アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の壱拾弐

2016年12月25日 | 近世の歴史の裏側

天保七年は 江戸時代の三大飢饉にかぞえられる大凶作であった。

春ごろから冷害になり 田植えの時期には雨続きになり 稲は水腐れになってしまったという

その後 日照りが何日も続いて早魅に見舞われて大飢饉になってしまった。 

忠治は 全てのものを売り払って金に変え、飢えに苦しむ人たちを教つたという話が

残っているが、天保八年に田部井村向原に大賭博場を作り

その寺銭で磯沼の掘り直しを行い水を溜め水に困っている農民を救ったのであるという。

この磯沼は その後「忠治沼」と人々の間に言われるようになり、今に伝わっているので

この磯沼が 田部井の向原にあるというので、一度訪ねてみた、

伊勢崎市東田部井町で車を止めて道を歩いているお年寄りに尋ねてみた。

田部井町の向原というのは この辺りですか?

近くの方が「そうですよ、昔はこの辺りの磯沼が忠治の沼です。野球場の照明が見えるでしょう あの辺りが磯沼のあつた所ですよ」

忠治さんの沼ですと、さん付けで教えてくれたのには 少しびっくりしたが 教えられた場所に来てみると、伊勢崎市営野球場あずまスタジアムという野球場であったが、

ファンスの横が磯沼があった所だという

加えて「畑にするには小石が多く大変だったという」が、忠治の農民救済の言伝えとしては

任侠忠治の話としては、大変民衆に受ける話であるが疑問が残るのである。

 

                                       続く



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