日本歴史に登場する『 本地垂迹説 』を思い浮かべるのでした。
あらためて、辻善之助著「日本仏教史」の第一巻をひらくことに。
「本地垂迹説は、仏教が日本の国民思想に同化したことを示すものであって、
我国民があらゆる外来の文化を吸収し、之を咀嚼し、之を同化する力に
富めることを示す多くの例の中の一つである。 」
「・・この説は、その初に於ては、神と雖も衆生の一つで、
仏法を悦び、仏法を崇び、仏法によりて救済せられ、
仏法によって業苦煩悩を脱するといふ思想から出たのであって、
神と仏とは固より別物として並び行はれて居たのであるが、
その思想が漸次発展して、神仏同体の説となり、
仏教の教理を以て之が解釈を試み、つひに極めて煩雑なる組織を立て、
その間にいろいろと附会して、所謂山王一実神道及び両部集合神道など
といふものができて、某の神は某の佛の権化であると、一々その解説を
つけるやうになったのである。・・・・」(p436~437岩波書店昭和35年)
それでは、仏教の次に来るものは?
白洲正子著「十一面観音巡礼」(講談社文芸文庫)の最後の方に、
「 本地垂迹説という思想は美しい。
完成するまでには、少くとも二、三百年の年月がかかっている。
はたして私達は、昔の人々が神仏を習合したように、
外国の文化とみごとに調和することが出来るであろうか。 」
( p264 文庫 )
はい。この文庫を紹介していると、あれこれ、ながくなるので、
ここには、文庫の最後にある小川光三氏の「人と作品」から引用
「 例えば、日本の古い木造仏、特に飛鳥や奈良時代の彫像の材質は、
主として樟木(くすのき)である。だがこの樹は、暖地性のため
朝鮮や中国の北・中部には自生せず、これを用材にした彫像もない。
それに対して、日本で使用されるクスノキとは、奇(くす)しき木、
奇瑞をもたらす霊木のことで、神の依る神聖な樹と考えられていた。
したがって、これを用材とした仏像は、日本古来の信仰が、
新来の仏教文化と結合したことを物語っている。
『日本書紀』欽明天皇14年の条には、
大阪湾の和泉灘(いずみなだ)に、厳かな音を響かせ、
日の光の如く輝く樟木の大木が流れ寄り、これで
二体の菩薩像を造ったとある。この記事が、
日本で造像された仏像の初見で、仏教伝来の当初から、
仏像は霊木で造るものとされていたのであった。 」(p303)
さてっと、ここでパウロ。
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」(海竜社)の目次に
「 渋柿甘柿 接ぎ木された木は新しい生を生きる 」というのがある。
そこには、パウロの「ローマ人への手紙11・16~24」の引用がありました。
「 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうです。
根が聖なるものであれば、枝もそうです。
しかし、枝のあるものが折り取られ、
野生のオリーブであるあなたがその代わりに接ぎ木され、
元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、
元の木の枝に対して誇ってはなりません。たとえ誇るとしても、
あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
・・・・・ 」(p47~48)
曽野さんの文は、雑誌に連載されたもので、この文も8ページほどです。
その短文の最後を引用させてください。
「信仰を持つと、人間は確かに180度変わる。しかしその変わり方を、これほど個性的にしかも正確に表現する、ということは並大抵のことではない。
幹は渋柿のものでありながら、枝に甘柿の実をならす私たちは、
しかし決して誇ることはできないのである。私たちの出身は、
あくまで渋いものであることを忘れてはならない。・・・・ 」(p50)
白洲正子さんの宿題を、あらためて反芻します。
「 はたして私達は、昔の人々が神仏を習合したように、
外国の文化とみごとに調和することが出来るであろうか。 」
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