続き:愛馬6頭(ウイッシュ/1勝、トリニティー/未出走、ホルダー/1勝、ハリケーン/未出走、オリンピア/未出走、イノセント/未出走)
歓喜と悲哀の交差した2002年が終わり、2003年がスタートしました。さすがにソウルフルを失ったショックが大きく、数ヶ月は本当に記憶が定かではありません。しかも、この2003年は一口人生の中でも愛馬が本当に走らなかった年でもありました。だって0勝で終わりましたから。ということで、駆け足で振り返ることにしましょう。
年明け早々にホルダーが出走するも全く振るいません。振るわないというか本当に大敗の連続。復活の兆しすら数ヶ月ありませんでした。ウイッシュは骨折放牧中。ハリケーンは屈腱炎発症で鹿児島暮らし。しかし、ソウルフルを失ったことで、一口に対する感情も冷めつつあったことで、あまり気にすることもなかったように記憶しています。
3月に入り少し気持ち的にも余裕が出てきて、まずは追加出資をすることに決めました。募集当時からその馬体と血統に魅力を感じていた馬がいたのです。馬体はコンパクトにまとまっていて、血統は父シャンハイと渋い。兄弟も目立った産駒はいないものの、勝ち上がり率は高い馬でした。予定厩舎は栗東浜田厩舎。色々と物議をかもし出す厩舎ではありましたが、私的には数を使ってくれるというイメージがあり、むしろいい評価でした。後のシルクエディフィスです。
その3月にはトリニティーが衝撃的デビューを果たします(トリニティーデビューについては「愛馬物語15」に書いてしまっていますので、割愛します。)そして、ホルダーにも復活の兆しが見えたのもこの頃です。田島騎手でデビュー勝ちしたものの、その後大敗続き。逃げてバテるレースが続いていました。そして5戦目に鞍上を安藤光に変えて臨んだレースでは結果7着も後方から追い込みをみせます。そして安藤光から安藤勝に乗り変わったレースでは後方からの末脚が炸裂し、後にオープン馬で白山大賞典を勝つビックドンの3着と健闘。これでこのクラスの目処が立ちました。そして期待の次走には吉田稔を迎え万全の体勢でいどみました。しかし、なんということでしょう。勝負どころで前の馬が故障発生。思いっきり、ブレーキをかけたものだから、末脚炸裂はなりませんでした。しかも、ホルダー自身が怪我をするアクシデントに見舞われ、放牧へ。そして誰もいない春を過ごすことになります。
時が過ぎ、6月にはトリニティーの2戦目があり(こちらも「愛馬物語15」に記載のため割愛)、7月には休養のウイッシュが帰ってきました。復帰戦こそ、それなりに見せ場はあったのですが、もう昔のウイッシュとは違っていました。やはり脚を気にしていたのか、2桁着順が続きます。陣営も芝、ダート、短距離、中距離と一貫していない使い方。これも敗因ではないかと思いました。
トリニティーは奇跡の3着の後、7着、4着と今1歩の成績が続きました。未勝利は勝てる能力はあったのですが、4着の後骨折が判明。あえなく引退となってしましました。個人的には続戦してもらいたかった。500万も勝てると思っていましたからね。
ハリケーンは漸くデビューに漕ぎ着け、一瞬能力の片鱗は見せるも11着。しかも屈腱炎発症で引退。トリニティー、ハリケーンと続けざまに引退となった夏でした。
そんな中、追加出資したエディフィスが9月にデビューすることが決定します。私の愛馬の中では最も早いデビューです。小倉芝1200でデビュー、いきなりは厳しいと見ていましたが、なんとタイムオーバーで1ヶ月の停止を喰らいます。先行き不安な船出となりました。
さて、この年シルク02産募集が始まり、毎日のようにパンフを見ていました。いの一番に出資を決めた馬がいます。父マーベラスサンデー母ハイラス(シャーリーハイツ)の牝馬です。なんと500万円募集。元々、母父であるシャーリーハイツが好きで(というかロゼカラーが好きだったんですけどね)、狙っていた繁殖でもあったんです。その前にも母の産駒が募集になっていたんですけど、父ラムタラで5000万だったでしょうか?その時はあまりの高さに見送ったんですが、今回は10分の1ですからね。出資こそ実行しませんでしたが、まず1頭です。後のシルクラヴリーです。
他にも数頭ピックアップしており、3頭くらいは出資するつもりでした。
10月に入り、友人らと北海道に行くことになりました。友人といっても全員一口出資者で、社台、ロード、タイキ、エプソムなどなど、様々なクラブに入会している連中です。それぞれの出資馬や候補馬を見に行ったり、各種馬場巡りをしたりと楽しい2泊3日となりました。静内の居酒屋では当時のアロースタッド場長と一緒になり、楽しいお酒を飲むこともできました。ご好意で次の日の朝早くからスタッドの種牡馬を見学させてくれたりもしましたっけ。今頃ですが、ありがとうございました。
そんな中、私は出資候補の1頭であった牝馬を見学しにヤナガワ牧場へと向かいました。ヤナガワ牧場の印象は「広大でアップダウンのあるいい牧場」というものでした。アップダウンがあることで、自然と運動になるという説明を場長に教えていただきました。「なるほど。」と関心した記憶があります。そして・・・目的の馬がやってきます。鹿毛でなにも目印がない地味な馬でしたが、その迫力、オーラというものは凄かった。一緒にいた友人らも全員が誉めてくれましたね。生で見た瞬間出資を決意しました。「これは走る!」と。
父アフリート、母ノーブルプライド(カーリアン)。後のシルクチャプターです。今まで生で見た育成馬の中で、後にも先にも一番良かったです。
そんな旅行の中で最も感嘆したのは、「ビックレッドファーム」でした。広大な敷地(ヤナガワのそれとは比較にならない)に坂路が設置してあり、放牧地のアップダウンもヤナガワとは次元が違いました。「そりゃ、マイネルの馬が走るよ。」って感じで納得。その瞬間、近い将来マイネルに入会しよう。と決意したほどです。もちろん本気でしたよ。だって必死に500円貯金しましたもん(結構溜まってたんですよ。1口いけるくらいね。でもなぜか指にはめる輪っかに変わってしまい、夢達成ならずw)
一口成績のほうは相変わらず冴えません。初戦TOだったエディフィスも全く振るわず、見せ場もないレースが続きました。4戦して見せ場の無いエディフィス君。もう無理なのか・・・と思い始めていた12月。舞台は中京でした。成績から殿人気は止むを得ません。しかし、ついに彼のスイッチが入ったのです。なんと後にスプリンターズSで4着と健闘することになるマルカキセキの2着に来たのです。私は常々競走馬は5戦目までに見せ場のなかった馬は勝ち上がることが出来ないといっています。彼はその5戦目に十分な見せ場をつくり、私を安堵させたのでした。
12月はホルダーも帰ってきました。当初鞍上はミルコデムーロを予定していました(ペリエだったかも?)。陣営の期待度が現れています。予定鞍上だけでこちらも期待。しかし、予定が狂い、鞍上が空白に。しかし、な、なんと決定したのは・・・ユ・タ・カ様。一口人生で始めて武豊にエスコートしてもらうことになったのです。もう舞い上がりまくり。でも、結果は13着惨敗。休養明けだったことを考えると仕方がないか・・・。次も乗ってくれるかな、なんて淡い期待はあっさり裏切られ、乗り代わり。豊様の忠告どおり、距離を短縮して望んだ復帰2戦目は殿負け。あちゃー、最後の最後で殿負けか・・・。この年はホルダーの殿負け(1月飛梅賞)で始まり、ホルダーの殿負けで終わった1年でした。トホホ・・・。
この年から、一口スタイルが変わりました。あまりイレ込まず、適度に距離を置き、愛馬の活躍に期待する。自分の出来ることは応援すること、それ以上もそれ以下もないんだ・・・と冷静に愛馬の動向を見るようになりました。もちろん、ソウルフルの出来事がそうさせたわけなんですけど、あんな思いは嫌ですからね(次、もし同じことが起こったとしても、ソウルフルの時ほど落胆しないようにね)。少し割り切って一口ライフを送ろうと決めた年でもありました。
一口成績的には0勝2着1回、3着2回、着外多数。殿負け・TOあり。と散々でしたが、総合的に見るとここからスタート!って感じで新鮮な出来事も多かったように思います。
続く:愛馬6頭(ウイッシュ/1勝、ホルダー/1勝、オリンピア/未出走、イノセント/未出走、エディフィス/未勝利、ラヴリー/未出走、チャプター/未出走)
歓喜と悲哀の交差した2002年が終わり、2003年がスタートしました。さすがにソウルフルを失ったショックが大きく、数ヶ月は本当に記憶が定かではありません。しかも、この2003年は一口人生の中でも愛馬が本当に走らなかった年でもありました。だって0勝で終わりましたから。ということで、駆け足で振り返ることにしましょう。
年明け早々にホルダーが出走するも全く振るいません。振るわないというか本当に大敗の連続。復活の兆しすら数ヶ月ありませんでした。ウイッシュは骨折放牧中。ハリケーンは屈腱炎発症で鹿児島暮らし。しかし、ソウルフルを失ったことで、一口に対する感情も冷めつつあったことで、あまり気にすることもなかったように記憶しています。
3月に入り少し気持ち的にも余裕が出てきて、まずは追加出資をすることに決めました。募集当時からその馬体と血統に魅力を感じていた馬がいたのです。馬体はコンパクトにまとまっていて、血統は父シャンハイと渋い。兄弟も目立った産駒はいないものの、勝ち上がり率は高い馬でした。予定厩舎は栗東浜田厩舎。色々と物議をかもし出す厩舎ではありましたが、私的には数を使ってくれるというイメージがあり、むしろいい評価でした。後のシルクエディフィスです。
その3月にはトリニティーが衝撃的デビューを果たします(トリニティーデビューについては「愛馬物語15」に書いてしまっていますので、割愛します。)そして、ホルダーにも復活の兆しが見えたのもこの頃です。田島騎手でデビュー勝ちしたものの、その後大敗続き。逃げてバテるレースが続いていました。そして5戦目に鞍上を安藤光に変えて臨んだレースでは結果7着も後方から追い込みをみせます。そして安藤光から安藤勝に乗り変わったレースでは後方からの末脚が炸裂し、後にオープン馬で白山大賞典を勝つビックドンの3着と健闘。これでこのクラスの目処が立ちました。そして期待の次走には吉田稔を迎え万全の体勢でいどみました。しかし、なんということでしょう。勝負どころで前の馬が故障発生。思いっきり、ブレーキをかけたものだから、末脚炸裂はなりませんでした。しかも、ホルダー自身が怪我をするアクシデントに見舞われ、放牧へ。そして誰もいない春を過ごすことになります。
時が過ぎ、6月にはトリニティーの2戦目があり(こちらも「愛馬物語15」に記載のため割愛)、7月には休養のウイッシュが帰ってきました。復帰戦こそ、それなりに見せ場はあったのですが、もう昔のウイッシュとは違っていました。やはり脚を気にしていたのか、2桁着順が続きます。陣営も芝、ダート、短距離、中距離と一貫していない使い方。これも敗因ではないかと思いました。
トリニティーは奇跡の3着の後、7着、4着と今1歩の成績が続きました。未勝利は勝てる能力はあったのですが、4着の後骨折が判明。あえなく引退となってしましました。個人的には続戦してもらいたかった。500万も勝てると思っていましたからね。
ハリケーンは漸くデビューに漕ぎ着け、一瞬能力の片鱗は見せるも11着。しかも屈腱炎発症で引退。トリニティー、ハリケーンと続けざまに引退となった夏でした。
そんな中、追加出資したエディフィスが9月にデビューすることが決定します。私の愛馬の中では最も早いデビューです。小倉芝1200でデビュー、いきなりは厳しいと見ていましたが、なんとタイムオーバーで1ヶ月の停止を喰らいます。先行き不安な船出となりました。
さて、この年シルク02産募集が始まり、毎日のようにパンフを見ていました。いの一番に出資を決めた馬がいます。父マーベラスサンデー母ハイラス(シャーリーハイツ)の牝馬です。なんと500万円募集。元々、母父であるシャーリーハイツが好きで(というかロゼカラーが好きだったんですけどね)、狙っていた繁殖でもあったんです。その前にも母の産駒が募集になっていたんですけど、父ラムタラで5000万だったでしょうか?その時はあまりの高さに見送ったんですが、今回は10分の1ですからね。出資こそ実行しませんでしたが、まず1頭です。後のシルクラヴリーです。
他にも数頭ピックアップしており、3頭くらいは出資するつもりでした。
10月に入り、友人らと北海道に行くことになりました。友人といっても全員一口出資者で、社台、ロード、タイキ、エプソムなどなど、様々なクラブに入会している連中です。それぞれの出資馬や候補馬を見に行ったり、各種馬場巡りをしたりと楽しい2泊3日となりました。静内の居酒屋では当時のアロースタッド場長と一緒になり、楽しいお酒を飲むこともできました。ご好意で次の日の朝早くからスタッドの種牡馬を見学させてくれたりもしましたっけ。今頃ですが、ありがとうございました。
そんな中、私は出資候補の1頭であった牝馬を見学しにヤナガワ牧場へと向かいました。ヤナガワ牧場の印象は「広大でアップダウンのあるいい牧場」というものでした。アップダウンがあることで、自然と運動になるという説明を場長に教えていただきました。「なるほど。」と関心した記憶があります。そして・・・目的の馬がやってきます。鹿毛でなにも目印がない地味な馬でしたが、その迫力、オーラというものは凄かった。一緒にいた友人らも全員が誉めてくれましたね。生で見た瞬間出資を決意しました。「これは走る!」と。
父アフリート、母ノーブルプライド(カーリアン)。後のシルクチャプターです。今まで生で見た育成馬の中で、後にも先にも一番良かったです。
そんな旅行の中で最も感嘆したのは、「ビックレッドファーム」でした。広大な敷地(ヤナガワのそれとは比較にならない)に坂路が設置してあり、放牧地のアップダウンもヤナガワとは次元が違いました。「そりゃ、マイネルの馬が走るよ。」って感じで納得。その瞬間、近い将来マイネルに入会しよう。と決意したほどです。もちろん本気でしたよ。だって必死に500円貯金しましたもん(結構溜まってたんですよ。1口いけるくらいね。でもなぜか指にはめる輪っかに変わってしまい、夢達成ならずw)
一口成績のほうは相変わらず冴えません。初戦TOだったエディフィスも全く振るわず、見せ場もないレースが続きました。4戦して見せ場の無いエディフィス君。もう無理なのか・・・と思い始めていた12月。舞台は中京でした。成績から殿人気は止むを得ません。しかし、ついに彼のスイッチが入ったのです。なんと後にスプリンターズSで4着と健闘することになるマルカキセキの2着に来たのです。私は常々競走馬は5戦目までに見せ場のなかった馬は勝ち上がることが出来ないといっています。彼はその5戦目に十分な見せ場をつくり、私を安堵させたのでした。
12月はホルダーも帰ってきました。当初鞍上はミルコデムーロを予定していました(ペリエだったかも?)。陣営の期待度が現れています。予定鞍上だけでこちらも期待。しかし、予定が狂い、鞍上が空白に。しかし、な、なんと決定したのは・・・ユ・タ・カ様。一口人生で始めて武豊にエスコートしてもらうことになったのです。もう舞い上がりまくり。でも、結果は13着惨敗。休養明けだったことを考えると仕方がないか・・・。次も乗ってくれるかな、なんて淡い期待はあっさり裏切られ、乗り代わり。豊様の忠告どおり、距離を短縮して望んだ復帰2戦目は殿負け。あちゃー、最後の最後で殿負けか・・・。この年はホルダーの殿負け(1月飛梅賞)で始まり、ホルダーの殿負けで終わった1年でした。トホホ・・・。
この年から、一口スタイルが変わりました。あまりイレ込まず、適度に距離を置き、愛馬の活躍に期待する。自分の出来ることは応援すること、それ以上もそれ以下もないんだ・・・と冷静に愛馬の動向を見るようになりました。もちろん、ソウルフルの出来事がそうさせたわけなんですけど、あんな思いは嫌ですからね(次、もし同じことが起こったとしても、ソウルフルの時ほど落胆しないようにね)。少し割り切って一口ライフを送ろうと決めた年でもありました。
一口成績的には0勝2着1回、3着2回、着外多数。殿負け・TOあり。と散々でしたが、総合的に見るとここからスタート!って感じで新鮮な出来事も多かったように思います。
続く:愛馬6頭(ウイッシュ/1勝、ホルダー/1勝、オリンピア/未出走、イノセント/未出走、エディフィス/未勝利、ラヴリー/未出走、チャプター/未出走)