Natural Mystic ~ナチュラルミスティック~

There's a natural mystic blowing through the air

ジェネリック

2007-02-28 22:57:56 | Weblog
先週の土曜日のことであった。家から富士山がどかんと見えたので久々に高尾方面の山でも登ってみようと思い立ち、八王子和田峠から奥多摩・三頭山へと延びる笹尾根の沿いの三国山へ向かった。天気は快晴。意外に風もなく、穏やかな山歩きとなるはずであった。

ところがである。なんと言っても杉の植林で有名な奥多摩山系。杉林の中に歩を進めるに連れて目頭にかゆみを伴い始めた。目薬を点しながらも尾根沿いの道を歩いているうちはまだよかった。目的地である三国山へ着いて雲がかかり始めた富士山を眺め食事を取り、引き返し始めると次第に目から鼻に来て終いには鼻水の洪水に襲われ出した。かみっぱなしで鼻の下は既にヒリヒリしていた。この山域、殆ど人と会うことがなかったた両鼻にティッシュを突っ込んだ何とも間抜けな様相での悲惨な下山となってしまった。


【三国山頂よりの富士山】

数年前まで医者で処方して貰っていた薬は一日一錠飲むだけで驚くほど効き目もあり、全く花粉症が気になるものではなかった。しかし、ある時から頼んでもその薬が病院で貰えなくなった。理由は意外なことで、新薬がでたため古くなったその薬では病院サイドが医療点数を稼げなくなったらしく処方してくれなくなった。正しくは処方しても取り扱う調剤薬局がないらしい。効果は薄いが新しいもので我慢していたが流石にこの時期に杉林での活動には新薬では対応出来なかったようだ。今週、ちょっとしたことで皮膚科を受診することがあった。試しに花粉症薬の処方の可否を聞いてみると、皮膚の治療と言うことで経口薬を処方してくれた。これが驚くほど効いていて今のところ非常に助かっている。今日で暦上の冬は終わるようであるが、早く杉花粉の季節が終息することを願う。

ダイヤモンドは永遠の輝き

2007-02-18 18:51:05 | Weblog
休みである。特に予定もないが嫁に行きたいところを聞くと、
「ダイアモンドミューで買いたいものがある...。」
とのこと。
早速、出かける準備をしていると私はいつの間にか妙なフレーズの鼻歌を口ずさんでいた。

♪あーれは正義のダイアモンドミュー!!

ふと、この歌は一体何なのか考えた。しかしピンとこない。ダイアモンドミューとは正しくはダイアモンドシティ・ミューという名称の以前書いた、家の近くに出来た首都圏最大級のショッピングモールである。

行く途中この不思議な曲が頭を回り続ける。しかし何の主題歌なのか一向に思い浮かばない。おそらく幼い頃テレビで見た仮面ライダーのようなアクションヒーロー物であろう。しかし、頭に思い浮かぶのは「超人バロム1」「ロボット刑事」「キカイダー」のようなそこそこメジャーな物ばかりである。街道沿いの観音様を奉った神社の前を通過する際、失笑してしまった。歌の正体が分かったのである。この主題歌は『ダイヤモンドアイ』というアクションヒーローの物であった。

調べてみると昭和48年に放映されたらしいが、私の田舎では当時民放は1局しかなく、そのためか平日のおかしな時間に放送されていた記憶がある。

しかしこのヒーロー、怖ろしく格好が悪い。おそらく私が幼心に格好悪いと初めて思ったものではないだろうか。笑えることに観音様をモデルにしたヒーローなのであった。

このヒーロー、当時は変身ブームにもかかわらず変身はなく、毎回番組の主人公となる人物がピンチになったとき身につけている指輪を光にかざし、
「アイよ~!!」
と濁声を絶叫する。するとようやくヒーロー・ダイヤモンドアイが登場するのである。しかし、待ちに待って出てきたマントを纏ったヒーローは頭がツルッ禿で全身青の正義の味方。戦う武器はこれまたよく分からない杖。また、当時大人気の仮面ライダーシリーズが乗るような特殊デザインのバイクはなく、単にホンダのネイキット(おそらくCB750F)に毛が生えたようなものであった。



余談だが、主人公の母親役には何故か往年のばばあ『菅井きん』が登場していた。

これだけ格好悪いのでは幼稚園児にも人気が出ようはずもない。「ダイヤモンドアイ」ごっこをやろうという子供すらいなかったように記憶する。そしていつの間にか私の記憶の彼方に忘れ去っていた物であった。しかし、主題歌は私の脳裏に隠れていたらしく嫁の一言で今回出現に至ったわけである。

♪あーれは正義のダイアモンド・アイ!!

格好悪かったり弱かったりするヒーローはやはり人気が出ないようだ...。

くじ

2007-02-15 22:07:08 | Weblog
先日ファミリーマートで『ウルトラマン一番くじ』というのを買い物のついでに引いた。当たったのはスポーツタオル。ハズレくじらしいが一回500円の代金を払っただけあってしっかりした品物であった。それ以外のハズレもちょっと使えそうな小物入れやティーカップといったそこそこの物であった。当たりはというと1等はウルトラマンの巨大フィギア・2等が巨大クッション・3等が掛け時計であった。しかし、このくじ、1月いっぱいのイベントであったが適度に売れ残り、あろう事か今日になっても良く立ち寄るファミマには1・2・3等が全て残っていた。



今朝の出がけ嫁が言った。
「このタオル子供達が気に入ってるからもう一枚あると喧嘩にならないから助かるんだけど...。」

とは言われたもののくじは狙っても取れる物ではない。今日の夕方、会社で先日行った研修の交通費を2000円程渡された。バイクで行ったため泡銭である。帰り道のファミマでタオル狙いでくじを引いてみた。

何と、3等の掛け時計が当たった。当然こんな物はいらない。もう一度引く。目を疑った。何と1等の巨大フィギアが当たった。こんな物もどうでも良い。笑いながらもう一度引く。あろう事か2等の巨大クッションが当たった。

流石にこれだけでかくて家にあっても困るような物が続くと4度目が怖ろしくなり、くじをやめた。



家に帰ってネットのオークションサイトを探すと巨大フィギアは6,000円前後で取引され、時計は3,000円程度であった。ちなみにクッションは値が付いていなかった。世の中にはこのような物を手に入れるためにひたすらファミマで散在している人たちもいるようだ....。

巨大フィギア、どうした物か...。

受講

2007-02-14 21:57:08 | Weblog
役所より職場への連絡で、
「御社より管理者が届けられたのは20年前です。変わっているようでしたら管理者を届け出る義務があります。管理者を届け出て下さい。管理者の資格者がいない場合は直ちに講習を受講して、管理者を立ててください。そうしないと罰則規定がございます。」
との事をさも当然のように言われた。こんな要請は私が今の事業所へ来て3件目である。

藪から棒に罰則といわれても知ったことではない。こう返した。
「20年以上届出を怠っていたのは人事異動時の引き継ぎによる当方のミスではありますが、逆に20年間監督を放っておいて今更罰則云々を言うのはお宅等にも制度上の問題もあるとは思いますが...。」

効果覿面!この私の一言に担当者はしどろもどろに陥った。
「あ、あの、出来ましたら講習を受けて頂きたいのですが...。」

「『出来ましたら』ってことはこっちに選択権があるって事ですよね。この時期、時間も作れませんので受講は辞退します。」

「あ、いえ、そういうわけではなく受講された方が良いかなと思いまして...。」

「その物言いだと受講しなくて良いんですね。」

「ええと、受講して頂かなくてはいけない物なので...。」

どうしても届け出なくてはならない物で管理者になるには数千円の講習費を払い、行ってみるとテキストを購入させられ、最終日に試験を受けなければならない。職場から金が出るので自分の財布は傷まないが、仕事で行くからには落ちるわけには行かない。しかしそんな風に考えていたのは初めてのときだけであった。



今回も会場では案の定、関係省庁の外郭団体作ったテキストを強制的に購入させられ、それらは殆ど使うことなく、講師は試験に出る箇所をひたすら繰り返す。そんな茶番が演じられていた。こんな事を最低2日以上行えば、日本語が分かる人間なら落ちることの方が難しい。

そんなわけで今日までの2日間、このくだらない講習を受けることとなった。受講開始時の講師の台詞は相変わらず、
「試験に出る場所は講義の最後また、最終日の試験前の講義では全て頭から出る場所をチェックし直しますので気楽に聞いてください。」
こんな展開では緊張感も何もあったものではない。受講生は適当に居眠りをしたり本を読んだりといい加減なものであった。かくいう私も持参した本をかなり読むことが出来た。

最終日のテスト、1時間の時間があったが20分で退出可。毎度のように受講生は行列をなして退散した。


【20分経ってほとんどが退出】

結果は来月郵送であるが、間違いなく管理者証が送られてくるはずである。大義名分はある物の一体何処が儲けたくてこんな制度を作っているのか、しかも今回の資格は東京都でしか使えない物である。アホらしくなるばかりである。

限定解除

2007-02-13 21:58:09 | Weblog
今日明日は研修で別施設へ通わなくてはならない。家からはそれ程遠くはないが、電車・バスだと乗り継ぎが非常に厄介な上、ラッシュ時の時間も読めない。仕方がないので朝食後10ヶ月以上ぶりで久々にガレージ奥でカバーを掛けっぱなしになっている原付モンキーバハを引っ張り出す。バッテリーは一応付いているのだが、キーをオンにしキックを数回、キーをオフにし空キックを数回これを2セットほど繰り返すとあっさりかかった。



この程度で復活するから原付は楽である。これが250ccの場合、キック付なら一汗かくくらいでどうにかなるのだが無いと押し掛けとなる。これは鉄の塊を押してクラッチを切り走るという作業である。結果はどうあれ汗まみれになるのは確実である。昔持っていた900ccのDUCATIのときには重さと倒すと数万円の修理費という緊張感のため流石に泣きが入った。

さて、話は戻るが10ヶ月以上乗らなかった原付は空気圧は下がっていた物のそれ意外はそれほど気にする点はなかった。快晴の冬空の下、久々に通勤を楽しめた。

思えば私のバイク免許はステップを踏んで大きな物になってきた。
私は原付免許→自動二輪(自二車は中型に限る)※今で言う普自二輪→限定解除(今で言う大自二)と取得してきた。

原付は筆記のみで楽勝。自動二輪は教習所に通い普通自動車と同時に取得とそれほど苦労は無かったが限定解除は苦労した。私が取得に向けて動き出した当時はちょうど二輪免許制度が教習所で取得出来るようになる直前であった。
その年の9月に大自二免許が新設され、それから各教習所は公認を取るために希望の卒業生を集め格安で指導し免許所センターでの実技試験に送り出していた。この実技試験で一定の合格実績を出さなければ公認は取れなかった。

しかし、社会人となった私の場合教習所で指導を希望しても取得した自動車学校が田舎であったためそれも不可能であった。そのため意を決して自動車練習場に通い、一発試験のための指導を受けた。

10月末からの3ヶ月間、仕事が終わると実に往復60kmの道のりを練習場まで通い、土・日祝日は集中的に朝から夕方まで練習した。

しかし、当時の府中の壁(刑務所ではなく免許センター)は高く、150人に1人という文字通り日本一難しい国家試験であった。しかし行く度に失格となった場所の攻略方法を考え2桁の受験回数が見え始めた頃ようやく合格となったのであった。

この後、あこがれていたDUCATIを入手するも結局は自分のバイクスタイルには合わず1年で手放し、それまで乗っていた250のオフロードをメインに乗り続けている。

しかし、この練習場通いで身に付いたスキルはやはり体に染みついているらしくたまにバイク屋の試乗車や知人の大型バイクを借り受けても何の違和感もなく乗り回せるのである。それよりも試験中しつこい程チェックされる安全確認の動作が今になっても自然に出来るのは心強いことである。

どろろ

2007-02-08 21:11:35 | 映画
下山後、青梅でまだ15時前である。家に帰るには中途半端であった。携帯電話でチェックすると昭島の映画館で時間が合いそうな作品がヒットした。手塚治虫原作の実写版『どろろ』である。前評判は凄いとの話だったため一瞬考えたが暇つぶしで見ることにした。



ショッピングモールの駐車場に車を置き映画館に向かう。受付でチケットを買うと指定された席に座る。先日の『007』のときのように確実に座れるから有り難いシステムである。また駐車場が無料というのも有り難い。

観た感想はストーリーはしっかりしてたためそれほど退屈することはなかったがちょっとせこいCGを駆使した仮面ライダー的な作品であった。アニメ版だったら楽しめたかも知れないとは思ったが、アニメだと手塚治虫が原作なため、おそらく線が丸く、アクション感は薄れてしまうかも知れない。

終わり方からすると続編が作られそうである。

余談だが、どろろ役の女優の演技はまるで『下妻物語』に登場したお笑い芸人『まちゃまちゃ』の叫びをひたすら繰り返しているような感じであった...。

以下gooより抜粋

戦乱の世で天下統一の野望を抱く武将・醍醐景光は四十八体の魔物から強大な力を与えられるが、その見返りに生まれくる我が子を捧げた。やがて体の四十八ヶ所を奪われて生まれた赤子は捨てられ、呪医師・寿海の秘術によって救われる。身を守るため左腕に仕込まれた妖刀と同じ百鬼丸と名付けられた子どもは成長し、魔物を一匹倒すごとに体の部位が1つずつ戻る定めなのだと知る。魔物退治の旅に出た百鬼丸は野盗・どろろと出会う…。

山葵(わさび)

2007-02-07 22:03:13 | Weblog
今回の山行でも出くわしたが奥多摩は山葵の産地である。しかし恥ずかしながら私は上京するまで山葵とはどういう植物なのか全く知らなかったのである。



18の冬、東京に来たときのことであった。居候となっていた兄の下宿の最寄り駅の蕎麦屋でざる蕎麦を食ったときのことである。出された蕎麦の横に黄緑色の謎の植物と鮫皮のおろし金が置かれていた。田舎者の私はそのような物をそれまで見たことがなく、何となくおろし金で引き始めた。しばらくすると引き上がった物体が山葵であると気づき感激した物である。

大学1年の夏であった。奥多摩の丹波山村で仲間内でキャンプをした。その際、川遊びをしていて山葵田を発見した。友人がそこで栽培されていた植物が山葵であることを教えてくれてこれまた感激した物だ。余談だがこのときのキャンプで初めての奥多摩ハイキングを行った。緑に覆われた夏の低山ハイクであったが竿裏(サオラ)峠までの登りは非常にきつくぶっ倒れる程であった。しかしそこから天平(でんでえろ)尾根経由の丹波天平(1,342.9m)ルートはとても気持ちが良かった。

更に就職しての事である。社員旅行で上高地へ行った。その際帰りに寄った松本の山葵田で取れたての山葵を試食した。ビールに良く合い、またすり下ろさない山葵は甘い物であると知り、驚いた記憶がある。

すり下ろすことによって酵素と辛み成分が酸素と結合して辛くなるそうだ。いずれにしてもこの清流でなくては生えないこの植物、私にとっては酒飲みになっていく過程で欠かせない薬味となったのであった。

グループ山行

2007-02-06 22:09:44 | 登山・アウトドア
日当たりの良い頂上でのんびり風景を見ながら飯を食っていると宴会をやっている組の一人がお椀を差し出してこういった。
「急ぎでなかったら食べていきませんか。」
材料を予め用意してきたようでカセットコンロには大鍋にキムチ鍋が作られていた。有り難くお呼ばれすることにした。酒も勧められたが車なので遠慮する。日当たりが良いとはいえ、山頂での思わぬご馳走に非常に嬉しかった。聞けば天候にかかわらず山に登る山の会の体質が合わず、同じ会社の人達で山好きで仲間のいなかった人がそれぞれに誘い合いグループを作ったらしい。連れてきた小学校1年生の子供は大喜びであった。



 腹もいっぱいになったので下山開始。往路を戻るわけである。流石に奥多摩らしい急斜面、1時間ほどで下山となった。川井までの林道をジムニーで流しているとザックを背負ったおじさんが歩いていた。声をかけピックアップ。この先のバス停で時間がかなりあるため川井の駅まで乗せて貰えれば有り難いとのこと。色々山の話で盛り上がったため私の途次となるおじさんの家の最寄りとなる東青梅まで送ることにした。

おじさんが言うには年間50以上のプランをこなす山の会に籍を置いているそうで、日本中の山をかなり登ったと言うことであった。しかし、笑えたのは集団意識が強いため台風でも来ない限り山行が中止になることはなく、そのため登った割には景色が見れないことも多々あったとのことであった。その気があるなら山の会にどうかとスカウトされたが、景色が見えない山行は修行となるため行わない旨を伝えると、この歳になるとそれが正解だと思うし、気のあった仲間がいればそれが一番楽だと言っていた。

確かに技術的な面は単独では限界がある。一長一短であろうが、気のあう仲間がいればそれがベストであろう。

我がグループの今年の山行は残念ながらまだ話が出ていない(笑)

棒ノ嶺(棒ノ折山)・969m

2007-02-04 21:30:38 | 登山・アウトドア
3日(土)は完全に自由であった。普通に起きて朝飯を済ませ家の前に出ると雪を被った富士山がズドンと見えた。映画でも観てのんびりしようかという気が一気に失せた。家族を送り出した後、地図を広げて考える。往復4~5時間行程山ならまだ充分に行ってこれる時間である。とはいえ昨年の11月に行った以来山はご無沙汰である。ろくにトレーニングもしていないため足慣らし程度の山を考える。

決めたのは奥多摩山塊東端にある『棒ノ嶺』。西武鉄道が選定した遊名山30のなかで最も標高差がある山である。今回はこの山を南側のJR奥多摩線川井駅側から登ることにした。

途中食料を買い出し、川井の登山口に着いたのは10:00。ジムニーから装備を取り出し登山開始は10:15となった。奥茶屋のキャンプ場に架かる橋を渡り、多摩川の支流となる権次入沢沿いに斜面を進む。登山道横には山葵(わさび)田がいくつも連なりそれを眺めながらとなった。800m程進みと小さな祠がありそこで川と離れ、奥多摩らしい急斜面となった。とはいえ、周りは植林された杉の森でこれが頂上直下まで続くことになった。殆ど見晴らしはないが冬晴れの下歩いていて非常に気持ちが良かった。時計の高度計を見ると880mもう少しで頂上であるが斜面は傾斜を更に増した。その最後の傾斜を登り切ると突然広い空間へ出た。11:40そこが山頂であった。


【下写真中央左奥の白い部分が男体山・日光白根山】

頂上からの眺めは新宿副都心、また我が家の目印となるグッドウィル(西武)ドームまた奥武蔵の山々その向こうには雪を被った男体山・日光白根山・上州武尊山・谷川岳が望めた。

穏やかな日差しの下、登山客は数名いて中には宴会を始めているグループもあった。遅ればせながら今年初めてのハイキングとなったわけである。

2007-02-01 21:49:32 | Weblog
元服姿の新郎、十二単をまとった新婦、御色直し後はゴンドラを使っての新郎新婦再入場。80年代に一時そんな結婚披露宴が行われた時期があったらしいがバブル前には消え失せ、流石に21世紀となる現在においてはそんなもの自体記憶の彼方に忘れ去っていたものであった。

先日、友人の結婚式に招かれた。新幹線も通っていない首都圏の地方都市、行くだけで3時間ほどかかってしまった。快晴の下の教会式。しかし、列席者は100人を超え、その圧倒的な人の数に以前記したような教会式の違和感は全くなかった。

続く披露宴会場に案内されて驚いた。200人を超えるホテルの広間では式が始まらないというのに既に酒や料理が振る舞われ、中には出来上がっている招待客さえいた。新婦側の招待客である友人は私を含めたった4人。全員顔見知りではあるがどうもこの自分たちの置かれた場違いの雰囲気に何とも落ち着かず周りを眺める始末であった。改めて座席表を見直すと高砂の前の主賓席には地方議員をはじめとし、最高位には大臣補佐級の政治家までいた。

思えば、招待状も新郎新婦ではなく両方の親の名前であった。新婦の親父は地方行政の議員。新郎の方は地方の自営業者。本人達とは殆ど関係のないところでのお互いの家同士の体面の披露宴と言うわけだったのだろう。

しかし、式自体は客観的に見ればまるで映画『男はつらいよ』の一場面ずつを切り出してみているようである意味楽しいものであった。

元服姿の新郎、十二単をまとった新婦の厳かな入場の後、主賓格の挨拶・乾杯と続きケーキカット。その後、文楽姿の舞い。新郎新婦中座後も意味不明のカラオケ付の挨拶と進んだ。その間、高砂の前ではひたすら名刺交換が繰り返されていた。ドライアイスに包まれたゴンドラによる再入場後はやはり政治家や会社関係の挨拶が繰り返された。特に政治家の中には4年に一度の選挙のお願いや現在の社会問題等の低いレベルでの演説も混じっていた。しかし順を追う毎に登場する輩の格も下がりだした。どうやら来賓は何らかの形で名前を呼ばれ前に引きずり出されるという趣旨だったようだ。我々もメインキャンドル点火前のサブキャンドルへ明かりを灯すことを頼まれた。その後も、色々な方々が入れ替わり様々なことをやっていた。終盤近くには地元の無形文化財の演技さらには地元青年団によるウクレレ演奏まで始まった。後者の曲は『ユウゾウ・カヤマ』の『お嫁においで』というこれまたコテコテの選曲であった。


【わかりにくいがゴンドラによる入場】

こんな様子で、宴は続いた。司会者の「それでは締めの挨拶を頂戴致します...。」の言葉を聞いたときはほっとした物のその次の台詞に驚いた。「...第一の締めは...。」
この後に相変わらず良くわからない親父共の挨拶があり、手締め、さらに第二の締め、第三の締めと続いて、新婦、新郎その各親の挨拶となり延々4時間半の宴会は終了となった。

その後、我々4人は二次会へと招待されたが、その席で合流した他の仲間達とのいわゆる普通の飲み会に新郎新婦もほっとした様子で楽しんでいた。

家と家との体面をかけたこの宴、ある意味日本の伝統的な披露宴の正しい形なのかも知れない...。しみじみそう感じさせる祝い事の席であった。