和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

木山捷平の「ふるさと」。

2012-06-30 | 詩歌
日経の古新聞をもらってくる。
残念。山折哲雄の連載「危機と日本人」の
連載の13・14回目がない。
古新聞は、どこか欠けてしまうのだよね。
まあ、もらってくるのだから、
しかたありません(笑)。

さてっと、それとは別な話。
日経読書欄6月24日に
三木卓著「K」の書評を井口時男氏が書いておりました。
よかったです。そのはじまりは、
「表題のKは著者の妻を指す。72歳で癌で亡くなった。詩を書く者同士が25歳で結婚して以来47年。しかし、ふつうに同居していたのは最初の10年ほどだけ。小説家として順調に仕事をし出したころから、『ぼく』は自宅外に仕事場を与えられ、ていよく『隔離』されてしまう。」

以下情理をつくした書評になっているのですが、
引用は強引にも、ここまでにしておきます。

さてっと、井口さんの書評にある「『ぼく』は自宅外に仕事場を与えられ、ていよく『隔離』され」という箇所は、本文中でも、印象に残る箇所なのでした。ということで、そこを丁寧に引用していきます。

「『あなた、ここじゃあ、おちついて仕事できないでしょう。姉さんの知りあいが、西荻窪で学生下宿をやっているのだけれど、そこの一室を借りる約束をして来ましたから、そこで、がんばって下さい』
ぼくはおどろいてKの顔を見た。・・・・
・・・・・・
詩はみじかいから、それでもまだよかった。しかし小説は長いのである。集中度は、詩作のときほどではないが、どうかすると一日中、それが続くのである。『トイレの中で一日中、りきんでいる男がいるとしたら、六畳四畳半の家では、他の家族がたまらないでしょう。そういったことなんですよ』
どうして家で原稿を書いていないのか、と問われると、ぼくはそういう返事をした。・・・小説を書きはじめるに至って、この室内に発散されるぼくの拒否的緊張感はどうしようもない。排除するよりない。Kは、そう思って長姉に相談の電話をしたのかもしれない。だってそもそもKは、積極的にぼくのために何かをしてくれる、というような女ではないではないか。・・・・
ぼくはお金ための仕事で、しょっちゅう出歩いていたから、彼女は自分のしたいことをのびのびと出来た。しかし小説を書き出したら、いつも家にいて深刻な気配をただよわせながらすわっている。
書くという行為は、排泄や傷の手当てのように、本当はどこかにひっそりとかくれて、一人でやるべきことである。・・・
いずれにしても、小説を書き出してからのぼくは、書くことに夢中だった。たとえば、けっこう楽しんでいたプロ野球の記憶など、そのあたりの時間からあとは相当長い空白が続いている。きっとぼくは、Kから見たら人が変ってしまったと見えたろう。・・・」(p104~108)


気になったのは、
『トイレの中で一日中、りきんでいる男が・・』というところでした(笑)。

そういえば、
木山捷平の処女詩集「野」(昭和4年・1929年)は、25歳で自費出版しておりました。
そこには、小便とか腰巻とか薯糞とか、野放図にさらりと題名に使われております。
そこから、この詩を引用。

  ふるさと

 五月!
 ふるさとへ帰りたいのう。
 ふるさとにかへつて
 わらびがとりに行きたいのう。
 わらびをとりに行つて
 谷川のほとりで
 身内にいっぱい山気を感じながら
 ウンコをたれて見たいのう。
 ウンコをたれながら
 チチツ チチツ となく
 山の小鳥がききたいのう。





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