ネット「日本の古本屋」の検索は、私にはありがたい。
たとえば、名前で検索すれば、その人の本はもちろん。
掲載雑誌・関連本までも、並んでいて参考になります。
あれ、こんな本も関連するのかと興味をそそられます。
『竹中郁』で検索したら杉山平一氏の本が出てきたり。
その杉山氏の本をめくると、知りたかった詩人さんの
学校校歌の一部が読めました。さっそくその箇所引用。
「・・神戸から一度も外へ出なかったわが国モダニズム詩の
旗手竹中郁氏が亡くなられた。・・・
そのモダニズムが、単なる衣裳ではなかったのは、23歳の若さで、
小磯良平氏と共に渡欧、レスプリ・ヌーボーのかおりの漂っていた
パリを中心にした3年近くの体験のためである。
従って、言動も極めて合理的だった。大戦後は、詩一本で
大家族を支えられていたが、詩の純粋を守りつづけて、
しかも生活人たり得たのもそのゆえである。
詩人が亡くなるや、関西の新聞は、四段五段抜きで報じたが、
とくに印象的だったのは、一般の投書欄へ、詩人ならぬ
一般人の追悼哀惜文が載ったことである。
いかに幅ひろく詩をもって生活されたかということであろう。
私は、朝日新聞と神戸新聞に、三篇を見たのだが、
その一つに八田光子という四十歳の看護婦さんの一文があった。
彼女の小学校の校歌が、竹中さんの作られたもので、
それを、母親となった今でも子供に自慢していたが、
訃をきいた朝、洗濯機を回しながら歌ったといって、
その歌詞が添えられていた。実にみずみずしい。
風にだかれてかけてくる
さそい合わせてかけてくる
肩をならべて胸をはる
朝の光にうごくかげ
吸われるようにくぐる門
はなぞの はなぞの 花園小学校
というのである。野球大会のテレビによく出るように、
漢語と教訓に堅くるしい校歌は、
竹中さんの手によって詩に生まれかわっている。
それは堀辰雄と共に『四季』の中核をなし、しかも
『赤い鳥』以来といわれた童詩雑誌『きりん』を
育てた竹中郁そのものの世界である。
生活のためにもたくさんの社歌や校歌を作られたが、
兵庫県下の校歌は竹中氏によって一変したのではあるまいか。
文字の組み合わせの上でだけ詩人である人は多いが、
竹中氏は人間や存在においても詩人であり詩を生活できたまれな人であった。」
( p131~132 杉山平一著「映像の論理・詩の論理」創元社 )
この次のページには、丸山薫がとりあげられておりました。
ネット「日本の古本屋」の検索のおかげで、校歌が読めた。
さそい合わせてかけてくる
肩をならべて胸をはる
朝の光にうごくかげ
吸われるようにくぐる門
はなぞの はなぞの 花園小学校
この校歌は、「か」の韻を踏んでいるから、より爽やかな印象ですね。
風 (だ)かれて かけてくる かけてくる 肩を かげ
また「胸をはる」の「はる」が最後の「はなぞの はなぞの 花園小学校」の「は」とも韻きあって心地よい韻律になっていると思いました。
コメントありがとうございます。
どうぞ、鄙にもまれな
歌が生まれますように。