雑誌「新潮45」7月号の新潮社新刊案内。
新潮文庫6月の新刊に、
新田次郎誕生100年記念フェアとして、
新田次郎の二冊が並んでおりました。
「つぶやき岩の秘密」という少年冒険小説と、
もう一冊が「小説に書けなかった自伝」。
さっそく、その自伝の方を購入。
ということで、そのお話。
「司馬遼太郎が考えたこと 15」に
「本の話 新田次郎氏のことども」という文があります。
そのなかに
「『強力伝』という作品で、直木賞を受賞された。当時、私はこういう、筋骨と精神力をともなう専門家が、小説を書きはじめたこと自体、明治後の小説家の歴史における異変だとおもっていた。」という指摘があります。
さて、「小説に書けなかった自伝」のはじまりは
「小説を書くようになった動機はなにかとよく訊ねられる。それに対して私は、妻が『流れる星は生きている』を書き、それがベストセラーになったのに刺激されて、おれもひとつやってみようかということになり、初めて書いたのが『強力伝』で、それ以後小説から足を抜くことができなくなったと判で押したように答えている。だいたいこのとおりであるが、もう少し詳しく説明すると、そもそもの動機は『筆の内職(アルバイト)』をしたいということから発した生活上の要求であって、文学とか小説とかいうものとはなんのかかわりもない出発だった。」
ところで、司馬さんは「本の話」のなかで、
新田次郎氏に新聞の連載小説をたのみに、東京へと出張します。
「私が三十代だった昭和三十一、二年のころである。私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。」
この時に、司馬さんは断られて帰ってくるのでした。
新潮文庫「小説に書けなかった自伝」をパラパラひらいていると、
昭和三十四年のことが出てきます。
「昭和三十四年の三月半ばころ、『週刊新潮』編集部の新田敞(ひろし)さんが気象庁へ私を尋ねて来た。」(p88)
そこで、新田次郎氏は連作小説を引き受けることになるのでした。
まず、三篇を書いてわたすと
「三日ほど経ってから、南さんがやって来て、
『全部駄目でした。別なものをお願いしたいのですが』
と済まなそうな顔で云った。どこそこを書き直せというならば話は分るけれど、別なものを書けというのは三つとも『週刊新潮』に載せられないような原稿だという意味である。これにはショックを受けた。五時の過ぎるのを待って役所を出て、神田の喫茶店で南さんにくわしく話を聞いてみると、この小説を『週刊新潮』に載せるかどうかは編集担当重役の斎藤十一さんが決定することになっているので、われわれとしてはどうにもならないということだった。」(p90)
うん。ここから新田さんはどうするか?
ちなみに、この文庫「小説に書けなかった自伝」は
本文のあとに、28ページほどの新田次郎年譜。
藤原てい「わが夫 新田次郎」。
藤原正彦「父 新田次郎と私」が掲載されております。
興味深いのは、この自伝を読むと、
同時発売の新潮文庫「つぶやき岩の秘密」を読みたくなる。
ということで、その興味をそそる箇所を引用。
「まだまだ小説について経験の少ない私には、少年小説のほうが大人の小説より、遥かにむずかしいものであるということを知らなかった。」(p13)
というのは「小説に書けなかった自伝」のはじめのほうに出てきます。そして「自伝」の「八甲田山死の彷徨」の章に、こうあるのでした。
「私は昭和46年の2月の始めに、三浦海岸の新潮社の海の家にカンヅメになった。」
「附近の自然林の山桜が散ったころ、私はふじ(注・日本犬)と桑原さんの一人息子の貞俊君と海岸に出た。南に向って少し歩くと海を見おろす絶壁の上に豪奢な別荘がある。以前からその家の存在が気になっていたので、貞俊君と相談して海の方からよじ登ってみることにした。少年を先頭にしてかなりな急傾面の藪を這い登ると、そこに有刺鉄線が張ってあった。その有刺鉄線にそって迂回して行くと門があった。なんとそれは三浦朱門、曽野綾子さん御夫婦の別邸だった。・・・この年の秋『八甲田山死の彷徨』が出版されるころ、私はもう一本書きおろしをやっていた。・・・新潮社出版部が企画した『新潮少年文庫』に参加したのである。私は『つぶやき岩の秘密』という少年小説を書いた。三浦海岸を舞台にした、一種の冒険探偵小説のようなものだった。海を見下す崖の上に、白髪の老人が一人で住んでいるという想定から始まった。三浦朱門さんの別荘がモデルとなった。彼の家のすぐ裏手にある、円墳塚もまた、この小説の重要な鍵となり、彼の家の直下にあたる、大洞窟の存在と潮流との関係・・・・」(p201)
と、楽しめました。お名前だけでしたが
齋藤十一・三浦朱門・曽野綾子と登場しており。
どなたも、直接には会っておられないよな、
袖振り合うも他生の縁みたいな、
自伝での登場の仕方でした。
それが印象に残ります。
私は「八甲田山死の彷徨」未読。
新潮文庫6月の新刊に、
新田次郎誕生100年記念フェアとして、
新田次郎の二冊が並んでおりました。
「つぶやき岩の秘密」という少年冒険小説と、
もう一冊が「小説に書けなかった自伝」。
さっそく、その自伝の方を購入。
ということで、そのお話。
「司馬遼太郎が考えたこと 15」に
「本の話 新田次郎氏のことども」という文があります。
そのなかに
「『強力伝』という作品で、直木賞を受賞された。当時、私はこういう、筋骨と精神力をともなう専門家が、小説を書きはじめたこと自体、明治後の小説家の歴史における異変だとおもっていた。」という指摘があります。
さて、「小説に書けなかった自伝」のはじまりは
「小説を書くようになった動機はなにかとよく訊ねられる。それに対して私は、妻が『流れる星は生きている』を書き、それがベストセラーになったのに刺激されて、おれもひとつやってみようかということになり、初めて書いたのが『強力伝』で、それ以後小説から足を抜くことができなくなったと判で押したように答えている。だいたいこのとおりであるが、もう少し詳しく説明すると、そもそもの動機は『筆の内職(アルバイト)』をしたいということから発した生活上の要求であって、文学とか小説とかいうものとはなんのかかわりもない出発だった。」
ところで、司馬さんは「本の話」のなかで、
新田次郎氏に新聞の連載小説をたのみに、東京へと出張します。
「私が三十代だった昭和三十一、二年のころである。私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。」
この時に、司馬さんは断られて帰ってくるのでした。
新潮文庫「小説に書けなかった自伝」をパラパラひらいていると、
昭和三十四年のことが出てきます。
「昭和三十四年の三月半ばころ、『週刊新潮』編集部の新田敞(ひろし)さんが気象庁へ私を尋ねて来た。」(p88)
そこで、新田次郎氏は連作小説を引き受けることになるのでした。
まず、三篇を書いてわたすと
「三日ほど経ってから、南さんがやって来て、
『全部駄目でした。別なものをお願いしたいのですが』
と済まなそうな顔で云った。どこそこを書き直せというならば話は分るけれど、別なものを書けというのは三つとも『週刊新潮』に載せられないような原稿だという意味である。これにはショックを受けた。五時の過ぎるのを待って役所を出て、神田の喫茶店で南さんにくわしく話を聞いてみると、この小説を『週刊新潮』に載せるかどうかは編集担当重役の斎藤十一さんが決定することになっているので、われわれとしてはどうにもならないということだった。」(p90)
うん。ここから新田さんはどうするか?
ちなみに、この文庫「小説に書けなかった自伝」は
本文のあとに、28ページほどの新田次郎年譜。
藤原てい「わが夫 新田次郎」。
藤原正彦「父 新田次郎と私」が掲載されております。
興味深いのは、この自伝を読むと、
同時発売の新潮文庫「つぶやき岩の秘密」を読みたくなる。
ということで、その興味をそそる箇所を引用。
「まだまだ小説について経験の少ない私には、少年小説のほうが大人の小説より、遥かにむずかしいものであるということを知らなかった。」(p13)
というのは「小説に書けなかった自伝」のはじめのほうに出てきます。そして「自伝」の「八甲田山死の彷徨」の章に、こうあるのでした。
「私は昭和46年の2月の始めに、三浦海岸の新潮社の海の家にカンヅメになった。」
「附近の自然林の山桜が散ったころ、私はふじ(注・日本犬)と桑原さんの一人息子の貞俊君と海岸に出た。南に向って少し歩くと海を見おろす絶壁の上に豪奢な別荘がある。以前からその家の存在が気になっていたので、貞俊君と相談して海の方からよじ登ってみることにした。少年を先頭にしてかなりな急傾面の藪を這い登ると、そこに有刺鉄線が張ってあった。その有刺鉄線にそって迂回して行くと門があった。なんとそれは三浦朱門、曽野綾子さん御夫婦の別邸だった。・・・この年の秋『八甲田山死の彷徨』が出版されるころ、私はもう一本書きおろしをやっていた。・・・新潮社出版部が企画した『新潮少年文庫』に参加したのである。私は『つぶやき岩の秘密』という少年小説を書いた。三浦海岸を舞台にした、一種の冒険探偵小説のようなものだった。海を見下す崖の上に、白髪の老人が一人で住んでいるという想定から始まった。三浦朱門さんの別荘がモデルとなった。彼の家のすぐ裏手にある、円墳塚もまた、この小説の重要な鍵となり、彼の家の直下にあたる、大洞窟の存在と潮流との関係・・・・」(p201)
と、楽しめました。お名前だけでしたが
齋藤十一・三浦朱門・曽野綾子と登場しており。
どなたも、直接には会っておられないよな、
袖振り合うも他生の縁みたいな、
自伝での登場の仕方でした。
それが印象に残ります。
私は「八甲田山死の彷徨」未読。