谷沢永一・渡部昇一『平成徒然談義』(2009年)を
パラパラとめくって、面白そうな箇所を引用。
徒然草第52段を谷沢さんは語ります。
「 旅の話ということで、52段を見てみましょうか。
『徒然草』には仁和寺がよく出てくるのですが、これは
仁和寺の法師が石清水八幡宮に初めて参詣した話です。
・・・・・
私はこの段の最後にある『先達』という言葉を、
『チチェローネ』と読むようにしています。
歴史家のブルクハルトが『チチェローネ』というタイトルで
本を書いていて、これはローマの旧跡を案内するガイドの呼称です。
ローマを深く知るのなら、この人たちを雇ってまわったほうがいい。
ちょっとしたことでも経験者、案内人の知識、知恵を乞う姿勢は
大事でしょう。 」( p31~32 )
うん。ここからどういうわけか大学の概論講義へと話が弾んでいました。
それはそうと、兼好は何宗だったのか?
ここも谷沢さんの語りから引用します。
「 『徒然草』の作者である吉田兼好のいた時代は、
まさに天台宗の全盛期でした。鎌倉新仏教を築いた人たちは、
当時の日本における最高の図書館であり大学だった比叡山で、
学問をしました。ところが当時は、いかに勉強して仏教の教えを
頭に入れても、身分が卑しければ上に上がることは出来ない。
藤原北家の系統に生まれ、一番上の兄貴がお公家さんとして
太政大臣になると、弟は天台座主になる。
それを悟って、みんな山を下りたわけです。つまり、
一遍、法然、親鸞という系列、いわゆる鎌倉新仏教は、
当時は支配的なものではなく、むしろ異端の説の類でした。
そして、兼好も仏教徒としては天台宗だったのです。
にもかかわらず、次の段(第39段)で法然上人の名を
出してくるのが、兼好の兼好たる所以でしょう。
兼好は仏教の宗派に対して中立的な人で、
自分のよしとするものは、遠慮会釈なく取り上げたのです。
『歎異抄』のなかで決め手になる言葉は
『法然がこう、おっしゃった』と親鸞が言っている場面が多い。
しかし、そもそも
念仏を唱えることを提唱したのは、法然なのですから。 」
( p103~105 )
このあとに渡部さんは続けます。
「・・・・・この超越している感じが法然らしいし、
だからこそ法然は偉いと思いますね。
法然のことを何も知らなくても、ここだけ読んだだけで、
法然の偉さがわかります。
その本質をつまみ出した、兼好の目もまた鋭い。 」(p105)
はい。第39段の原文を、あらためて引用したくなります。
或る人、法然上人に
『念仏の時、眠(ねぶ)りに侵されて、行を怠り侍る事、
いかがして、この障(さは)りを止(や)め侍(はべ)らん』
と申しければ、
『目の醒(さ)めたらん程、念仏し給へ』
と答へられたりける、いと尊かりけり。
また、
『往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり』
と言われけり。これも尊し。
また、
『疑ひながらも念仏すれば、往生す』
とも言はれけり。これもまた、尊し。
気になったのは、徒然草第59段に及んだ際に
谷沢さんは、こう指摘しておりました。
「 『老いたる親、いときなき子』云々は
道元の『正法眼蔵随聞記』から引いています。
道元の言葉が出てくるのは、たしか、
ここだけではないかと思います。 」(p112)
兼好の時代の宗教といわれてもなあ、
私にはチンプンカンプンなのですが、
チチェローネ・谷沢さんの話には惹かれます。
コメントありがとうございます。
正法眼蔵随聞記は水野弥穂子訳(ちくま学芸文庫)
のガイドさんの説明がわかりやすかった。
うん。私は女性のガイドさんだと素直になれる(笑)。
増田文雄訳「正法眼蔵」(講談社学術文庫)は
いつかは読もう本として本棚にあるのですが、
こちらは埃をかぶったままです。
ただ感触として分かるのは
「正法眼蔵」を読み齧ると、
もう「正法眼蔵随聞記」へは戻れない。
なんか、それほど大きな存在として
『正法眼蔵』が立ちはだかる印象です。
いつか完走したいなあ、『正法眼蔵』。
ご丁寧にありがとうございます。
矢沢さんの独断ではなく、指摘されている方々がおいでなのですね。
道元って、禅以外のいかなる宗派とも妥協しなかったとか…。
道元は念仏宗を、「ただしたをうごかし」念仏を唱えるのは、
「春の田のかへるの、昼夜なくがごとき」もの 、と批判していたようです。痛烈!
兼好は極端に走らないが否定もしない、など聞いた覚えが…。
兼好と道元の違いも感じてしまいます。
感じるだけ。
武石彰夫のご指摘、メモメモです~。なるほど、っとまでいきたいです。
ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
第59段の話なのですが、谷沢さんの
直感による独断かもしれないわけで、
この機会に他の本で確認してみます。
松尾聡著「徒然草全釈」(清水書院)。
その第59段の【参考】の箇所を引用。
「前段の趣旨を徹底させて、・・・
説得力ゆたかな大文章である。
正法眼蔵随聞記の影響がいちじるしい
と言われる。 」
あと、keiさんの『ここだけ』かどうかの
疑問なのですが、
武石彰夫著「徒然草の仏教圏」(桜楓社)
の第59段への説明の箇所にありました。
「・・兼好が道元の教えをどのように摂取したかは
明確ではないが、『徒然草』中には、
共通を認めうる段がある。しかし、それをもって
兼好の信仰と結びつけるのははやすぎる。
ただ、この段の文章がそういう思想的な営みを
示すスタイルを持ち得ているということ、
中世的思想のかかわり合いの中に、
道元と兼好の考え方が位置づけられる
ということを言っておきたい。・・」(p164)
まあ、専門家ならたちどころに何冊も
引用できるのでしょうが、なんせ素人。
はい。私がわかる範囲はこのくらいです。
ちょっと億劫で調べようとしなかったのですが、
keiさんに、調べるよいチャンスをもらいました。
上人の大きさを読み取れる箇所ですが、
59段の一節が、道元の『正法眼蔵随聞記』からの引用の言葉とは知りませんでした。
教えていただきました。
「ここだけ」
そうなのか…と少し興味を持ちました。
読んでいるということですね?