板坂元著「発想の智恵表現の智恵」(PHP研究所)
をパラパラとめくってみる。
まず、まえがきに芭蕉の名が登場してる。
うん、おもしろそうなので、
パラパラと芭蕉が登場する箇所を
ピックアップしてみることに。
まずは、こんな箇所。
「かつて私が書いた芭蕉の『おくのほそ道』の文を
ほとんど丸写しにされたことがあった。
また、私の学んだ某大学助教授は他大学の資料を
了解なしに発表して大騒ぎになったこともあった。」
とはじまる文の最後は
「たとえどんな小さい問題でも、既に学会の定説に
なっているもの以外は、いちいち断ってその説を
立てた人の名前を記す必要がある。几帳面な人は
『何月何日の何々との談話による』とか
『某氏の手紙による』などとフットノートを
つけている人もいるが、そういうクセを若いとき
から身につけておくことは非常に大切だ。」(p74)
関連しそうな箇所として
「学界というところは、人の尻にくっついて歩いて、
すぐ自分の著作に取り入れようとする手合いが多い。
『おくのほそ道』の語句の研究をしていたころ、
私が発見すると、すかさず自分の著書に我が物顔に
借用する泥棒猫のような学者がいて、
腹が立ってしかたがない。・・・・
私は面倒くさくなって、調べたことを発表するのを
中止してしまった。カードもちゃんと揃っているし、
多少は新しい説も持っているけれども、自分だけ楽しんで、
他人の著作を見ては『こいつは知らねぇな』とほくそ笑む。
その楽しみは意地悪に違いないのだが・・・」(p154~155)
この本の最後にも芭蕉が登場しておりました。
それも引用しておきます。
「私たちが学生のころ、俳諧を勉強していて、
芭蕉やら蕪村やらの真蹟というものを調べるとき、
先輩から本物ばかりをたくさん見るようにとよくいわれた。
芭蕉の書いたと称されるものは、
おそらく99%はニセモノだろう。・・・
これは書画とかだけの問題でなく・・・
生活万般に言えることだと思う。
読書にしても、すぐれた古典的なものを
繰り返し読むことによって、鑑識眼ができてくる。・・」(p202)
をパラパラとめくってみる。
まず、まえがきに芭蕉の名が登場してる。
うん、おもしろそうなので、
パラパラと芭蕉が登場する箇所を
ピックアップしてみることに。
まずは、こんな箇所。
「かつて私が書いた芭蕉の『おくのほそ道』の文を
ほとんど丸写しにされたことがあった。
また、私の学んだ某大学助教授は他大学の資料を
了解なしに発表して大騒ぎになったこともあった。」
とはじまる文の最後は
「たとえどんな小さい問題でも、既に学会の定説に
なっているもの以外は、いちいち断ってその説を
立てた人の名前を記す必要がある。几帳面な人は
『何月何日の何々との談話による』とか
『某氏の手紙による』などとフットノートを
つけている人もいるが、そういうクセを若いとき
から身につけておくことは非常に大切だ。」(p74)
関連しそうな箇所として
「学界というところは、人の尻にくっついて歩いて、
すぐ自分の著作に取り入れようとする手合いが多い。
『おくのほそ道』の語句の研究をしていたころ、
私が発見すると、すかさず自分の著書に我が物顔に
借用する泥棒猫のような学者がいて、
腹が立ってしかたがない。・・・・
私は面倒くさくなって、調べたことを発表するのを
中止してしまった。カードもちゃんと揃っているし、
多少は新しい説も持っているけれども、自分だけ楽しんで、
他人の著作を見ては『こいつは知らねぇな』とほくそ笑む。
その楽しみは意地悪に違いないのだが・・・」(p154~155)
この本の最後にも芭蕉が登場しておりました。
それも引用しておきます。
「私たちが学生のころ、俳諧を勉強していて、
芭蕉やら蕪村やらの真蹟というものを調べるとき、
先輩から本物ばかりをたくさん見るようにとよくいわれた。
芭蕉の書いたと称されるものは、
おそらく99%はニセモノだろう。・・・
これは書画とかだけの問題でなく・・・
生活万般に言えることだと思う。
読書にしても、すぐれた古典的なものを
繰り返し読むことによって、鑑識眼ができてくる。・・」(p202)
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