作文といえば、坂本遼さんのエピソードが思い浮かびます。
竹中郁の短文「坂本遼 たんぽぽの詩人」。
そのなかに、こんな箇所。
「 『きりん』に集まってくる小学生の詩と作文は、
詩は私が、作文は坂本君がと手分けして選ぶのだが、
各々が三日くらいかかって選んだ。
坂本君はそのために高価な大きな皮カバンを買って、
5キロくらいの重さの原稿をもち歩いていた。・・・ 」
( p123 現代詩文庫「竹中郁」思潮社 )
( p180 竹中郁「消えゆく幻燈」編集工房ノア )
はい。『きりん』って何だろう?
それには、井上靖氏の「『きりん』のこと」という文が答えてくれています。
「昭和22年の秋、大阪の尾崎書房という出版社の若い社長・・・が、
何か文学関係の雑誌を出したいが手伝ってくれないかという・・・
私は詩人の竹中郁氏に相談し、小学生向きの月刊詩文誌がいいだろう
ということになって、二人でそれを応援することにした。
日本は戦争で何もかもなくなてしまったが、
言葉だけが残っている、その言葉を使って、子供に詩を書かせたら・・
そしてやはり詩人の坂本遼、足立巻一両氏にも、
編集スタッフとして協力して貰うことを頼んだ・・・
創刊号は翌23年2月に出た。粗末な紙で造った20ページ・・・ 」
( p64 井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社・1982年 )
ちょっともどって、藤原正彦氏の短文を、もう一度引用。
「 現に、(大村はま先生が)生徒の作文を抱えて歩いていたら、
校長に『 そんなものはストーブにくべてしまえ 』と
言われたとうかがった。真意は
『 たとえ忙しくて作文をすべて読んでやれなくても、
ぜひ今のままどしどし書かせてくれ 』なのである。
手のかかる作文指導を続ける若い教師への
ねぎらいであり励ましである。・・・ 」
( p323 「 かけがえなき この教室に集う 」小学館 )
はい。ここに出てきている
『 手のかかる作文指導を続ける若い教師 』の大村はま先生は
いったい、どのような作文指導をしていたのか、興味あるところです。
ちょうど、パラリとひらいた箇所に『諏訪高女のころ』がありました。
最後には、ここを引用しておくことに。
「そのころ、子どもたちの作品を読んで、
『 ここのところはもう少しよく思い出して、くわしく書きなさい 』とか、
『 ここの情景の書き方がもの足りない 』とか、
『 もう少し気持ちを表すように 』
とかいう助言・指導ではいけないのではないか。
子どもたちは・・実際にどのようにしたらよいか、
助言を受け入れて処理する意欲も実力も育てられないのではないか。
・・・・直接に端的に、批評し注意し、指示するのはやさしいのですが、
そうではなく、と考えますと、容易に思いつかず、
一編の作文に小一時間もかけてしまったりしました。・・・
『なになにをもう少し細かく。』式の評を書いてしまったこともありました。
それで、それが思ったように書けますと、うれしくて大事で、
残しておきたくて自分で書き写したのです。
コピーなどあるはずもない、昭和も一けた時代のことです。
文章を書き写して、自分の書いた赤い文字は赤で書いてあります。
自分で自分の思いつきがよほどうれしかったのだと思います。 」
( p123~124 「大村はま国語教室」別巻。自伝 実践・研究目録 )
こんなことをしている、若い女教師を、見守る校長先生の
怒鳴る言葉が実感としてつたわってくるような気がしてきます。
まあ、そんなことを、藤原正彦氏の文に読み取ってしまいます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます