Natural Mystic ~ナチュラルミスティック~

There's a natural mystic blowing through the air

GROOVE LINE

2007-05-27 23:57:02 | Weblog
帰宅すると家のポストに大きめの封筒が入っていた。封筒にはJ-WAVE 81・3FMのロゴが印刷されており、裏面の発信部署にはGLと書かれ中には『他力本願』J-WAVEとプリントされたTシャツが入っていた。

自分では全く気付いていなかったが、どうもFMジャパン(J-WAVE)のウィークデイ夕方の番組であるGLOOVE LINEに投稿したメールが番組内で読まれたらしい。今まで読まれたことは何度かあったが物を貰ったのは久々である。数ヶ月に一度、プレゼント大放出をするのだが、そのときはネタを送る人々が殺到するため読まれるのは至難の技らしい。



しかし、私が送ったネタが一体いつ読まれたのか、またどのネタだったのかついぞ見当が付かない。同封されたコピーを繰り返したと思われる文字が滲んだB5の紙には、

おめでとうございます!!この度は、J-WAVE「GROOVE LINE」にご参加頂き本当にありがとうございました!!大変遅くなりましたが、プレゼントを送らせて頂きます!!

と書かれていたのみである。

おそらく仕事を終えての帰り道、番組が終わる前に家に着いたため聞きそびれたのだろう。比較的高い割合で嫁も聞いているのだが同様に気付かなかったとのこと。

まあ、送るネタはおおよそこのブログで紹介しているようなどうでも良いことなのであるが...。

もしかしたら以前何度かアップした『歌詞に突っ込もう!』あるいは『音の輪廻転生』(偶然にもメロディーラインがそっくりなパクリとも取られない曲の紹介)なのかも知れない。

ちなみに私が以前投稿した『歌詞に突っ込もう』でナビゲーターの二人に伝説的な突っ込みと言わしめたネタが二つある。

中島みゆき”わかれうた”

途(みち)に倒れて だれかの名を
呼び続けたことが ありますか

....あるわけねぇだろ!

それと以前このブログでもちょっと書いたオフコースのネタ


まあ、いずれにしてもSサイズを欲しがる嫁に見せびらかして着ることにしよう(笑)

与論島 溺れる者

2007-05-26 22:06:33 | 
かなり汗をかいいていたためビーチで水浴びすることにする。ちび共は浮き輪に入りプカプカ浮くことに喜び、大はしゃぎであった。次男の浮き輪を押し沖のブイまで行って触って帰ってくるとヤツはその事実に感動したらしく、今度は自分でプカプカ浮いて2mほど離れた嫁のところへ行こうと喜んでいた。長男に付きそう嫁に次男が向かっていることを伝えようとしたときである。次男は思わず前にのめり、海面に顔をつけた。次の瞬間、呼吸が出来ないため慌てて起きあがろうとするが、足つきが悪いためかまたすぐに前にのめってしまう。プハーップハーッと数回もがくヤツに嫁が近づくと嫁の脚につかまったヤツはホッとしたのか泣き出した。一通りなだめて落ち着かせるとヤツは、
「....楽しいことでも、危ないことも、あるんだねぇ~!!」
と語った。思わず吹き出してしまったが次男はこの瞬間、人生においてかなり重要な事を学んだのかも知れない。

その後も海で喜んで遊んでいたものの、ヤツにとってはそれなりの衝撃的な出来事であったらしく砂浜へ上がると一昨日のように裸で転がって遊ぼうと気遣う長男の誘いを断っていた。

コテージの戻り体を洗うと、遊び疲れたのかチビどもはすぐに昼寝に陥った。その後、ちび共の目覚めを待って三度、夕飯の買い出しに出かける。その日は茶花のお祭りであるとのことでメインストリートは歩行者天国であった。

お祭り自体は珍しい事はなかったが、商店街や観光組合、青年団等が競う綱引きはかなり盛り上がっていた。また地元の子供達が舞うエイサーという沖縄の踊りが人目を引いていた。鹿児島とはいえやはり琉球文化が色濃いのが良くわかる。


【綱引き・エイサー】

さて、この後はホテルに戻り、翌日暖かい雨の中、那覇経由で帰ってくるだけでそれほどのネタはない。感じることであるが子連れだとかなり制限されるため昔のように地元の見知らぬ人の家に泊まり込んだり、夜遅くに酒場のライブを見に行ったりという楽しみは暫く出来そうにない。どちらかといえば子供が喜ぶ旅という風になっている。

そこで疑問に思ったがヤツらはそれで楽しかったのか...。

連休最終日お疲れ休みとした翌日の朝それは良くわかることとなった。
いつものように目覚めるとヤツらは声をそろえてこう言った。
「保育園行かないの~!!」
「飛行機乗る~!!」
「海行くの~!!」
「ちゃりちゃり(自転車)乗るの~!!」
色々物事が分かって来たちび共にはたった3泊とはいえ母親と父親と揃って知っている人がいない土地へ旅に出かけたのは強烈なインパクトであったようだ。

また、夏にも嫁のストレス発散も兼ねてプランを考えねば...。

与論島、確かに楽しい島であったがどうも子連れの旅を記述すると親バカ日誌になってしまいがちで調子が出ない。まあ、今回のこのシリーズはこの辺で終わりにしたい(笑)

与論島 土産物

2007-05-25 21:01:34 | 
食後、昨日に引き続き嫁の要望で窯を見に行く。自転車で走っていて気づいたが前を進む嫁の影が殆ど無い。こんな事は02年の8月末に行った波照間島以来である。波照間までは単純700kmほど離れているとはいえ、かなり緯度の低い地域に来ていることが実感出来た。ちび共はこの強い日差しの中、それぞれの後部座席で昼寝に陥っていた。

島の中心部を横切るサトウキビ畑が広がる緩い坂を上り『ゆんぬ・あーどぅる焼窯元』に着く。寝ていた長男はすぐに起きたが次男の起きる気配は全くない。直射日光を受けとてもそんな不安定な自転車の上で寝せておくわけにも行かないため嫁が抱っこして建物の中に入る。日陰に入れば湿度も低く快適である。応対してくれたおばさん好意で展示室で休ませて貰った。出されたお茶を飲みながら話をすると、
『ゆんぬ』とは与論の方言で与論のこと。『あーどぅる』は赤土の意味であるとのこと。また展示室には定番の茶碗・カップ・皿以外にも遊びで作ったと思われる旅行カバンや帽子等のオブジェもあった。また、陶芸体験もできるとのことであったが今回は見送った。



そんなモノを眺めていると次男が目覚めた。嫁はぐい呑みなどを購入して自宅へ送る手続をした。

窯元を出て更に坂を登る。窯元の女性の話だとピークに与論高校があるとのことであったが5分ほどで着いた。何故か中高一貫教育と当たり前のことが書かれた看板が出ていた。

そこから茶花までは一気に下りである。オリジナルのTシャツが売られている『ギャラリー海』という店があるとサザンクロスセンターで聞いたため寄ってみる。アジアン雑貨がメインであるが喫茶店もついでにやっているようであった。店の中央にターバンが売られていたため試しに巻いてみると似合いすぎると嫁は笑い転げていた。
「こんな格好のヤツって田舎の陶芸とか行くといるよな...。」
なんとなく私が発した言葉に店の女性は笑い転げていた。きっかけが出来たので色々話してみると、この店は自分のところでTシャツをデザインしプリントしているため、好きなように作品を作って売っていると語っていた。



当初は『与論島』とか島の方言をデザインした『尊々我無(とぉとぅがなし)※ありがとう』といったようなスタンダードな物を作っていたそうだが、子供が生まれてからは『困った父親です』『愚息』等のプリントを作るようになり好評を得ているそうだ。
適当に購入し退散。コテージに戻る。

与論島 ハンガーノック

2007-05-24 22:08:11 | 
サザンクロスセンターから島の東側へはなだらかな下りである。自転車で流すには気持ちが良い。

かなり汗をかいていたためちび共に茶を買って飲ませる。島には何故か100円ショップがあったのには驚いた。そのショップを右折し坂を下ると前浜海岸に出た。この辺りは非常に風が強くそこからの坂を登るのも大変だった。進む方向には風力発電の巨大風車もあった。常に風が強い地域なのであろう。

そのまま東進すると次の目的地赤崎鍾乳洞の案内が見えた。受付で入場料の500円×2名を払うと懐中電灯を渡され、こういわれた。
「一番奥まで行くと地上の明かりが見えます。そこまでですので引き返してきてください。そこまで行っても全部で15分はかかりません。」
入ってみると当然のようにひんやりと涼しく快適であった。足下が所々ぐしょぐしょではあったがちび共は自分たちの叫び声が反響するのが楽しいらしく歓声を上げ回っていた。


サザンクロスセンター 赤崎鍾乳洞 大金久海岸


更に西を目指す。昨日の大金久海岸辺りで昼を食おうと考えていた。しかし、そこまでの緩い坂の途中で私はハンガーノック(舎利バテ)に突然襲われた。腹が減りすぎて突然動けなくなってしまった。大金久海岸までは500m程であったが力が全然入らない。嫁にストップをかけ近くに見えたホテルで食事をしようと行ってみるも何故か立ち並ぶ2軒のホテルは営業していなかった。絶望しながらも県道に戻り、子供の乗った自転車を押して坂を進む。すると右手に自動販売機を発見。大慌てでカロリーが高いコーラを買って飲む。これで若干、体が戻った。そこから目的地までは長い下り坂だった。右手に現れた海の家で食事を取ることにした。



海の家でビールを飲み、定番のカレーを食うと体は完璧に元に戻った。この先に広がる海岸と沖合の百合ヶ浜は非常にきれいである。しかし、干潮時ではなかったためか百合ヶ浜は昨日よりずっと小さなモノであった。

与論島 日本最西端

2007-05-21 23:54:27 | 
3日目である。今日も相変わらずの大快晴で朝から暑い。適当に朝食を済ませ、島の残った名所を自転車で回ることにする。島で一番高い場所にある展望台であるサザンクロスセンターを目指す。標高94mとはいえ0m近くから子供を自転車に乗せて小さい坂の上り下りを繰り返しは二日酔いの体にはメチャメチャ苦しい。嫁も私も着く頃には汗だくであった。200円払って入ったセンターは島の文化・歴史等が展示で分かるようになっていたが島の展望とクーラーで涼しい以外あまり面白いことはなかった。快晴時は沖縄の北端・辺戸岬まで21kmという距離のため見晴らせるとのことであったが残念ながら確認出来なかった。ちなみに7年前の5月のときバイクで行った辺戸岬からも与論島は見えなかった。また、この島は名前の通り南十字星が見える日本の最南端とのこと。しかし、丁度沖縄本島の真上にその姿を現すため一番下側にある星が本当の島影に隠れて見えないとのことであった。


【サザンクロスセンターとそこからの沖縄方面】

センターの横には与論城址があり琴平神社・地主神社が奉られていた。気づけば神社横に宿泊しているホテルのバスが停まり団体がいた。ガイドは見知ったホテルの人であった。折角なので話を聞かせて貰うと与論島を含む奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日までアメリカ領であったとのことであった。その日までは日本最南端は十島村の横当島ということであろうか。

これで私の長年疑問に思っていた謎の一つが解明された。2002年のGW私は九州の離島をバイクで回っていた。長崎の五島列島・福江島に立ち寄った際、島の一番西の大瀬崎へ行った。生憎と霧のため何も見えなかったが、その晩、飯を食いに行った、三井楽の焼鳥屋のばーさんにこういわれた。
「東京の人にはあまり知られていないけど、この島は沖縄復帰前の日本最西端だったんだよ...。」

帰京後、その事実を調べたが、沖縄復帰前の最西端は最南端(有人)も同じでこの与論島だった。しかし、このガイドのおじさんの言うとおり考えれば沖縄ではなく奄美群島の本土復帰前は確かに長崎県の福江島が日本有人最西端となる。

※ 厳密に言えばその更に南西70kmに浮かぶ女島が最西端。ここは映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台の1つでもあり現在もその関係の人達が在住だそうである。一般人は上陸できない。

焼鳥屋のばーさんが沖縄と奄美群島を一緒くたに考えていたとすれば納得出来ることである。

ちなみにガイドのおじさんの生まれた日がこれに当たるらしくおじさんは自称キリストより偉い人物だそうだ。

与論島 百合ヶ浜

2007-05-20 21:50:17 | 
午後はホテルに申し込んでおいた大金久海岸と百合ヶ浜のツアーである。この百合が浜、干潮時だけにぽっかり波間に姿を現すモノらしく、小潮の日は浜がほんの少し頭を出す程度であるが、大潮のときはかなり広く浮かび上がるとのこと。この日訪れる我々は全くの偶然で運良く大潮であった。ホテルと正反対になる島の東側に位置する約2kmの白い砂浜とその沖合に浮かぶ百合ヶ浜に地元の観光組合が案内してくれるのである。

水着に着替えてホテル前に向かえに来たバスに乗り移動。参加者は十数名程度であった。約15分で島の反対側に着くからお笑いである。

バスを止めた林の向こうには南北約2kmにおよぶ白い砂浜の大金久海岸が広がりそのエメラルドブルーの海の向こうには浮かび上がった白い砂浜の百合ヶ浜が見えた。


【沖の白い部分が百合ヶ浜】

そこからグラスボートに乗り珊瑚の海を眺めながら百合ヶ浜へ向かった。このグラスボート、船の中央部に長方形の穴がぽっかり空いており、その底部はガラス張りである。そこから海中の様子が眺められるというモノである。色黒の渋い船長の案内でダイビングの名所を回りながらの移動である。船底に見えるカラフルな魚にちび共は大喜びであった。


【百合ヶ浜上陸】

20分ほどの周遊の後、上陸となった。この砂浜、水没している部分の水位も10mほどに渡り25cmほど敷かなくちび共は浮き輪には入らず手に持ち大はしゃぎであった。ヤツらにとって実際に水に浮かんで遊ぶのはこれが初めてのことであった。昨年の屋久島で知った波の恐怖感はすっかり消えてしまったようである。



ホテルへ戻り洗濯をする。その間私は中庭でビールを飲みまったりしていた。嫁も持参した本を読んでいた。ちび共は芝生の上を転げ回る遊びに夢中であった。子供が出来て以来このようなのんびりした時間は嫁にとって初めてであり、喜んでいた。

夕刻、食材の買い出しに行こうとするが、折角なので地のモノを食うことにし、飲み屋に行くことにした。ガイドブックでお奨めを探し電話をする。早い時間であったため個室が取れ、タクシーで向かう。

飲み屋で聞くには与論は沖縄文化の影響が強く、特有のモノはないとの事であった。メニューは確かに沖縄料理中心である。適当に近海で取れた魚とチャンプル等を頼みオリオンビールで流し込む。4杯程飲むとオリオンも飽きて来たので島の黒糖焼酎を頼む。



7年前、奄美へ行った際黒糖焼酎を飲んだが、どれも黒砂糖っぽい臭いがきつくあまり得意ではなかった。しかし、この与論の唯一の酒造『有泉』は香りも穏やかでべらぼうに美味かった。一口で気に入り、帰り際ホテルのコンビニで買い込み、その晩は疲れのためかあっさり寝てしまったちび共と嫁を尻目にまったりモードで飲んでいた。

与論島 自転車

2007-05-17 22:51:37 | 
快晴である。朝食後島を回ろうとするも自動車では高すぎるため、子供用の椅子が着いた格安の自転車を2日間手配しておいた。持参した子供用のヘルメットを被せ島を回り始める。


詳しくは上記地図をクリック

ホテル 寺崎海岸近辺 フンチュ崎の遊歩道

しかし、これが思った以上の重労働であった。山も川もない島とはいえ、なだらかな丘、海岸線には特有のアップダウンが続く。茶花の街を過ぎると県道はひたすら上り下りを繰り返す。ちび共は喜んでいるが嫁も私も汗だくである。坂を登っていると追い越していった地元の原付のおじさんが声をかけてくれた。

「島の裏側に行くならもっと外側の海沿い行くと良いよ。県道は景色は面白いけどアップダウンが続くからきついよ...。」

親切なおじさんの言うとおり海側に出ると農道が延びサトウキビ畑が広がる。また所々珊瑚礁の海が見えて非常に気持ちが良い。



【寺崎海岸近辺の珊瑚礁】

昼までにはホテルに戻らなくてはならない。海岸線沿いに時計回りで2/3程回った時点で内側へ進む。嫁が島の陶器を製造する窯を見たいと言ったためである。緩やかな丘を登っては下りの繰り返しとなる。高台から見える海は穏やかである。またもや汗だくになりながらも辿り着いた窯元は年中無休の案内があったにもかかわらず、当面の間休業致しますの張り紙が出ていた。残念がる嫁を尻目に近くの診療所の自販機で清涼飲料水をがぶ飲みする。するとそのそばを子連れの女性が通りかかった。窯元の主は諸事情でいないらしく閉鎖されているので島のもう一つの窯元を教えてくれた。

この女性、以前、島で働いていた東京の人らしく、久々に島へ遊びに来ていたらしい。島の名所をあちこち教えてくれた。高台にあるサザンクロスセンターと百合が浜はメジャーであるが絶対にお奨めとのことであった。丁度後者は、午後に行く予定で今日が大潮に当たるため我々の運はかなり良いとのことであった。

時計は良い時間であった戻り脚で茶花を抜け与論港そばのフンチュ崎の遊歩道に行く。断崖絶壁の遊歩道から眺める海と空はきれいであった。


【フンチュ崎の遊歩道】

その後、昨夕みた車『青い珊瑚礁』の店が近くにあるため名物の『もずくそば』を食いに立ち寄り食後ホテルへ戻る。

与論島 買い出し

2007-05-16 21:48:32 | 
おじさんのワンボックスの中には後部座席はなく、荷台部分には不思議なことに熱帯植物の葉が敷かれていた。私は助手席に乗り込み、嫁と子供達は荷台に載った。



道すがら話をしてみると、この人物は沖縄出身で廃品回収業をこの島で営んでいるらしい。この島は物価が高いので早く沖縄本島に帰りたい。この島はドラゴンフルーツの産地であること。横浜に子供がいること。先ほどの自宅は自称『竜宮城』であり、よくあちこちから旅をする人が泊まっていくとのこと。機会があればいつでも遊びに来て良い等々のことを話してくれた。

おじさんは島のスーパーであるAコープの駐車場に車を止めてこういった。
「今度来たときにでも是非寄って酒でも飲んで行きな。明後日・明明後日はこの辺りで島のお祭りだから楽しんで行くと良いよ...。」

お礼の後、我々は繁華街を散策する。この茶花という地区が島のメインらしい。殆どの品物はここで手にはいるようだ。適当にブラブラして土産物屋を冷やかす。どの店も親切でちび共に声をかけてくれ、中には展示してある太鼓を叩かせて遊ばせてくれる店もあった。

一通り回った後、Aコープで買い物をする。地方のスーパーを回るのは珍しい食材が多く、ある意味楽しい。この日は刺身を購入。帰りはタクシー利用となった。



コテージでの夕食はシビというマグロ、トゥカキンという名の磯マグロ、島豆腐を中心とした地の物とオリオンビールといった豪華な代物であった。

与論島 銭金おじさん

2007-05-15 22:05:32 | 
とりあえず夕食をどうにかしなければならない。しかし、ホテルの食事は高い上にたいした物は期待出来ないため散歩がてら街まで歩くことにした。

「門を出て左に進むと点滅信号がありますからそこを左です。」
フロントの案内通りに進むがいくら歩いても、交差点はおろか信号など見つからない。ときより地元ナンバーの車は通るがタクシーさえも見かけない田舎道である。笑ってしまったのが我々を追い抜いていったワンボックスの扉にはでかでかと『青い珊瑚礁』という文字が描かれていた。大昔のアイドル歌手のヒット曲と同じ名前であるがこれを店の名前に用いるとは何とも大胆である。後で知ったが地元の名物『もずくそば』で有名な店らしい。点滅信号さえ見あたらないので確認のため島の地図を広げる。道は間違っていないようだが街である茶花までは1.5km程。行きは良くても帰りは疲れ切ったちび共には気の毒である。そんなことを考えながら歩を進めると右手におどろおどろしいピンクの半壊したような建物が目に入る。ふと見たことがあるような気がしたがこの島に上陸するのは初めてのことである。勘違いとだろうとその前を通り過ぎるときのこと。庭にいた2人の男性のうちの一人が塀越しに話しかけてきた。彼は頭にコカの葉の模様をあしらったキャップを被っていた。確かに私はこの人物を知っている。しかし、何処であったから皆目見当が付かなかった。


【自称:竜宮城とその建築主】

「どこから来なさった。」
この人物の声を聞いてはっきり分かった。このおじさん、貧乏生活を紹介するテレビ番組『銭形金太郎』に2ヶ月ほど前に出ていた人だった。
「東京から来たんですよ。これから夕飯のおかずを買いに行くんですが...。」
と伝えるとこのおじさんは、
「いや~...。遠いところから遥々いらっしゃい~。」
といってにこやかに近寄ってきた。するともう一人の人物が、
「このおじさんはこないだテレビに出たんだよ...。」
と語った。私が、
「『銭金』に出てましたよね...。」
と言うとそのこの銭金おじさんは、
「あの人達(銭金撮影スタッフ)も東京から来たんだよ...。あんた方も今度良かったら寄って酒でも飲んで行きな...。」
といってくれた。
お礼を言って立ち去ろうとすると銭金おじさんは
「ほらよ!」
とって突然、私の胸元に何かを投げつけた。訳も分からずキャッチし掌を見ると500円硬貨が一枚。更にもう一枚間髪入れずに投げられた。
「ボウズに何か買ってやれ!」
銭金おじさんの気遣いであった。すると、
「これから犬の餌を買いに行くから車に乗っていくと良いよ。」
そういい、我々の前に軽のワンボックスをまわしてくれた。

与論島 プライベートビーチ

2007-05-14 21:55:23 | 
飛行場には宿泊先のバスが迎えに来ていた。5分ほどで着いたホテルは白いコテージが建ち並ぶリゾートであった。プールは勿論、プライベートビーチまで着いていた。これだけでも宿泊は尻込みするが、実はちょっとしたツテでこの施設の素泊まり料金が破格で使えるわけがあったのだ。

自慢じゃないが、私は勿論嫁もリゾート地という場所は日本各地行っているがリゾート施設への宿泊というモノは全くと言っていいほど無い。せいぜい近くにあるキャンプ場にテントを張るのが関の山である。大方の予想は付いていたがある程度覚悟して遅い昼食を施設内で取ることにした。お子様ランチ×2・カレー・サンドイッチ・生中ジョッキ×2で樋口一葉は去っていった。これをきっかけに施設内での食事は極力しないようにしたのであった。

食後コテージで荷物を整理し、施設内を散策することにする。プールサイドのような素材で出来た施設内の路はサンダル履きで出たはいいが何となく裸足になってみると気持ちが良い。ちび共もまねて喜んで歩いていた。辺りにはダイビング時に乗る船やテニスコート、貸し自転車、レンタカー、コンビニ、レストラン、バーベキュー施設等、様々な設備が整っていた。


程なく、プライベートビーチ着。平日と言うこともあってか殆ど人がいない。昨年の屋久島の一件で海を怖がっていたちび共であったが、意外な事に波が穏やかなビーチに着くと自分たちのズボンを両手で捲り上げ波打ち際で遊びだした。服が濡れるのも癪なので全て脱がせ、パンツ一枚にするとヤツらはそれさえも脱ぎ、砂浜で転がり初めしばらくの間大はしゃぎであった。これではヌーディストビーチである。

与論島 RAC

2007-05-10 22:54:25 | 
与論島へのアクセスは空の便だと鹿児島経由でJAC乗り換えと那覇経由でRAC便がある。何故か鹿児島経由の方が料金が高いので後者の使用となった。

羽田は連休の谷間ということもあってかそれほど混雑はしていなかった。朝食後ゆっくりと搭乗出来た。9:00の便は30分遅れのフライトとなったが座席が真ん中であったため膝の上のちび共は興奮することもなく、また朝が早かったせいもありあっさり寝てくれた。

那覇にて問題の琉球エアコミューターに乗り換えとなった。何故問題かというとチケットを予約する際受けた注意があったからだ。客室に棚がないため荷物は一人一つまで。更に手荷物に関しても積載の余裕が無いため極力事前にお送り下さいとの事であった。

我々は着替え等は29日に事前に送り、当日は30L程度のザックを2つ羽田の手荷物に預けスルーで与論で受け取ることにしていた。乗り換え便を見た嫁はこういった。
「これって与那国に行ったとき乗ったヤツだよね。」



笑ってしまった。5年前与那国に行った際に乗ったタイプの飛行機であった。確かに荷物は詰めない程小さな物である。更に笑えるのはこの飛行機には対面の座席があることだ。30分の後、快晴の与論島に到着となった。

与論島

2007-05-06 23:04:29 | 
小学校高学年のときの事である。使っていた国語の参考書に穏やかな白い砂浜と青い空の写真が載っていた。撮影場所は与論島との記述があり、おそらく私がこの島の名前を初めて知ったのはこのときのことだろうと思う。

7年前の5月22日、私は嫁と那覇から鹿児島行きのフェリーに乗船していた。前日、沖縄本島を自分たちのバイクで走り、その日は那覇以北の南西諸島に立ち寄りながら奄美大島で下船予定であった。



しかし、梅雨入り直後のこの季節、沖縄本島の本部港を出た後天候は強風と高波で荒れ、上陸できなくても遠巻きに見るのを楽しみにしていた与論島の海岸は荒波のため穏やかな風景ではなかった。結局3度の試みにもかかわらず船は接岸できなかった。その後、沖永良部島へ着く頃には天気も回復し徳之島を経由し奄美大島での3日間は晴れっぱなしだったのである。

このGW、久々に南西諸島に行ってみようということになり計画を練りだしたのは3月上旬のことであった。しかし、この地域、かなりガイドブックで探したが詳しく掲載している物は全くなかった。殆どが鹿児島の離島という内容で屋久島・種子島・奄美大島がメイン。それ以外の島は多くて5ページ程度。与論に至ってはせいぜい見開き2ページ程度のものが殆どだった。また沖縄・奄美をまとめたものでも同様でネットで探してもあまり情報は得られなかった。

しかし飛行機の割引をおさえ更に宿泊施設を格安で見つけた。

そして5月2日自宅を車で5:45発、新青梅街道・環八・首都高経由で羽田へと向かったのである。

帰還

2007-05-05 23:01:08 | 
さてさて、鹿児島県大島郡与論町から無事帰還しました。

羽田に置きっぱなしだった車での帰り道、FMジャパン(J-WAVE)の番組 METROPOLIS ACADEMY でのこどもの日特集で言っていました。

3歳児の1日の長さは大人の5日分に等しい...。

我が家のチビどもは4日間の出来事が20日間に感じられたのでしょうか?

詳細は追って...。


【首都高から見る夕暮れの東京タワー】

でも20日分のネタはネーなぁ...。