「異なる何かと」との対峙から学ぶこと。
この書を手に取った読者は恐らくはジェネラルマインドを持って成長をしていきたいと考えてくださっている希望に満ちた将来の宝であると思う(老若男女問わず)
私はこれまで自分の診療科やスタイルについてあまり考えてきたことがなかったためか、専門医という言葉やその資格にあまり興味がない(大学教員として赴任した当初とても周囲に驚かれた)。強いていえばその目の前の患者さんの為の専門医であるという自負を持つように洗脳されてきた?ようで(いい意味で)、なんでも忌み嫌うことなく学ぶ姿勢を持つ事ができたように感じている。昨今では、総合診療医、総合内科、救急総合診療科、家庭医、色々なグルーピングと住み分けが行われ、再編が進んでいるようであるが、どうか読者の皆様はそのような住み分けやセクショナリズムは一旦置いておいて、ジェネラリストとして学ぶべき最低限の範疇として是非多くの方にこの書を手に取とり読破して頂きたい。
この序文では僭越ながら私の短い医師人生の中で「異なる何か」に最も驚き、そしてそこから学んだ事をシェアさせて頂くことで挨拶にかえたい。
私は、ある期間に約1年間、関東一帯の救急告示病院を回り患者の利益になりその施設の迷惑にならない限り「患者を絶対に断らずに受け続ける」当直業務(別名:戦国無双)をしていた。救急搬送が年間13000件ほどあり、患者の受け入れを断らない大病院で初期後期と研修した自分はそれが当たり前であると考えていたからである。
医師として初めて育った環境が夜間のMRIやCT、緊急内視鏡や手術、技師による心エコーだけでなく、他科のコンサルトさえも24時間当たり前であったために、つまりはまるでそれがどの病院でも同じように機能していると勘違いしていた。そして研修医の時代は他の病院や施設からの紹介状を見ては診療が十分なされていないと溜息をつきながら嘆いていた事もあった。極めて恥ずかしい、勘違い研修医であった。
ある病院では看護師と2人だけでX線を含む全ての検査を行いながら来院患者を診察しなければならず、ある場所ではCBCと血糖と血ガスのみで勝負し、ある施設ではCT捜査もマニュアルを読みながら自分でおこなわなければならない全く未知の「異なる何か」の世界であった。非常勤医師として各病院を連戦・転戦し、医療資源が限られた環境に身を置くことで初めて自覚した事がある。
それは、今まで「自分の臨床能力」だと思っていたものが、全く自分の自身の力などではなく実は各科の医師の協力、検査の体制、コメディカルスタッフの献身的な姿勢、入院施設の充実等、数多くの他の要素で単に護られていただけに過ぎないという事実であった。若き日の自惚れにも程があった。今更ながら極めて恥ずかしい。日本のERの父 寺澤秀一先生はよく講演で「ハンディキャップがある環境の方が医者として鍛えられ、そして知恵がつく」とおっしゃられている。1人で診療を行う環境では、自分の五感を研ぎ澄まし、患者さんにとってベターな判断をするために病歴聴取と身体所見をフル活用しなければならない。もしかしたら、そういう環境こそが真の臨床能力を身につけるには絶好の場所なのかもしれない。読者のクリニカルセッティングは様々であると思うが、大病院で研鑽する医師も、診療所で研鑽する医師も、「異なる何か」と対峙することで謙虚に学ぶ姿勢を持ち続ける事ができるような気がしている。
次に、私がバンコクの大学で学んでいた時に一番悔しかった経験を述べると、日本の医学部を出た医師よりも、インドやフィリピン、シンガポールなどで学んだ医師の方が世界的に評価が高く、また実際に通用する知識と高い臨床能力を持っている事であった。私に取ってのバンコクでの「異なる何か」は全く予想していなかった寝耳に水の出来事であった。日本の方が優れていると心の何処かで自惚れていた。返すがえす恥ずかしい人間である。何より他国の医師達に感覚としてそう思われている事が日本人として辛かった。日本産ジェネラリストの端くれとして、私は思う。勤勉性とモラルに長けている日本のジェネラリストが今後世界の舞台で活躍する為には、高名な黒川清先生や我が師徳田安春先生が幾度も発言しているように、理由は何であれとにかく一回外に出て空気を吸って、外から自己を、そして日本という国家やシステムを自分の目で見つめなおす事なのかもしれない。「異なる何か」に対峙した時に初めて、自分自身の強みや弱みだけではなく、日本の医療制度や、研究スタイル、臨床技術など、それらを明確に認識する事ができる。それこそが自らの長所を活かし、短所を改善する事につながるのではないかと強く考えている。