2014年初春の「和力公演」 2014年04月20日 | Weblog 前回のブログに引きつづいて、途中まで書いて気になりながらも放置していた記録をまとめた。 ……すこしばかり古い話になるが、1月11日(土)には、松戸市下矢切「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」で「和力」公演があった。 築約130年の見世蔵を所沢から移築、階下は喫茶店、二階をギャラリーとして文化を発信しつづけている。 「和力」を2006年から毎年1月に開催しているから、今年で連続9回目の企画になるだろうか。 厚い板をさしわたした長椅子に、座布団を敷き客席を設ける。お尻を詰めあってほぼ40名分を確保するのが精いっぱいの空間である。 上を見上げれば、太い材木が縦横に行きたがい、天井板が張ってないから頭の上は広々としている。 太い材木と天井の高さのおかげだろうか、ステージと客席は目鼻の距離だけれど、笛や三味線、太鼓の音は、自然の素材である材木や漆喰の壁に吸い込まれ、柔らかく会場内をただよう。 「この古民家での和力ライブは、ホール公演とはちがう魅力が醸し出される」というファンの方も多くて、ありがたいことに2回公演はいつも満席になる。 わたしは、この古民家でのライブのたびに思い起こすことがある。 わたしがわらび座に在籍していた頃、集落ごとに祭礼があった。わらび座は田沢湖町神代にあり、田沢湖から流れ下る「玉川」の橋を渡ると、「角館・広久内(ひろくない)」そのもう少し先には「角館・白岩(しらいわ)」という集落があって、お盆の時期に「ささら舞い」が、家々を訪れ庭先で舞われていた。 二頭の雄と一頭の雌の獅子が太鼓を胸に、「悪鬼退散・豊作祈願」を願って舞うのだ。 言い伝えによると、常陸を国替えになった佐竹氏が角館に赴任した折、常陸の獅子踊りをもってきて伝え400年の歴史があるという。 もう一つの伝承は、「角館が秋田美人の発祥地である。それは佐竹氏が常陸中の美人という美人を引き連れてきたおかげなのだ。だから常陸には美人が残らなかった」などという不埒なものが口伝えで残されている。 これは口伝えだけの言い伝え、噂であって文章などにはない。あれば大変である。わたしの父も常陸の人であった。こんな噂を知ったなら郷土愛の強かったわが父は、どんな暴れ方をしたか知れない。 「ささら踊り」は、木の札でつくったささらを打ち鳴らす音頭取りが先導して、三頭の獅子がつづく。神社などでも舞ったのであろうが、わたしが見聞きしたのは農家の庭先での舞であった。家人や近所の人たち30人ほどが迎え入れる。 舞う人、迎える人は指呼の間で隔たりがない。 渾身の力で「悪鬼退散・豊作祈願」、前進、後退、回転し、太鼓を叩き屈み伸び、砂ほこりをあげて舞われていた。 「蔵のギャラリー・結花(ゆい)」は、屋内であるから砂ほこりはあがらないが、演者の汗・息遣いは眼前でみてとれる。 加藤木朗の大道芸と太鼓と舞い、そして木村俊介の笛、小野越郎の津軽三味線がみなさんの目の前で進行する。 そして2014年初春の宴では、音舞語り「干支継ぎ」が披露された。 この演目は昨年11月金沢公演で演じられたものである。昨年の干支、巳(み…へび)が、「このまま来年もおいらが年男になる」と駄々をこねて、磊也演ずる「八岐大蛇(やまたのおろち)」が眼光鋭く居直り、来年の干支、午(うま)が困り果てた挙句に、ようやく干支継ぎを果たすという展開だった。 今回は、年男の午(朗)にたいして、山神様の使い番、鹿(磊也)が「午よ、姿かたちがそっくりなわしも一緒に、年男に加えてくれ」と迫るのだ。 朗一家6人は、大蔵流狂言の門下生で、長年その修行に励んでいる。磊也は小学生の時に加えていただき、今も東京道場へ通っている。 だから狂言のやり取りも面白く、お客さんは大喜びでその掛け合いに身を乗り出す。 午は津軽の「荒馬踊り」そのものである。 わたしがわらび座の演技者のときには、この「荒馬踊り」を舞台いっぱい跳ねて踊った大好きな芸能である。 朗の演ずる「荒馬踊り」は、「勇壮で元気に跳ねまわる」というわたしの解釈ではなく、「祝唄」を口ずさみながら、しなやかに跳ね、ゆったりと歩み、おおらかな午の姿である。 木村、小野コンビが、歌と動作に合わせて音を奏でる。長丁場の演技であるから、朗の額からは汗がしたたり落ちる。 「見る人が少なくても、『命がけでなさっている』わね」との感想をいただいた。 磊也は修行の身であり若輩者であるが、修業で先生方の力をいただき、「和力」の演目の幅がグーンと大きくひろがったなぁ…とわたしは、初春の和力公演で思ったのである。