今日起きて、本棚から取り出してきたのは
竹中郁少年詩集『 子ども闘牛士 』(理論社・1999年)。
目次の最初の章は『 子どもへ 』とあり、5篇の詩があります。
はじまりの詩を引用。
もしも 竹中郁
もしも この地球の上に
こどもがいなかったら
おとなばかりで
としよりばかりで
おとなはみんなむっつりとなり
としよりはみんな泣き顔となり
地球はすっかり色をうしない
つまらぬ土くれとなるでしょう
こどもは はとです
こどもはアコーデオンです
こどもは金のゆびわです
・・・・・・
はい。途中まで引用しました。
この本の目次のさいごには、こうありました。
「 カバー・表紙・とびら・挿画は著者の作品
挿入のはがきは著者より家族へのもの
若き日の著者像(p157)は小磯良平画伯の作品 」
はい。詩もそうなんでしょうが、
この詩集をひらくと、ところどころに、挿絵として使われてる、
絵と言葉のはがきに、私は魅せられます。まるで、その葉書が、
詩集の余白に染みて、そこでひろがってくるかのような存在感。
さてっと、詩集の3番目の詩は『のびろ のびろ』で始まります。
竹のように 竹中郁
のびろ のびろ
まっすぐ のびろ
こどもたちよ
竹のように のびろ
風をうけて さらさらと鳴れよ
日をうけて きらきらと光れよ
雨をうけたら じっとしてろ
雪がつもれば 一そうこらえろ
石をなげつけられたら
かちんとひびけ
・・・・・・・・
はい。この詩も、途中まで引用しました。
『 のびろ のびろ 』で、私は大村はまを思い浮かべておりました。
大村はま著「新編 教えるということ」(ちくま学芸文庫)の
はじまりの講演「教えるということ」のなかの小見出し「教師の資格」
という箇所にそれはありました。
「 ・・・・子どもというのは、
『 身の程知らずに伸びたい人 』のことだと思うからです。
いくつであっても、伸びたくて伸びたくて・・・・、
学力もなくて、頭も悪くてという人も、
伸びたいという精神においては、みな同じだと思います。
一歩でも前進したくてたまらないのです。
そして、力をつけたくて、希望に燃えている。
その塊(かたまり)が子どもなのです。・・・・・
子どもと同じ世界にいたければ、
精神修養なんかではとてもだめで・・・・
もっともっと大事なことは、研究をしていて、
勉強の苦しみと喜びとをひしひしと、日に日に感じていること、
そして、伸びたい希望が胸にあふれていることです。
私は、それこそ教師の資格だと思います。 」(p27~28)
ちなみに、これは
「1970年8月、富山県小学校新規採用教員研修会での講演」とありました。
うん。ここを、切り貼りし、つなげてみたくなります。
『 子どもと同じ世界にいたければ・・・
伸びたい希望が胸にあふれていることです。 』
コメントありがとうございます。
それなら、お見かけしたこと、
あるのかもしれませんね(笑)。