和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

のびろ のびろ

2023-02-20 | 詩歌
今日起きて、本棚から取り出してきたのは
竹中郁少年詩集『 子ども闘牛士 』(理論社・1999年)。

目次の最初の章は『 子どもへ 』とあり、5篇の詩があります。
はじまりの詩を引用。

      もしも    竹中郁

  もしも この地球の上に
  こどもがいなかったら
  おとなばかりで
  としよりばかりで
  おとなはみんなむっつりとなり
  としよりはみんな泣き顔となり
  地球はすっかり色をうしない
  つまらぬ土くれとなるでしょう

  こどもは はとです
  こどもはアコーデオンです
  こどもは金のゆびわです

  ・・・・・・


はい。途中まで引用しました。
この本の目次のさいごには、こうありました。

 「 カバー・表紙・とびら・挿画は著者の作品
   挿入のはがきは著者より家族へのもの
   若き日の著者像(p157)は小磯良平画伯の作品  」

はい。詩もそうなんでしょうが、
この詩集をひらくと、ところどころに、挿絵として使われてる、
絵と言葉のはがきに、私は魅せられます。まるで、その葉書が、
詩集の余白に染みて、そこでひろがってくるかのような存在感。

さてっと、詩集の3番目の詩は『のびろ のびろ』で始まります。

     竹のように    竹中郁

   のびろ のびろ
   まっすぐ のびろ
   こどもたちよ
   竹のように のびろ

   風をうけて さらさらと鳴れよ
   日をうけて きらきらと光れよ
   雨をうけたら じっとしてろ
   雪がつもれば 一そうこらえろ
   石をなげつけられたら
   かちんとひびけ

   ・・・・・・・・


はい。この詩も、途中まで引用しました。
『 のびろ のびろ 』で、私は大村はまを思い浮かべておりました。

大村はま著「新編 教えるということ」(ちくま学芸文庫)の
はじまりの講演「教えるということ」のなかの小見出し「教師の資格」
という箇所にそれはありました。


「  ・・・・子どもというのは、
  『 身の程知らずに伸びたい人 』のことだと思うからです。

  いくつであっても、伸びたくて伸びたくて・・・・、
  学力もなくて、頭も悪くてという人も、
  伸びたいという精神においては、みな同じだと思います。
  一歩でも前進したくてたまらないのです。

  そして、力をつけたくて、希望に燃えている。
  その塊(かたまり)が子どもなのです。・・・・・

  子どもと同じ世界にいたければ、
  精神修養なんかではとてもだめで・・・・

  もっともっと大事なことは、研究をしていて、
  勉強の苦しみと喜びとをひしひしと、日に日に感じていること、
  そして、伸びたい希望が胸にあふれていることです。
  私は、それこそ教師の資格だと思います。       」(p27~28)


ちなみに、これは
「1970年8月、富山県小学校新規採用教員研修会での講演」とありました。
うん。ここを、切り貼りし、つなげてみたくなります。


   『  子どもと同じ世界にいたければ・・・
      伸びたい希望が胸にあふれていることです。  』
  




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2 コメント

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Unknown (1948219suisen)
2023-02-20 19:34:39
竹中郁さんは私が神戸市須磨区に住んでいた頃に同じ須磨区にお住まいでした。たしか須磨離宮の近くだったと思いますが、竹中郁さんの本は読ませていただいたことはありませんでした。今日初めてこちらで読ませていただくことができました。
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こんばんは。 (和田浦海岸)
2023-02-20 21:47:21
こんばんは。水仙さん。
コメントありがとうございます。

それなら、お見かけしたこと、
あるのかもしれませんね(笑)。
返信する

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