いつからだろう、こんなにもマイナス思考になったのは。
子供時代は、アルバムを見ても常に笑ってファインダーを覗いていた。
天然系で、まったりして素直だったと我ながら思う。
楽観主義で、なんとかなる、ケセラセラとずっと言っていた。
年を取ったからか、
社会人になったからか、
やっぱり仕事の影響か。
とにかくまず、最悪のことを考えるようになった。
ほとんどは重い鎧兜を着ているような生活で、
心地よい音楽に身を任せている瞬間、数時間とか、
ほんと気の知れた人と過ごす時間、
それもそんな多くなくて、
最近その少ない時間も失いつつあるけれど、
いくら空が晴れていても
決して上を見ることなく、
常に下を向いて、曇り空だったのか、快晴だったのか
そんなものには気づかないで
そういえば、なんてふと思って
一週間ぶりに空を見上げる生活。
そうか、空はいつも青かったんだな。
そんな感じで最近数年は過ぎている。
そして
人生もとうに折り返しを過ぎたからか、
これも職業柄か、
命なんて言うのはいつ終りが来るかわからない。
死ななくても、いつ「できていたこと」が「できなくなる」か
なんてわからない。
いつでも、自分にやってくる。
一生懸命しごとをしてきて、
気が付いたら、、、なんていう人を何人も見てきた。
自分より若い人が亡くなっていくのも見てきた。
まったくの同期で亡くなった人は幸い今のところいない。
すこし救いかも。大学時代に自殺した人は二人もいたけど。
眠るような死、突然の死、しんどいと言いながらの死。
人は死ぬときに、「ああ、自分は死ぬのか」とは感じるのか。
よくやく最近になって
「最後の話をしてあげてください」みたいなことを言った。
いいのか、わるいのか。
なんだか、それまでの家族の時間に踏み入る感じがしたから
つぎはやっぱり言わないと思う。
普段から、感謝や思いは伝えておいた方がいい。
そして、命に向き合うのは自分しかいないのだから。
いままでこうやって生きてこれたことに感謝する。
先はどこまであるかわからないけど。
一応、プランはある。
もう治らない病気になったら、仕事を即やめて
毎日空を見あげる生活をしたいですね。
そして、残された時間を(いつもは与えられた時間というけど)
死を意識するけど、
ある意味では死から解放されて生きたい。
60ぐらいになって、両親もいなかったら、
どこかの雪山に行ってひっそり眠るように…っていうのがいまのところ一番かな。
死を自分でコントロールできるっていうのは、幸せな生き方の一つだと真剣に思う。
だいたい、「死」や「死ぬ前のある期間」というのは不条理だから。
親が生きていて、自分も幸い病気などなってなくて生きていたら、
それは育ててくれたので、最後までいてあげたいので
60を超えても自分も頑張っていきたいですけど。
…自分が60を超えても生きているっていうのが想像できないんですね、正直。
なので、もう人生はとうに折り返しているわけで。
病気になって死ぬか、運よく病気で死ななかったとして、誤嚥などで食べられなくなるか。
食べれたとしても、認知症で訳が分からなくなるとか。
頑張って働いてもそれで結局、貯金で老人施設に入るとか。
「死ぬ少し前」って、実際はそんな感じ。
元気で、朝、家族が見にいったら、なくなってたなんて、よっぽど非現実的です。
そんなだから、正直、結婚とか育児っていうのも、現実的になにもイメージできなくなりましたね。
少し前は、若い家族とか見ると、いいなって思ってまいたけどね。
まあ、それはそれで個人的には良しとしています。
成長したのか、逃避しているのか、さっぱりわかりませんけど、気持ちはそんな気持ち。
まあ、この世のすべては、死、収束へ向かって生きているわけで。
自分、周りの人、電車に乗っている他人、小さな生物、地球、太陽さえも。…宇宙はどうなんだろ?
死生観としては、死んだら物質に戻る、原子、分子レベルに戻るという発想で。
宗教も否定しないし、部分的には仏教なども思想にはありますが。
昔の人は、偉いですよね。。。
そんなことばっかり考えていると本当に、死にたくなってくるので、
まあ貯金は使い果たさないと死にませんけど。
交通事故などの突然死は、、、どうしようもないけど。
せっかく一応、生きているので、
少しは前向きに、
無駄なこともしてもいいかもしれませんね。
(ずっと言ってる源氏物語読破とか音楽つくりとか)
死を意識しつつも、前向きに。
追伸:
ほとんどの人は、なんで病気になるんですか?ってお話になりますけど
今日、たぶん、はじめて、「年を取ると病気になっていくんですね」って
話し方から、それを予想して生きてこられた印象を持った方がいました。