この頃、夏に思い浮かぶ言葉があります。
そう。暑くなると、わたしに思い浮かぶ。
中村弓子著「わが父 草田男」(みすず書房・1996年)。
そこに、ありました。俳句からはじまっております。
「 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る
夏こそは父の季節であった。
父は7月24日に生まれ、8月5日に亡くなった。
暑い季節がやってくると家族は全員げんなりしている中で、
『瀬戸内海の凪の暑さなんてこんなもんじゃありませんよ』
などと言いながら、まるで夏の暑さと光をエネルギーにして
いるかのように、大汗をかきながらも毎日嬉々として
句作に出かけていた。・・・・・・ 」( p57 )
はい。せっかく本棚からとりだしてきたので、
もう一か所引用しておくことに。
「この『草田男』の名には由来がある。・・・
父親の死後、一家を支えるべき長男であるのに
神経衰弱で休学などして愚図々々している父のことを
日ごろから徹底的に蔑視していたある親戚が、
ある機会に父に向って
『お前は腐った男だ』と思いきり面罵した。
父はそのとき
『俺はたしかに腐った男かもしれん。だが、そう出ん男なのだぞ』
と内心思い、受けた侮辱とそれに対抗する自負心の双方を、
訓読みと音読みで表わす『草田男』の名を俳号としたのである。
・・・・ 」( p74 )
ということで、『夏』が本の題名にはいっていると、
つい気になって、手が出ます。
はい。題名に惹かれ、安い古本なら迷わず購入(笑)。
大矢鞆音著「画家たちの夏」(講談社・2001年)
も安かったので手にしました。
装幀は、安野光雅。雲がわくようなカバー絵です。
はい。10ページほどの序章を読んで私は満腹です。
うん。序章のはじまりとおわりとを引用。
「日本画家の家に生まれた私は、小学校のころから
父の手伝いをするのが楽しみだった。
秋の展覧会に向けて、夏休みはつねに父とともにあった。」
こうはじまります。この本には五人の画家が
各章にわかれ第5章まで登場します。
第1章の清原斎『最後の夏』
第2章の大矢黄鶴『父との夏』
第3章の中村正義『人生の夏に叛いて』
第4章の田中一村『夏、奄美に死す』
第5章の若木山 『夏を描く』
はい。わたしは序章だけ読んでもう満腹。
ここには、序章最後の言葉を引用します。
「『絵の道に完成はない』とは多くの画家がいうところだが、
そのひそみにならっていえば、田中一村も私の父も
道なかばの人生であったということになろう。
清原斎も中村正義も若木山もそうであった。
美術の秋ということばをよく耳にするが、
画家たちにとっての戦いは、夏である。
彼等は季節の夏を、人生の夏を、どのように生き、
どのように描き、どのようにして死を受け入れたか。
それは惜しくも道なかばの人生であったことを
ここに、描きとめたい。 」( ~p16 )
うん。どのように描かれたのか。
序章だけで満腹の私は、ただただ想像するばかり。
それよりも、序章は『描きとめたい』と終わっておりました。
描きとめたい夏。描きとめれた夏。
万事飽きやすい私ですが、この夏、ページをめくれるかどうか。
ちなみに、名前ですが大矢鞆音(おおや・ともね)と読みます。
さっそくのコメントありがとうございます。
はい。夏のページをめくったら
ブログへとあげたいと思います。
徒然草第55段の『家の作り様は、
夏を旨とすべし。・・・』へと
つなげようとしたのに脱線です。
今日中に徒然草をとりあげます。