勢時にトイレに客がいると着陸出来ないという決まり事がある。そのため従うしかなかった。

程なく着陸。またもや機内トイレに行こうとするとあっさり、空港内のトイレを勧められた。完全なる敗退である。なんとも消化不良の結果になってしまい、逆にこのいい加減な警備体制に憤りを感じた。

そのとき、ふとナイフを持ち込んだ事実を関係者に伝えた場合どのような対応にでるかとくだらないことを考えた。そして出口を通る際私はそこにいた警備員にこう言ってしまった。
「いや、持っているとは思わなかったんですがナイフを持ち込んでしまったんですよ。時期的に警備体制に問題があると思いますよ...。」
そういってザックの隠しを見せると警備員は焦った顔でこういった。
「ちょ、ちょっとお待ち願えますか!」
そのままその警備員に空港事務所に案内され応接室に通された。茶とケーキを出され、待つこと数分、別な男性が現れた。その男性は空港の警備担当責任者と名乗り私に名刺を差し出し、質問をはじめた。
・(よろしければ)との前置き付きで身分証明書と連絡先の提示
・羽田のどのゲートから入ったのか
・その際対応は何名いたか
等々、またナイフのメーカー・刃渡り等を調べ写真を撮っていた。

一通りの事が終わると世間話の調子で彼はこういった。
「ワールドカップも近いんでこういったことはかなり大きな問題になるんです。この事件でまた警備マニュアル等の見直しがあると思います。」
私は返した。
「じゃあ、私は申し出ない方が良かったんですね(笑)」
「いえ、ある意味警備体制の強化になりますんでこちらとしては有り難いです。」
という優等生的な回答だった。私は言った。
「この頂いた名刺をもってフライデー(写真週刊誌)辺りに私が駆け込んだらどうなりますかねぇ(笑)」
相手は笑いながら言った。
「勘弁して下さいよ(笑)」
しかし、目は笑っていなかった。

程なく解放され、リムジンバスの乗り場へ向かう。しかし、こんな事をしていたため既に全てのバスは終了となり当然のように小倉行きのバスも終わっていた。

再び事務所に戻り先ほどの担当者を捕まえ言った。
「小倉行きのバスが終わってるんだよ。どうすればいいの?」
彼は言った。
「右へでて一つめの信号機を10分ほど歩けば下曽根の駅ですからご利用下さい。本当ならお送りするべきなのですが先ほどの件で羽田に連絡したため私もすぐには帰れませんので...。申し訳ございません...。」
一言、
「写真週刊誌へ駆け込みます!」
と言ってやろうと思ったが何となく気の毒に思えたので駅まで歩くことにした。

飛行機に乗るたびに思い出す出来事である。

屋久島へ

2006-07-20 23:58:04 | 
さてさて、無事屋久島から帰還しました。どうにも帰ってきてから屋久島呆けが体から抜けず、更新が大幅に遅れています(笑)

今回の旅は今までのモノとは違い、アウトドア天国屋久島へ行ったモノの双子の幼児連れであったため今までのように山へ登ったりカヤッキングをしたりということは出来ませんでした。しかし、子連れでの旅、これはある意味今までない新鮮味がありました。ということで私としては珍しい視点での展開となります。とは言ったモノのちび共メインで書くと単に自己満足の親馬鹿日誌になりかねないので適当にその辺は端折ります。以下。

今回で私自身9回目、嫁が6回目となる屋久島上陸となった。

13日朝食を終えた後、自宅を車で出発。当所羽田空港まで電車乗り継ぎを考えたが、家から徒歩6分の最寄り駅まで大量の荷物を抱え、幼児2人を連れて、更に羽田まで乗り継ぎをするのはある意味修行であると考えた。羽田に車をおいておく目処が付いたので新青梅・環八の渋滞を予測し、9時出発。たった26kmの道のりを2時間ほどかけて駐車場着。

駐車場管理会社のバスで空港へ移動。10分ほどであった。その後、チェックイン。屋久島までの荷物をスルーし、空港内のレストランで早速ビールを飲みながら昼食。こんなまったりモードは子供が出来て以来嫁は久しぶりであった。かくいう私は当ブログでもおわかりのように遊び呆けているので珍しいことではない(笑)

初めて乗る飛行機にちび共は喜んでいたが、こっちは大変だった。指定された席は私も嫁も何故か窓側の端の前後であった。隣の席にはお互い見知らぬ他人が座っているわけである。私の隣の女性は気遣って並んで座れるように客室乗務員に申し出てくれたが意外な答えが帰ってきた。非常時に子供用の酸素マスクがこの便の場合通路側の席には下りてこないとのこと。だから不便でも窓側の2列となったらしい。ちなみに中央のシートは正面左側2列は装備されているそうだ。


【愛知県渥美半島・伊良湖岬沖】

子供を抱っこしての100分間、これが大変だった。子供は離陸前に大喜びだったモノの搭乗すると騒音のためか落ち着いたらしくあっという間に寝に入った。しかし、飛行機が安定しても寝ている子供を離すことは出来ず、トイレにも行けない。更に困ったことにヤツは寝屁をかまし、また口からは涎を我が腕に垂らし続けた。

国内の短い移動だったためこんなもので済んだがこの状態で海外への長い時間をかけての移動はあまり考えたくはない。

寝起きに少々空を飛んでいることに驚いたモノの乗務員から子供向けの飛行機のおもちゃを貰いご機嫌の内に鹿児島へ着いた。

乗り継ぎが20分。しかし、10分程の余裕しかなく、ターミナルの端から端までの移動は汗だくであった。

チャーター便はいつものYS-11ではなく何故か更に多く乗れる便が用意されていた。
乗ってみて分かったことであるが唯一の国産の機体YS-11機は今年の9月を目処に完全廃止らしく徐々に大型の機体に入れ替えているらしい。



更に25分で屋久島着。飛行場では行きつけのライダーハウスの女将が出迎えてくれた。

臨時コーチ

2006-07-13 08:52:10 | 登山・アウトドア
ひょんなきっかけで(『ひょん』の語源でなんだ?)私が所属した大学のアウトドアサークルの臨時コーチを引き受けることになってしまった。サークルとは言っても大学側から正式に認められており補助金も貰っている(インチキ)体育会である。部は50年を越える伝統を誇るが、ここ最近学生のアウトドア離れが顕著で学年が開いてしまってレベルが低下、また現在の部員は十数名。

いままで私の同期でそのまま大学に職員として残った親友がコーチをしていたが実際面で後輩を指導するはずの3・4年が就職協定撤廃に伴い既に就活中のため部の活動に支障を来たし、全体の技能向上はおろかレベルの維持もままならないとのこと。

年数回の臨時という条件で在京の私と後輩のコマダが声をかけられた。現在でも趣味で何かしらやっているヤツという点で絞り込まれ、私は現役時の活動で行った青木ヶ原樹海のコンパス縦走と雪中キャンプ。コマダは北アルプス大キレットコース経由でのフル装備無補給・オールテン泊完全縦走をしたプラニングと山岳面での技術で候補が挙がったらしい(表向きは大それた説明であったが要するに暇なヤツということらしい)。

必要なら学長名の委任状、OB会を中心にある程度の活動費の補填もあるとのこと。しかし、今更大学生のガキ共相手に指導するのも烏滸がましいし、年数回とはいえ時間調整も面倒である。何よりもコーチングした活動中に事故でも起きたら臨時とはいえ責任は免れないだろう...。こんな事を考えている内に一月程前、今年8月に実施予定の夏合宿の計画会に駆り出された。計画書を見せられて驚いた何と場所は屋久島であった。どうも親友の企てにまんまと一杯食わされた形になった。おそらく秋合宿は山関連であろう。先週末の土曜日都心をブラブラしていたのはこのコーチングの打ち合わせがあったための時間つぶしである。



...というわけで急だが今日から下見を兼ねて家族連れで屋久島へ行くことになった。

デジタルカメラ

2006-07-12 22:29:25 | Weblog
デジカメの調子がおかしい。CANON POWER SHOT S-40 当時定価で99,800円した代物である(もちろん割引はあったが...。)。銀塩一眼レフカメラ EOS Kissのサブ機として購入したが5年目であっさり故障となった。写せないことはないのだが何故か時折シャッターが下りず、また撮れたとしてもこれも時々連射になってしまうのだ。



行きつけのカメラ屋に持ち込むと店員が申し訳なさそうに言った。
「おそらく2万円ほどかかりますよ...。」
唖然としていると彼は続けた。
「デジカメってそういうモノなんですよ。」

確かに構造がフィルムに比べ複雑な分そうなのかも知れない。2万円では最新のモノがもう少し出せば買えてしまう。

店員は察したように私にCANONのIXY800ISを紹介してくれた。この店とは長いつきあいでこのS40をはじめEOS-KISS Dnもモニター価格で紹介して貰った。無金利12回払い可で3年保証との勧めもあった。



ということで新兵器投入!
お得意様ということでまたもやモニター扱いで1GのSDと液晶保護フィルム並びにLoweproのキャリングケースを付けて貰った。
毎月CD1枚分の出費はなんとも煩わしいが(笑)

アマチュア無線機

2006-07-11 23:15:03 | Weblog
最近のアマチュア無線機はWIRESⅡという機能を使いハンディ機でも世界中と交信出来ることを知った。こうなると山岳移動時のアイテムとしては最高に心強い。12年使いこんだケンウッドTH-78は満足行くモノであるがそろそろ買い換えを考えていた。

※ ちなみに歴戦の交信記録はこちら

秋葉原をぶらつく。以前よく通った大手電気店のアマチュア無線専門館へ行くも、その場所にはその店がなかった。やはり流行らないため閉鎖となったのか...?その店の家電専門館へ行って聞いてみた。流行らないが一定の固定収入はあるらしく、不便な路地裏に移転となっていた。アマチュア無線館と書かれた店舗に入り店員を捕まえて聞いてみた。
「最近のお奨めの無線機ってどの辺りですか?」
店員さんは何故か無資格のトランシーバーコーナーを案内してくれた。アマチュア無線の店で思わぬ展開であったが利用法を含めて改めて説明するといろいろ紹介してくれた。

・山岳移動利用がメインであること。
・消防署や警察署が必ず聞いている周波数帯が使えること。
・とにかくタフであること。
・水に強いこと
・乾電池運用が可能であること。
・30分以上のハイパワー運用が可能であること。
・レピーター運用が出来ること
・パケットを介してのメールの送受信が出来ること。

店員さん曰くこの条件に一番近しいモノはバーテックス(旧スタンダード・八重洲)のVX-7であった。



30分以上水に漬けても踏んづけても壊れず、リチウムイオンで5W運用可能。乾電池2本で0.3W送信であった。これなら非常時用にリチウムイオンを持ち歩けば普通の送信には十分である。おまけに周波数帯は430/144、それに50のトリプルバンダーであった。50Mhz帯はまで付いていれば天下無敵である。唯一残念なのはメールの送受信である。これはアマチュア無線人口が減り、パケット通信が行われなくなったため現行で機能を備えたモノは無いとの回答だった(この機能さえあれば通信手段としてはアマチュア無線は天下無敵となるはずである)。おまけ機能として全国のFM/AMラジオ局の周波数がプリセット済とのこと。警察無線・防災無線等の周波数改造済み。デザインがガンダムチックなところが難点だが3割引だったため購入。今後の活用でどのような交信が可能となるか楽しみである。

ムラサキウニ ~三陸・北山崎~

2006-07-10 22:27:12 | 
秋葉原の総武線ホームに貼られていたポスターである。


【北山崎・『東北にアルプスがありました』というコピー】

3年前の9月半ば、思い立ってこの地を訪れた。10数年前私が上京した際ねぐらとしていたのは当時でも築30年を過ぎたキッチン・トイレ共同当然のように風呂無しの木造ボロ下宿の1階の4畳半だった。その2階にクマと呼ばれる輩が住んでいた。何故かヤツとは気が合い、よく遊んで歩いた。その後、私は進学し、ヤツはアメリカの大学へ行くといいそのまま事実上消息不明となった。

3年前の夏、東北の地図を眺めていると『北山崎』という地名が目に留まった。ふと遠いヤツとの記憶が思い浮かんだ。
「...三陸のリアス式海岸の北山崎って所で親が土産物屋をやってるんだ。」

ネットで『北山崎』とヤツの名字を入れてみるとあっさり1件ヒットした。これがツーリングの口実となった。もし、ヤツの縁者が経営する所なら消息くらいは聞けるかも知れない。確証はないが何となくテント等を持ち出しフルパッキングでバイクで向かってみた。

東北道・盛岡インターを下りたのは13時過ぎだった。そこから北東に延びる455号線沿いにヤマセの影響で本州で一番平均気温が低いと言われる岩泉町を過ぎた。この時期にもかかわらずバイクでは震えが来るほど寒かった記憶がある。

やがて太平洋にぶつかり北上、16時に北山崎に到着。景色を楽しんだ後、立ち並ぶレストハウスの1軒に入り、店員の女性にヤツの名字を出してその名の人が経営する店を訊いて見た。
店員さんは、
「はい、それは支配人の名字ですがどういったご用件でしょうか?」
一軒目で行き当たるとは思っていなかったためかなり驚いたがこう伝えた。
「はい、息子さんの東京時代の旧い友人でして、消息が分かればと想いまして...。」
そういって自分の名前を告げると女性は受話器を取り内線をかけてこういった。
「専務はいらっしゃいますか?なんでも東京での旧い友人の方がお見えですが...。」
意味が分からず待つこと2分、何とクマが現れた。ヤツは驚いた顔でこう言った。
「やっぱりお前か!久しぶりだなぁ...。東京からの客と聞いて名字で思いついたのお前だけだったんだ。」
予期せぬ13年ぶりの再開だった。

ヤツは帰国後、暫く働いた後、実家へ帰ったそうだ。その後目の前の海を見て漁師をしたくなり弟子入りして独り立ち、今は漁の傍ら両親のおみやげ屋を手伝っているとのことであった。

あっさり泊まっていくことを勧めてくれ、夕食に大量のウニ料理を出してくれた。それまでの私が食べたウニとは全く違う味でこれが本当のウニだったのかと思うほど感動した記憶がある。それまで誰もが言うように北海道の礼文で喰ったウニが一番と思っていたが私には格段にこちらの方が美味かった。礼文近辺のウニは『馬糞ウニ』、三陸のものは『ムラサキウニ』。目から鱗だった。

翌朝、海は荒れていた。4時に起こされ、海岸での昆布漁に出かけた。波の荒い日は海岸に昆布が打ちあげられるらしい。この昆布もウニの餌となる良質のモノである。これがきっかけでお互いの交流が復活した。

帰り際にヤツはこう言った。
「また来いよ。今度来たときはここ(北山崎)の海の洞門を俺の船で案内してやるよ!」

『海のアルプス』と呼ばれる北山崎の思い出である。

MONEY

2006-07-09 21:55:40 | 音楽
一昨日の『七夕 ~五色の短冊~』の夢の話を読んだ方から私の煩悩じみた夢と同じような願いをするというコメントを頂いた。

世の中お金のことを細かく言うと疎んじられる場合が多いような気がするが、お金を歌った曲でも有名なのが当然のようにある。

洋楽ではアバの『マネー,マネー,マネー』
邦楽では浜田省吾が『MONEY』という曲を歌っている。
後者は私が浜田省吾を知ることとなった鮮烈な思い出のある曲である。

中学生のときのこと。土曜の半日の授業が終わった初秋の頃、家の茶の間で昼寝を貪っていると突然もの凄い衝突音が聞こえてきた。
慌てて家から飛び出してみると家の下のバイパスの緩いカーブを切り損ねた白い日産スカイラインが道路標識にぶつかりフロントがゴシャゴシャに潰れて止まっていた。その横にはそのドライバーのリーゼントにサングラス・アロハシャツという絵に描いたような田舎のヤンキーとそれにぶら下がりそうなケバいネーちゃんがそれぞれ首と腰に手を当てうずくまっていた。救急車やパトカーを呼ぶような大きな事故であったが、それらが到着するまでの微妙な時間、増え続ける野次馬をよそに何故か潰れたスカイラインからは浜田省吾のこの『MONEY』が流れっぱなしになっていた。

♪純白のメルセデス
 プール付きのマンション
 最高の女とベッドで
 ドン・ペリニオン(中略)
 まるで悪夢のよう
  Money Money Makes Me Crazy , Money Money Changes Everything ...

あまりにもこのカップルが今置かれたこの悪夢のような状況にはまりすぎて笑ってしまった記憶がある。
修理費は一体幾ら位なのか...。子供心に心配したものだ...。

ついでに私の大好きなお金の曲を紹介しよう。80年代初頭NHKの人形劇『プリンプリン物語』の挿入歌で使われていた曲である。あまりにも内容が子供向けではないためかなりの苦情もあったらしい。ちなみに私は
「知能指数...1300!」
と叫ぶ軍事国家『アクタ共和国』のルチ将軍が好きだった。


【不気味な独裁者ルチ将軍】

『世界お金持ちクラブの歌』
作詞:石山透 / 作曲:小六禮次郎
歌:ヘドロ&マイホーム

おカネ おカネ おカネ おカネ おカネ おカネ おカネ おカネ
お金さえあれば 何でも手に入る
ドレス イヤリング 真珠の首飾り
マンション 別荘 建て売りマイホーム
車 飛行機 自家用潜水艦 キャビア フォアグラ 松茸に数の子
お金さえあれば 幸せになれる 我ら世界お金持ちクラブ

※ 建て売りマイホームというのが控えめだし数の子というのが世評を現している

ちなみにこのアクタ共和国の国歌は以下

世界で一番すぐれた民族
アクタアクタ共和国
命令絶対規則はいっぱい
アクタアクタ共和国

この後も番組自体は長く続いたらしいがあまりにもこのルチ将軍のキャラが強すぎたためその後の番組展開はどうでも良くなりいつの間にか見なくなった記憶がある。