和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

震災と戦災。

2007-07-21 | 地震
植木等著「夢を食いつづけた男」(朝日文庫)は、副題として「おやじ徹誠一代記」とあります。
植木等の父親・植木徹之助は、明治28年1月に三重県度会(わたらい)郡大湊町に生まれております。この徹誠一代記に、関東大震災と東京大空襲の経験が載っております。その箇所を引用しようと思ったわけです。
(注記:昭和4年に得度して徹之助が、僧・徹誠(てつじょう)となっておりました)
まず、東京へ行く経緯はこうです。
「明治42年の春、徹之助は大湊小学校(高等科)を卒業し、東京の御木本真珠店付属工場(のちの御木本貴金属工場)で働くことになった。その工場は、麹町区内幸町一丁目三番地に一年前、できたばかりだ。徹之助は、花のお江戸の、しかも郷里の偉人御木本幸吉が創設した工場に入ることになって張り切った。」(p20)

興味深いのは、明治43年から、この工場長が評論家小林秀雄の父・小林豊造だったというのです。こう書かれております。「東京高工(後の東工大)の教授で工芸界の権威だった小林を、上昇気流に乗っていた御木本が迎えたのだった。小林は労働者の地位向上、人格尊重が良い仕事の前提という考え方で、職工、職人という呼び方をやめ、『工員』と呼ぶことにした。小僧は『徒弟』となり、なになにドン、だれそれ公は、なんとか『君』に昇格した。当然、小林は従業員の尊敬を集めた。」(p32~33)

さて、いよいよ関東大震災が近づきます。その頃の様子にふれながら、引用していきます。

「世帯をもった年の翌大正十年、長男の徹が生まれた。おやじ(徹之助)26歳。身辺に落ち着いた雰囲気が漂いはじめ、仕事の面でも思想的にも、円熟のきざしを見せていた。そして大正12年、おやじは大役をいいつけられた。その年の11月に予定された東宮殿下(注:昭和天皇)御成婚に際して、良子女王殿下のために・・一切の装身具を製作するよう、宮内省から御木本に指示が下されたのである。そのうちの冠の製作をやれと、おやじと野川喜太郎の二人が命じられた。工場内は大変な緊張である。・・・・
9月1日、関東大震災の日の真昼、工場は夏休み態勢に入っていて、仕事は午前中で終わっていた。ただ、宮内省関係の仕事をしている者だけは残っていた。おやじも早い昼食のあと、午後の仕事に備えて寮の二階にある佐藤保造の部屋で休憩していた。そのとき、グラグラッときた。たまたま、上村祐造が工場にいて、窓越しに隣の寮を見ていたら、おやじは立ちあがり、阿波踊りでも踊っているような手ぶりをして体のバランスをとろうとしていた。おやじたちは逃げようとした。しかし、寮の二階の床がVの字型に落ちてしまっている。斎藤信吉が一階の食堂を講堂として使うために、柱を抜いていたからである。階段を降りようにも階段はつぶれている。二階の窓から地上に飛び下り、まだ揺れ続ける地面を蹴って日比谷公園の方へと逃げた。おやじは、逃げのびた日比谷公園で、ばったり幸吉に会った。・・『おい、植木』と、おやじの顔を見るなり、幸吉はいった。『冠が大丈夫かどうか、工場へ帰って確かめてこい』。おやじは、幸吉の顔をつくづく眺めながら答えた。『冠みたいなものには潰れたって作り直しがききますが、人間の体ってものは作り直しはきかないんだから、私は嫌です』。幸吉は、どなったそうだ。後にも先にも、天下の御木本にさからったのは、おまえだけだ、ふらちな男だ、ってわけである。」(p51~53)


ここはよく調べてあり。以下、北畠清泰氏の丁寧な調査がなにげなく語られております。
「こうした逸話を近親から聞き、あるいは記録を読んでいてつくづく思うのは、御木本幸吉という人の周到さである。真珠は火に弱い。だから幸吉が最も恐れたものは、火事だった。元来、幸吉は、店員を信用して金庫を信用しないという人だったから、火災発生時には金庫の中の品物を出して非常袋に入れ、店員がそれぞれ分担してかつぎ出すよう、日頃から訓練していた。そんなわけで、大震災の日も、かねての訓練通りに実行し、被害を最小限に食いとめることができた。・・・」(p54)


まだ、逸したくない話がありますので続けます。

「関東大震災の四日前、次男の勉(つとむ)が誕生したばかりだった・・・この勉が誕生したとき、おふくろの母親が伊勢の西光寺から内幸町のおやじの家に手伝いに来ていた。お産がすんで四日目に大震災である。『東京は怖いところだ』と、おばあさん、伊勢へ帰ることにした。おふくろも、また東京に天変地異があるかもしれぬと、交通事情も何とか回復して帰れる見込みが立つやいなや、生まれたばかりの勉を抱いて、母親と同行することになった。汽車の道中である。東海道線の各駅では、東京から逃げ散る罹災者のためにと、炊き出しのにぎりめしが配られていた。箱に大きなにぎりめしが湯気を立てて並んでいる。『どうぞ、どうぞ』。西光寺のおばあさんは、そう勧められても、代金を取られるのだと思って、『いえ結構でございます』『せっかくでございますが、結構です』と、断り続けていた。静岡を過ぎたあたりになって、おふくろが『おばあちゃん、あれはただなんですよ』といった。それから後、おばあさんは『はい、ありがとうございます』一辺倒で、にぎりめしを貰い、西光寺に着いた時にはにぎりめしが両手に持ち切れないぐらいだったそうだ。」(p54)



つぎは東京大空襲。


「東京が相次いで大空襲にあったのは20年春である。当時、植木一家は足立区西新井の、お大師さんの近所に一軒、家を借りていた。その夜、警戒警報が発令されていたために、西新井警察署の電灯以外、町内のどの街灯、どの家も明かりを消していた。・・・警察署に爆弾が落とされ、それは大きな松明(たいまつ)のように炎上した。真っ暗闇だった町並みが炎に照らされた。そのとたん、上空の編隊から焼夷弾が雨霰と降りそそいだ。わが家の裏手にあった便所が燃え始めた。家の中には、おやじ、おふくろ、私の三人がいた。すっくと、おやじが立ち上がって、おふくろと私に言った。『ちょっと工場を見てくる』・・・この時は誰に命じられたわけでもないのに、わが家と家族をおっぽり出して工場を見てくるという。『おい等。おかあさんを頼むぞ』そう言い残して、おやじは戸外へ飛び出した。私は、おふくろと手をつなぎ、布団をかぶって外に出た。ついさっきまで暗闇だった通りが今は真昼間の明るさだ。・・・」
以下つづくのですが、このくらいにしておきます。

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